第6章 1994〜1995年
栄光の門(7)


USオープン決勝から2週間足らずで、デビスカップ・チームはラスベガスに再び集合し、ホスト国としてスウェーデンを迎えた。ベガスでの雰囲気はリラックスしたものだった。我々は少々ギャンブルをしたり、ある晩は全員がアンドレの家に集まって、ベガスのシェフが料理した豪華なディナーを楽しんだりした。食事の後に、アンドレは我々の何人かを彼のハマーで、ベガス周辺の砂丘と山へとドライブに連れて行ってくれた。

監督のトム・ガリクソンは、皆が満足して快適であるようにと、自ら進んでハマーの後部にかがみ込むような姿勢で乗り込んだ。間もなくアンドレはものすごい勢いで山々を上り下りして、ハマーは狂ったように跳ねていた―――すこぶる面白かった、トム以外の皆には。トムは後部で縫いぐるみ人形のように転げ回り、頭や肩、膝をぶつけていたのだ。後部から聞こえてきたのは「おぅ……おぉぉぉ……えぇぇぇ……あぁぁぁぁぁ!」だけだった。

ティムは、病状は悪化を続けていたが、タイに参列したいと決心していた―――主治医のアドバイスに従わず。USTA(アメリカ・テニス協会)とテニス界の誰もが彼の希望をサポートし、ティムは兄弟と共に、一種の非公式な共同監督としてベガスへやって来た。テニスコートの近くで再び彼に会うのは素晴らしかった―――ゲーム周辺の人々や選手たちが、今なお彼の気持ちを重んじてくれると知るのは素晴らしい事だった。だが彼は非常にやせ衰え、弱々しく見えた。ひと目見ただけで、彼の具合は良くないと分かった。

アンドレと僕は初日のシングルスで勝利したが、スウェーデン・チームはダブルスを勝ち取った。アンドレはその試合に、ファスナーを開けたウォームアップ・ウェアの下に右腕を包帯で吊って現れた。彼は初日のシングルスで胸筋を痛め、タイを続ける事ができなくなっていたのだ。我々はダブルスを失ったが、翌日にはトッドがアンドレに代わって試合に臨み、エンクイストに3セットで勝ってタイの勝利を確定した。それから USTA はスウェーデンの役員に、勝敗には関わりのない僕とビランデルの試合に、ティムが兄弟(そして我々の監督)と並んでコートに座ってもかまわないかと尋ねた。スウェーデンの皆は常に善人だが、同意してくれた。

タイの後、合衆国チームの部屋は友人、家族、 USTA の役員、ITF(国際テニス連盟)の役員といった集団や、いつもの取り巻きで溢れかえっていた。ふとした瞬間に、僕は部屋の向こう側に目をやり、ティムと目を見交わした。その時までに彼の表情はうつろになり始めていたが、彼の目―――本来は濃いブルー―――は輝いているかのようだった。一瞬、我々は互いを見合った。そして互いに相手が何を考えているか分かった:これは我々の瞬間であるべきだ。他の人々はすべて無関係だ。これは我々2人のもので、我々が成し遂げた事、あるいは互いの信頼感を奪い去る事はできない、と。僕はあの瞬間を、もしくはあのアイコンタクトを忘れた事はない。それは今日に至るまで、ティムに関する永遠の記憶として僕と共にあるのだ。

決勝戦は11月にモスクワで行われたが、僕がチームを勝利に導くのをティムがどれほど見たがっているか承知していた。それは厳しく困難な仕事だった。ロシア・チームは予想どおり、屋内の非常に遅いレッドクレーでタイを主催したからだ。ジム・クーリエとアンドレ・アガシは、クレーで誰にも劣らぬほどタフではあったが、ロシア側としては正しい選択だった。だが1つだけ支障があった―――アンドレはいまだ胸筋の怪我の治療中だったのだ。我々は最後の土壇場まで、アンドレが出場できるまでに回復するのを願っていた。つまり僕の仕事は、扱いやすいものになる事を意味していた。アンドレとジムがシングルスで重責を担うのに対して、我々の仕事は確実にダブルスで勝利する事だったのだ。僕はダブルスで勝つ事に自信を持っていた―――トッド・マーチンと共にデビスカップのダブルスを戦うのは気に入っていた。そして僕はクレーに対して好悪相反する感情を持っていたが、ダブルスは楽しみながら自信を持ってプレーしていたのだ。

