第4章 1992年
献身に対する自問自答(5)


だが秋のシーズンを通して、僕はオープンでのエドバーグに対する敗戦を思い出していた。それは僕の勇気を徐々に浸食していった。僕は時折、かつて父がシュリーブポートで言った事について考えた。確かに、僕はUSオープンのファイナリストだった。だが誰が気にかけるというのか? マスコミが―――そして誰もが―――注目するのはエドバーグだった。

僕は悟るに至った。明白になった真実は、僕は試合の前に緊張していたのではなかったという事だ。テニスには言わば2種類の緊張感がある。悪い緊張感、それは選手を凍りつかせ、弱気なゲームをさせる。または肝心な場面ですくみ上がらせる。そして良い緊張感とは、これからプレーする試合が自分にとって本当に大きな意味があるというサイン――たとえ勝利を保証されていなくとも、戦いの場に臨み、対戦相手と競い合うのが待ちきれないという前兆なのだ。それは偉大なフットボール選手でも、大試合の前には嘔吐する類の緊張感だ。

同じく、決勝戦の出来が良くなかった事についても考えた。もちろん、風の影響もあったかも知れない。僕の食中毒も要因の1つだったかも知れない。決勝に至るまでの死闘によるステファン自身の疲労も、同じく影響していただろう。だが僕は考え続けていた。彼があまり良いプレーをせず、僕もあまり良いプレーをしていなかったのなら、なぜ彼は勝利したのか? その答えは何週間もかけて、ゆっくりと見えてきた。初めて、僕は真実を理解し、そして明確に表現できた。僕はすでに降参していたから負けたのだ、そしてそれは僕の傾向の一部になっている、と。

真実と向かい合う事で、僕は認める事ができた。1992年にあった2つの重大な機会―――ウィンブルドン準決勝のゴラン戦、そしてオープン決勝のエドバーグ戦―――で、自分にはまだ頼みとする余力が残っていたのに、僕は事実上試合を放棄してしまったのだ、と。エドバーグ戦は最後のわずかな付け足しだった。もし僕が気にかけないのなら、誰が気にかけるというのか? 僕はすでに2つの大きな機会を無駄にしていた。そして再びそういった機会に恵まれるという保証はなかったのだ。

僕の将来はもはや、大きな大会で優勝できるような優れた選手になる事が問題ではなかった。僕はその立場にいた。充分に優れていた。技術的あるいは身体的には、もはや進化の途上ではなかった。僕はすでに成熟していたのだ(芝生でのゲーム以外は)。真の問題は、僕はメジャーで優勝する事を望んでいるのか? という事だった。エドバーグ戦は、僕にその問題と直面させたのだ。僕はゆっくりと、自分自身についてのあまり好ましくない認識に到達した。誰にも、父にさえ話さなかった。それはごく簡単な事と言えた。僕が言わねばならなかったのは「いいか、僕にはすべき告白がある。僕は大きな好機で何回か降参したのだ」という事だった。だが僕はそれを内に秘め、最も厳しい審判者の許しは請わなかった―――自分自身の。

内なる対話はおよそ2カ月の間続いた。なぜこの問題を必要以上に難しくするのか? 相手が苦しんでいるのを見て、なぜ同様にするのか? と。確かに、僕は自分がゲームのトップへ素早く上りつめた事に、少しばかり圧倒されていた。だが同時に、僕は自分が成し遂げている事に少し満足しすぎていたのだ。最終的に、僕は自分に問いかけた。なぜ、お前はこんなにも弱々しい男なのか? と。

答えを見つけ出すには数年を要した。そしてこれが最も単純な答えだ。誰にもこの世界における居場所がある。そして人生の長い時をかけて、最適の場所を切り開いていくのだ―――自分が快適に感じる領域を。ある男たちは、ナンバー1に到達してこう考える。こんな高みは好きじゃない、孤独すぎる、ストレスが多すぎる、きつすぎる、と。そこで彼らは少し下がった位置に定着する。ナンバー3、ナンバー5、どこであれ快適な領域を見いだす。僕もそうなりかねなかった。キャリアの早期、僕の一部はそうだった。真実は、ナンバー1以外ならどこに位置しても、責任を逃れる事ができるのだ。定期的にメジャー大会の第2週まで進出して、1回か2回ほど優勝し、多くの敬意と賞金を得て、そして素晴らしい、ストレスのない生活を送る事ができる。

僕の献身に対する自問自答が、なぜこのような道すじを辿ったのか、正直に言うと説明できない。だがそうだったのだ。僕には素晴らしい才能があるのに、それを気にかけていなかったと判断を下したのだ。僕には天賦の才能があった。そして僕は、それから顔を背けていた。少なくとも、それが自分に難局を切り抜けさせうる恐らく唯一のものであった、まさしくその機会に。僕にとっては、集団の一員でいるのは充分でなくなっていた。その事は僕を苦しめ、すり減らしていった。ゲームとはどこかに到達する事ではなく、どこかに留まる事なのだと実感した。我々の中には、そこに到達すると、その座を失いたくないと思う者がいる。他の誰かがその座を奪うのは見たくないのだ。そしてその事が最終的に、人を戦士にするのだ―――完全に鍛え上げられた、成熟した競技者に。

育む事はできても、本当の意味で人に堅固な決意を教える事はできない。それは自分の内にあるかないかのいずれかで、自分自身で見つけ出さねばならないのだ。そして自分はナンバー1である必要があると決意するなら、責任を逃れる事はできないと理解しなければならない。背中に標的を負い、それと共に生きる事に慣れねばならないのだ。

僕はその用意ができていた。あの1992年のエドバーグ戦は、僕のルビコン川だった。モハメド・アリがオリンピック金メダルをオハイオ川に投げ捨てたという、あの有名な瞬間の僕バージョンだった。
訳注:金メダルを獲得後、黒人差別を受けて金メダルを川に投げ捨てたという話があるが、アリの弟によれば、実は作り話である。
1992年の終わりにあたって、大いなる1993年を送るという強い決意が僕にはあった。


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