第2章 1986〜1990年
ニューヨークのおとぎ話(3)


1990年8月下旬、ジョー・ブランディと僕はUSオープンのためニューヨークへやって来て、パーカー・メリディアンに宿泊した。僕は都会の生活を楽しむタイプではなく、プレーヤーホテルから仕事へと向かう内気な19歳にすぎなかった。ブランディが鼾をかいたかどうかは覚えていないが、僕は共有の部屋で熟睡できた。僕には失うものが何もなかったからだ。プレッシャーはまったくなかった。大会の最中、一緒に過ごした人間は、ブランディの他には友人のジム・クーリエだけだった。

ライバルや専門家、事情通のファンには注目されていたとはいえ、僕はあくまでダーク・ホースとしてフラッシング・メドウで冒険に乗り出した。1990年を通して、僕は徐々に動きが良くなり、オールラウンドの運動選手となっていき、サーブは――すでに大いに上達していたが――どんどん良くなっていった。コーチングや技術的に魔法の薬があったわけではなかった。突如としてビッグサーブが現れ、月日とともに良くなっていったのだ。

オープンの早いラウンドで、僕はダン・ゴルディ、ピーター・ランドグレン、ヤコブ・ラセクを破った。堅実な勝利で、ラウンドを追うごとに勢いは増していくようだった。僕は勢いに乗り続け、ほぼ大会の間じゅう、いわゆるゾーン状態だった――ゾーンとは、上手くいかない事は何もないという穏やかな精神と肉体の状態で、ボールはグレープフルーツのように大きく見え、妨げるものも止めるものもないように思えるのだ。もしレンドルに再挑戦する最適の時があるならば、それは――このフラッシング・メドウにおける準々決勝だった。とはいえ厳しい課題だった。レンドルは何回もグランドスラムで優勝したチャンピオンで、マッケンローよりも多くのビッグタイトルを獲得していた。そして、前例のない9年連続のUSオープン決勝進出を狙っていたのだ。彼は絶頂期、あるいはそれに極めて近い位置にいて、履歴書に追加しようという意欲にその時でも駆り立てられていた。これは'89年のビランデル戦とは違うものだった。

僕には、ミラノで攻めたてられたようにはならないと期待するだけの理由があった。僕はすでにイワンのAゲームを知っていたから、もう驚く事はない。さらに、上達したサービスゲームはより攻撃力を与えてくれる。僕をもう少し危険な存在にし、それは肉体的にも心理的にも関わってくるのだ。イワンと対戦してから6カ月が経ち、僕はもっと強く、シャープになっていた。僕はそれを感じ、そして得たものを発揮できると知っていた。サービスゲームでは、彼を僕がリターンの時におかれた状態にするのだ。だが、試合がグラウンドストロークで決するかも知れないという事は、必ずしも喜ばしくはなかった。その分野では、レンドルはまだ僕を打ち負かすからだ――簡単に。僕がすべき事は、試合をサービス合戦にする事だった。

僕は最初の2セットを6-4、7-6で勝ち取った。質の高いテニスだった。僕はビッグサーブを放ち、基本的な戦略はサービスゲームを楽にキープして、そこここで何本かフォアのウィナーを叩きつけるというものだった――イワンのゲームか気力に一瞬でも綻びができたら、それに乗じるだけの。だが第2セットの後、僕はすでに勝ったような気になってしまった――幾度となく追い込まれ、その難局を脱してきた豊富な経験を持つ、強力な相手に立ち向かっているという事実を無視してしまったのだ。それはまさしくレンドルの経験と意志がハイギアに入り込む時なのだ。

レンドルは怒濤の勢いで盛り返してきた。8年連続でUSオープン決勝に進出し、8つのグランドスラム・タイトルを獲得してきた強さは、心身共に燃料を与えていた。彼は次の2セットを6-3、6-4で取り返した。だが第5セットでは、僕のサーブはさらに強さを増し、試合の早い段階よりも効果的になっていくようだった。僕はエースを連発し始めた。彼がサービスキープで追いつくのに苦労しているのが見てとれた。そして彼が猛烈なカムバックをしてきても、僕がパニックを感じなかったのは助けとなった。恐れは無し。