我々は土曜日、初日である金曜日の6日前にモスクワに到着した。アンドレからは既に、プレーはできないが、チーム・スピリットと連帯意識を示すためタイに出席するとのメッセージが送られてきていた。それで計画は固まった。トムは僕がシングルスに出場すると発表した。もちろん、僕自身がその仕事にふさわしくないと感じ、決定に不平を言いたてない限りは、と。厄介な立場をどうしたらいい? 僕が何を言うというのか。「いやだ、トム、僕は適役じゃない。トッドかリッチーにしてくれ」とでも? リヨンでの出来事が甦ってきた―――あの大惨事が。

だがモスクワでのチーム・スピリットは素晴らしかった。そして我々には幸いな事に、その時までにロシアは変化していた。我々は立派なホテルでもてなされ、食事も素晴らしかった。我々は互いに対しても、とても快適に感じていた。そしてアンドレがモスクワに来てくれたのは、大いに我々の士気を高める助けとなった。彼はボールを打つ事もなく、ただベンチに座っているだけと承知の上で、長い1年の終わりに長い旅をしてくれたのだ。

我々は少しばかり観光もした―――赤の広場へ行き、レーニン廟を見学したのだ。そこでは PR 用の写真撮影もした。僕はこの旅行に父と姉のステラを伴った事に満足していた。父はデビスカップに熱心だったのではなく、ロシアに興味をそそられていたのだ。僕は、お父さん、僕はチョップレバー(くだらない奴)か何かかな?といった感じだった。だが父が見ている前で「おそまつな」プレーはしたくなかった。

僕はタイの第1試合で、この世代の最も頑強なレトリーバー(猟犬の1種)の1人、アンドレイ・チェスノコフと対戦した。チェスノコフはレッドクレーを愛する赤土の悪魔だった。すべてのボールを追いかけ、そして対戦相手を根負けさせるのが得意だったのだ。大柄ではないが、引き締まった強健な身体つきの、大いなるスタミナの持ち主だった。クレーで彼を捕らえるのは、いかなる時でも厳しい課題だった。レッドクレーが遅くなくても、僕の不安を和らげるものではなかったが、実際はぬかるみのようだった。ロシアチームはコートに水をまき散らし、可能な限り遅くしようとしていたのだ。僕にとって唯一の救いは、会場が巨大なオリンピック・スタジアムで、観客の影響力がさほどないという事だった。会場にはおよそ2万人近くのファンがいたが、コートから非常に離れていたので、もっと少なく感じられたのだ。

チェシーがクレーでどれほど有能かを承知していたので、僕は最初から強打で攻めていった。素早くポイントを勝ち取らねばならないと感じ、若干のまずい判断もした。また、最高の体調ではない事もあって、つい力ずくでねじ伏せたがってしまった。どうしてこんな状況に陥ったのか、僕は考えていた―――僕がシングルスを戦うとは、誰も予想さえしていなかったのだ! だが様々な事があったにもかかわらず、精神的には試合に打ち込んでいた。僕はとにかく踏みとどまり、ボールを打って、成り行きを見ようと考えていた。これは単なるテニスの試合で、勝つかどうかは神のみぞ知るという事実が僕の気持ちを楽にしていた。

恐らく僕にとって最大の利点は、僕がピート・サンプラスであり、そしてチェシーも僕もそれを知っているという事だった。彼は僕を、世界トップの選手(僕はその時までにアンドレからナンバー1の座を取り戻していた)を倒す事の意味を知っていた。そしてロシアじゅうの希望と国家の威信が、デビスカップ決勝戦で彼の肩にかかっていたのだ。プレッシャーの問題だ。チェスノコフは第1セットを勝ち取った。その事で彼はガードが下がり、少し集中力を失ったのだと思う。そういう事はよく起こるのだ。それはボールから目を離す事と同等の精神的な揺らぎだ。

