第8章 1997〜1998年
ウィンブルドンは永遠に(8)


僕がどうやって何年にもわたり多くの試合に勝つ事ができたかを考えてみると、いくつかの事がカギとして思いつく。まず、僕は自分自身と天賦の才能を信頼していた。キャリアを通して、自分が重大なミスを犯した時はいつも、ただ記憶装置からそれを消し去るだけだった。くよくよ考えるかわりに先へ進むという能力をどのように身につけたかは、自分でもよく分からないが、そういう資質を身につけていたのだ。推測するに、それは情緒的なものというよりは、何らかの精神的機能―――成功に対する人一倍の集中力とでもいうものだった。その大部分は、いちずな意志だった。

腹を立てないよう訓練しても、上手くはいかない―――とはいえ、充分に仕事をするためには、腹を立てにくい性向になる必要はあるだろうが。僕は審判に癇癪を起こした事がなかった。たとえ椅子に座る男が自分から決定的なポイントを奪い、平手打ちを食わせるような苦痛を与えてもだ。選手たちはそれに平静さを失う。僕は彼らがどう感じているか分かる。だが、僕が警告を受けたのはキャリアで1回だけだったと思う―――多くの選手は1試合、それもあまり意味のない試合で、それより多く受けてきている。恐らく僕は、人とは少し違う気質なのだろう。だが僕の精神力、そして究極的には、成功の大部分は、他人の前で自制心を失わないと意識的に決断している事だった。

その一部は、競うなかで優位性を保つ事に関わっていたが、多くは個人的な矜持と、自分が世の中にどう見られたいかという事に関わっていたのだ。

気を散らす事は、勝利を脅かすもう1つの日常的な問題だ。しかしコートに立っている時には、何も僕の心に割り込んでこなかった。それはとても単純な事だった。ガールフレンド、コーチングの問題、家族の問題―――そういった問題は、ほぼいつも心から閉め出す事ができたのだ。そのために努力する必要さえなかった。一貫してピーク・レベルで能力を発揮したいのなら、それは非常に大きな助けとなる。コート上では、僕はすべき事に徹していた。必要に応じて記憶や会話、そして自分で立てた誓いにも頼る事はあったが。それは常に前向きで、集中を鈍らせるものではなかった。

怒り? もし僕が首に青筋を立て、目を三角にして、叫びながらそりかえって歩き回り始めたとしたら、それは見せかけだっただろう。子供の頃には、たまに癇癪を起こす事もあった。だが僕が攻撃的なプレーヤーになり、大人になるにつれて、その態度はどこかに消えていった。人間性が形成され、それを自分自身が理解する段階に達したという事だ。

専門家と称する人やファンは、なぜ僕が怒りや感情をもっと示さないのかと不思議がったりしたが、答えは単純:僕はそれを感じなかった―――言い方を変えれば、怒りを感じる事を自分に許さなかったのだ。その代わりに、内に秘めた。

だが僕も人並みに挫折を経験し、批判される苦痛を感じていた。誰が友人で誰が敵かを記憶するという話なら、誰にも劣らぬほどに点数を記録する事もできる。皆と同じように正義感と公正さも持ちあわせている。だが僕はあの古いことわざを支持していたのだ。つまり「Revenge is a dish best served cold.(仇を討つのは時間をかけてやる方が効果的)

例外はあるが、怒りは良いプレーをして試合に勝つ事への障害となる。ゴラン・イワニセビッチがウィンブルドンでの対戦で、何回か我を失ったのを覚えている。彼がラケットを壊すのを見るたびに、その時点で僕は彼に勝ったと感じたものだった。そのメルトダウンは僕に、僕は相手の平静と意志を打ち砕いたと告げていた。今や僕は、まさに望む場面で彼を捕らえた、と。

同じくどんな相手にも、そんな風に自分を見抜かれたくなかった。つかみ所がないゆえに、僕は対戦相手を少し用心深くし、恐れさせていたのかも知れない。しかしその原動力は、お膳立てした作戦ではなかった。僕は誰も脅しつけようとしなかったし、心理戦も仕掛けなかった。僕の最大の武器は、自分自身だった。僕は最も神経をすり減らす状況にも立ち向かえ、そして対処できる事を示したのだ。冷静で集中した―――僕らしいやり方で。てらいや気取りもなく冷静でいる事によって、僕は数多くの試合に勝利した。

キャリアの初期には、ジョン・マッケンローが文句をつけ、試合を止め、それでも彼のゲームにまったく悪影響が及ばない様に驚嘆した(実際、彼は最悪の態度をとる時に、しばしば最高のプレーをしたのだ)。彼の爆発は、他の人たちを苛立たせるほどには、僕を悩ませなかった。僕はたやすく気を散らす事がなく、我々のゲームは対等であると自信を感じていたからだ。

アンドレ・アガシは我々の対戦で、時に我を失う事があった―――ある年のサンノゼで、彼は2本のラケットを叩き壊し、主審と争って彼を「マザー・フ#$@&%カー」と呼んだのだ。僕は椅子に座ってその様子を見ながら、考えていた。オーケー、アンドレは終わりだ、と。

僕は物事を込み入らせないよう心を砕いた。それは僕の集中を逸らしかねない、テニスと関わりのない人間関係や活動を含めて、多くの事から距離を置いている事を意味した。チャリティ・イベントにはそれほど参加せず、事業の誘いにも応じず、女性を追いかける事もしなかった。他の人ならしない、もしくはできない一定の犠牲を払わねばならないと感じていた:僕はタンパに移り住んで、キャリアの大半はそこを自宅・基地とした。トレーニングには最適の場所だったからだ。それは南カリフォルニアの友人や家族との気晴らしからも、距離をおく事になった。

だが、僕は家族が―――しばしば非常に―――恋しかった。クリスマスの間にフロリダで行う、オーストラリアン・オープンに向けてのトレーニングは気が乗らなかった。多分、僕はこういった事について、セラピストか誰かに相談すべきだったのだろう。というのは脇見をせず、すべてを内に秘め、コークやチーズバーガーといった罪のないささいな物までを自制し、自分のゲームに弱点があると感じる事を誰にも相談できず、あるいは意欲が弱まりはしないかという不安感のはけ口を見いだすのを恐れるがゆえに、肉体的にも精神的にもすり減っていったからだ。

僕はコナーズの記録を破った後、大方の人はより困難な課題、より注目すべき業績と考えるものへの集中から解放された。エマーソンの12グランドスラム・タイトルを抜く事だ。それは他の目標と同じく計画性、努力、決意、技能と運を必要とした。だが消耗するほどの課題ではなかった。過去6年にわたって自分に課していたレベルでプレーしなくても、その記録を得る事ができた。1999年以降は、ランキングや、グランドスラムに次ぐ大会での出来をさほど気にしなくなった。通常のツアー大会の大半は、僕の心の中では勝とうが負けようが一緒だった。同時に、新しいライバル達が出現してきて、僕は以前よりも試合に負けるようになっていった。


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