僕がイワンにさせてしまったように、相手を窮地から逃れさせてしまうと、こういう小声が聞こえてくるかも知れない。一度は彼を捕らえたのに、今おまえは困難に直面している……。パニックに陥るな、だがこれは、ちょっと怖い……。安全に行け……攻撃的に行け……自分のゲームを忘れろ……私の声を聴け。我々は何かをしなければならない! と。その声を聞く事は、競技者にとって破滅のもとだ。もし僕がそれに注意を払っていたら、あの試合に負けていただろう。確実に。そして、あの試合に負けていたら、将来の似たような状況で、僕はまたその問答に入り込んだ可能性がある。勝利する事は習慣である、という説は真実なのだ。ひとたびパンドラの疑いの箱を開けると、あらゆる不快なものが飛び出してくるのだ。疑いを抱く瞬間にも明晰さを求めるよう自分を訓練する事がどれほど重要か。冷静を保ち、自分の能力を完全に信じなければならないのだ。それには強い精神を必要とする。

僕はそれができた。その事は僕がその後のキャリアを確立する助けとなった。エースがラケットから次々に飛び出し、僕は第5セットを6-2で逃げ切って勝利を収めた。結局のところ、僕をその状態から切り抜けさせたのは自分のゲームであって、心意気や精神ではなかった。だがそれら2つのいずれも、事態を台無しにする事もなかった。すべてが終わった時、僕は競技者としてより高みに達していた。「スポーツ・イラストレイテッド」誌が 'A STAR IS BORN'(スター誕生)という見出しを世に送り出したのはあの試合だった。

だが当時は、僕は気に留めていなかった。ただマッケンローとの準決勝における再戦の準備に集中していた。試合前にオフが1日あり、その間に幾つかのインタビューを受けた。だが、それでもプレッシャーを感じなかった。皮肉な話だった――子供の頃、僕はUSオープンのようなステージでプレーする事を夢見ていた。だがそこに到達すると、シンシナティやトロントとの違いをあまり感じていなかったのだ。マッケンローが試合前夜に「準決勝でピート・サンプラスと対戦するなんて最高だ」と言ったのは、僕がいかにダークホースだったかという事実を表している。彼に侮辱の意図はなかったし、僕もそうは受け止めなかった。レンドルはフラッシング・メドウを支配していた。そして今、彼はマッケンローの前にいないという事だった。僕は大会がもたらしてくれるすべてに満足している青二才にすぎなかった。

自分が何をしているのかよく分かっていなかったのは、ある意味で思いがけない幸運だった。僕は当面の仕事に集中しているだけだった。そして成功が生み出すかも知れない派生効果に気づいていなかった。有名人、もしくは人気者になりたいという渇望を僕は抱いていなかった。ただテニスをする事が好きで、それを心地よく感じていた。そして一度できた事をもう一度できない理由は何もないと思っていた。ただこんな風に考えていた。よし、ここで僕はいつもしたいと思ってきた事をするんだ……。ボールを放り上げて、できるだけ強くサーブを打ち、そしてラインを狙うんだ、と。スポーツ心理学者は運動選手にその心構えをとるべく教える事で生計を立てているが、僕はそれを自然に身につけていた。それは教えられる、あるいは学べる事なのか疑問に感じる。

僕はスーパー・サタデーの第3試合、最終戦でマックと対戦した。そしてレンドル戦と同じく右側のベンチを選んだ。マッケンロー戦ではジャンピング・オーバーヘッドを何本か打ち、それは僕のトレードマークになっていった。だが全体的には、僕はエースを連発し、効果的なボレーを打ち、バックハンド・リターンをとても上手く打った――それは左利きに対する、とりわけマッケンローのように、アドコートで右利きの選手から遠ざかっていく扱いにくい左利きのスライスサーブを持つ者に対する成功の鍵なのだ。僕は最初の2セットを楽々と勝ち取った。それから彼は立ち直り始め、第3セットを6-3で取った。だが彼が僕のゲームを捉えたとは思わなかった。自分が試合の主導権を握っていると感じていた。そして第4セットは6-3で彼を打ち倒した。

スーパー・サタデーは僕のキャリアの大半で採用されており、男子準決勝2試合の間に女子決勝が挟まれる構成だったが、唯一の長所は、決勝戦について考えすぎる時間がないという事だった。時には準決勝が終わって24時間もしないうちに、決勝戦を戦わなければならなかった。だが'90年の場合は、僕にとって幸いだった。僕はマッケンロー戦で消耗していなかったのだ。試合後に記者会見などをこなし、寝るのはかなり遅くなった。翌日に目覚めると、ほぼ会場へ行って大会最後の試合をする時間になっていた。


戻る