僕は充分なだけのウィナーを放ち、チェシー の態勢を整わせない攻撃で充分なだけのポイントを獲得し、次の競り合った2セットを勝ち取った。チェシーは持ち直し―――総じて彼は、強い心と意志を持つ優れた競技者だった―――そして第4セットのタイブレークを取った。だが第5セットでは、僕はもう少し自由に攻撃した。そして彼は、自分から攻めていくべきか、あるいは僕に先手を取らせて、僕がしくじるか疲れるかも知れない事を期待するか、決めかねているようだった。

チェシーは(常により心をそそる)後者のコースを選んだ。ベースライン・プレーヤーがしばしば取る方法だ。彼は基本的に、事態を僕の手に委ねたのだ。僕は主導権を握る事にためらいはなく、全力を注ぎ込んだ。マッチポイントを握ったが、フォアハンドを強打しながら、ケイレンが起きているのを感じ始めた。僕はショットの後にネットへと走った。チェスノコフが狙いを定めてパッシングショットを放った時、僕は四肢のコントロールを失って動けなくなり、倒れ込んだ。

幸運にも、 チェシーはパスをミスして終わった。僕は試合に勝っていたのだった。

ベンチの合衆国チームは僕が苦しんでいるのを見ていたが、コートに殺到した。誰かがケイレンを起こしているのを見た事があれば分かるだろうが、見よい光景ではない。永続的なダメージを与えるものではないが、ケイレンは奇妙な引きつりを起こさせるのだ。我々のデビスカップ・トレーナー、ボビー・ラッソと長年のチーム・ドクター、ジョージ・ファリードがコートに飛び出してきて、僕を引っ張り上げた。

通常は、 ファリード医師はどんな場面でも冷静な男だ。だが、その彼が叫び始めた。「道を空けてくれ! どいて!」。彼は「通るぞ!」と怒鳴り立てた。

まるで僕が頭か何かを銃で撃たれ、彼らは僕を緊急治療室に連れて行こうとしているかのようだった。気分は悪かったが、僕は可笑しくてたまらなくなった。そして突然、笑い転げてしまった。医師がこれを大ごとと捉えていたからだ。彼らは最終的に僕をロッカールームへと引きずり込み、ケイレンを素早く止めるための錠剤を呑ませてくれた。だがファリード医師の慌てふためいた対応を思い起こすたびに、僕は笑いだしてしまうのだ。

残念な事に、ジムは金曜日の第2試合でエフゲニー・カフェルニコフに敗れ、我々は1勝1敗のイーブンとなった。トムが僕をシングルスに使うと決定した時、ダブルスチームとしてはトッドとリッチー・レネバーグを仮に予定していた。だが勝敗がイーブンとなり、トムは考え直した。タイが1勝1敗の膠着状態になった時は常に、ダブルスで勝利したチームに、最終日のシングルスでは大きなアドバンテージがあり―――プレッシャーはずっと軽くなるのだ。それがデビスカップの妙味の1つであり―――ダブルスの重要性を意味する。通常の大会では、シングルスに次ぐ第2バイオリンの位置づけなのだが。

トムは僕に、ダブルスをする事についてどう思うかと尋ねた。僕は答えた。「まあ、もっと調子の良い日もあるが………うん、やるよ」と。それで翌日、トッドと僕はダブルスに出場し、勝利を得るためにとても堅実な試合をした。ガリーの臨機応変な決断が生み出した最も貴重な副産物は、それがロシアチームを驚かせたという事だった。あっという間に彼らは1勝2敗となり、敗北の瀬戸際にいた。そしてホームコートの有利さがあるとはいえ、世界トップの選手2人を倒さねばならないという事態に直面していた。そのクレーは、僕が初日に果たした事の後では、恐らく彼らにほとんど快適さを供給しないサーフェスとなっていた。僕は支配的な世界ナンバー1選手で、タイの勝敗の鍵を握っていたのだ。

日曜日、僕は第1試合に出場した。脚は少し重く感じられたが、偉業まであと1試合だと承知していた。そして僕はカフェルニコフと対戦する事になっていた。僕は彼との対戦をいつも楽しんでいた―――彼は優れた選手で、下位の男たちには居丈高だったが、いつも僕のゲームに敬服していたのだ。今や彼は、自国のデビスカップ優勝の希望を繋ぎ止めるために、僕を倒さねばならなかった。

どういう訳か、僕はここぞという場面ではたいてい素晴らしい試合をした。それを運命とでも、運が向いているとでも、何とでも呼んでほしい。基本的には、エフゲニーにはまったくチャンスがなかった。僕は少しばかりゾーン状態に入り込でいたのだ。あのチェスノコフ戦を切り抜けた事で気が楽になり、何でも可能だという気分になっていた。さらにダブルスで勝った事も悪くなかった。僕はカフェルニコフに対して様々な戦術を織り交ぜた。サーブ&ボレーもし、ステイバックもして、代わる代わるビッグショットで攻撃する事によって、彼の平静とバランスを崩し続けた。そして彼が僕を損なうために何を―――もし何かあるなら―――持ち出せるかを窺っていた。

僕は6-2、6-4とリードした。そしてカフェルニコフにとって最後のかすかな希望は、第3セットのタイブレークで瞬く間に消え去った。僕は6-4リードとし、最後にセンターへのエースを放って試合を終わらせた。トムはコートに突進してきた。とても、とても感情的になっていた。彼がまず僕に囁きかけたのは、「ティムがここにいて、見られたら良かったなぁ」という言葉だった。

感動的な瞬間だった。そしてすぐ後にはチーム全員が我々を取り巻き、みんな感情を開けっぴろげにして、コート上で勝利を祝っていた。アンドレは1年を通して僕と共に責任を担ってきたが、そこにいて喜びを分かち合っていた。僕は彼が状況を受け入れ、ここまで来てくれた事を本当に感謝していた。彼はそれをしない事もできた筈だった。特に、USオープン決勝で僕に手痛い敗戦を喫し、引き続いて胸筋を痛めた事で、彼の素晴らしい1年が台なしになった後では。

当時はそんな風に思わなかったが、あのデビスカップでのプレーは僕のキャリアのハイライトとなり、デビスカップで語り継がれる1章となった。だが、合衆国ではほとんどメディアの注目を集めなかった。モスクワにアメリカ人記者がいたかどうかも定かではない―――神出鬼没のバド・コリンズを除いては。僕はいまだに、どのように勝利が実現したのかを説明する事ができない。だが、我々が陥った深刻な難局が、かえってチームを気楽にさせたという面白い印象を感じている。我々が失うものは何もなく、プレッシャーは大して感じなかったのだ。

勝敗に関わらない第5試合の後、我々の祝勝会はロッカールームへと移った。そして夜には、USTA と ITF のお偉方やデビスカップ・スポンサー等いつもの面々との行事があった。それがデビスカップに関する奇妙な事だ。仲間との途方もない友情を感じ、チーム、コーチ、そしてファリード医師やボビー・ラッソのようなサポート要員とも素晴らしい一体感を感じているのだ。優勝を遂げ、そして最高の瞬間は、公に開かれる前のチームルーム、あるいはロッカールームにある。仲間と一緒にシャンパンを開けて飲み、笑い合い、次には公式の宴会に備える。その後には、皆が散り散りになる。一緒に旅をする事さえない。なぜなら通常は、みんな別の場所へ向かう運命にあるからだ。

それは西部劇映画の名作「荒野の七人」のようだ。悪漢を倒して町を救うために集まる、選ばれたガンマンのグループにいる。そして仕事が終わると、別れてあてどなく放浪する。それらのガンマンのように、一匹狼なのだ。テニスプレーヤーは。


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