第9章 1999〜2001年
ロイを捕らえる(2)


女子決勝ではリンゼイがシュテフィを打ち負かし、観客はどう反応すべきか分からないようだった。アンドレと僕がコートへ出ていった時の雰囲気は、静かで少し妙な感じだった。観客がすべての試合を公平に認めるすべを承知しているウィンブルドンでは、めったにない事だった。しかし雨のために、少し休止状態だった。多くの観客が試合の間に休憩をとっていたために、空席がたくさんあった。スタンドにいる観客は、見たばかりの出来事を受け止めようとしている最中で、他の事に集中する準備が恐らくできていなかったのだろう。

アンドレと僕はファンと同様に、恐る恐る試合へと入っていった。3-3までは互いにサービスをキープしたが、第7ゲームでアンドレは何回か僕のサーブを捉え、0-40まで追いつめられた。僕はそのピンチをどうにか切り抜けた。次のゲームでは、アンドレは新しいボールでサービスゲームを始めたが、奇妙な事が起こった。彼は簡単なボールを何回かミスし、僕は良いリターンを何本か打ったのだ。前のゲームで僕に窮地を逃れさせてしまった事を、彼は引きずっていたのかも知れない。だが理由が何であれ、僕はブレークを果たし、次のサービスゲームをキープして第1セットを取ったのだった。それは芝のコートでは典型的な、運命の逆転だった。

僕の自信には火がつき、そしてアンドレのプレースタイルは、その火に燃料をくべるものだった。彼は生涯にわたる最も危険なライバルだったが、僕がウィンブルドン決勝戦で対戦した数少ないベースライン・プレーヤーの1人でもあった。彼はリチャード・クライチェク、ゴラン・イワニセビッチといった速いコートを得意とする男たちよりも、僕が自分のゲームをできる時間を与えてくれたのだ。僕はサーブで圧倒するのが好きだったが、同じく芝生でポイントをプレーする事も好きだった。特に、脚を伸ばし、ランニング・フォアハンドといったショットを試すラリーが。

アンドレは僕のゲームを解き放ち、それは素晴らしい気分だった。芝生では、もし僕が良いプレーをして、対戦相手がそうでないと、しかもその相手がステイバックしていたら―――僕にはかなり楽な事に思われた。アンドレがその年どれほど良いプレーをしていても、そして彼がどれほど素晴らしいリターナーでも、僕は自分のサービスゲームをキープするのに大きなプレッシャーは感じなかった。たとえ彼が僕をブレークしたとしても、ブレークバックするチャンスがあると分かっていた。アンドレと対戦する時は、自分が彼のサービスゲームに入り込めると承知していたのだ。

第2セットの始まりは、アンドレにとって致命的なものとなった。僕は早い段階で彼のサービスをブレークし、ゾーンへと入っていったのだ。ゾーンとは、いつ何時でもショットを成功させうる穏やかな忘我の境とでもいった状態で、まるで予知能力があるかのようにプレーできるのだ。僕は(ファースト・セカンドとも)凄まじいサーブを炸裂させ、猛烈なバックハンド・リターンの引き金を引いた。それによって、僕はバックコートでも主導権を握る事ができた。そしてアンドレと僕の対決に関する世間一般の意見をひっくり返したのだった。

僕が芝生ではアンドレとのラリーに入り込み、対等な立場だと感じられるのには、技術上の興味深い理由があった。ハードコートでは、アンドレのボールはより速く飛んできて、僕は気のせく思いをする事も多かった。だが芝生では、サーフェスへの世評とはうらはらに、アンドレのショットは少し遅くなった。1秒の何分の一かだけ長く感じられたのだ。それは僕にとって、ボールをよく見て叩きつけるには充分な時間だった。

この効果は、アンドレのセカンドサーブで最も顕著に働いた。彼がハードコートでキックサーブを打ち、ボールが高くバウンドすると、僕はスライスで返すか、あるいは守備的にプレーしなければならなかった。高いバウンドを克服できなかったからだ。だが芝生はバウンドを抑え、サーブはハードコートほど高く跳ね上がらない。したがって、より快適なポジションからリターンを打ち込む事が可能だった。僕が良いリターンを返してラリーを始められれば、こんな感じだった。よし、行くぞ―――どちらが良い動きをするか、やってみようじゃないか、と。動きと運動能力については、たとえベースラインからでも、僕の方が少し優っていると感じていたのだ―――特に芝生では。

芝がはげて地面が現れ、硬くなってくると、ボールが滑ったり、あるいは速いハードコートでのように跳ねる事があった。だがそんな時でも、打ち込まれる区域によっては、僕はかなり良くボールが見えると分かった。これは、コートのスピードが見た目よりも複雑で、慎重を要する問題である事の適切な例だ。「遅い」「速い」という概念は、スピンやストロークのメカニズム等の要因によって影響を受けるのだ。

第2セットでは、僕はショットを自由に打ち込み、すべての武器を操る事ができた。我々は大いに面白いテニスをしたが、アンドレは早い段階でのブレークを取り戻す事ができず、僕は6-4でそのセットを勝ち取った。第3セットではアンドレが踏み留まり、双方による素晴らしいショットメイキングの応酬となった。彼には不幸だったが、僕は誰にも止められない状態に近かった。主導権を握るテニスをして、僕は第3セットを7-5で勝ち取ったのだった。

その瞬間には、エマーソンの記録に並んだという事実は、僕にとってすべてを意味した訳ではなかった。せかされるように感じていた問題については、その時までに多くの話や推測が出回っていたのだ。僕にとっては、何本のエースを打ったか、この結果がアンドレとのキャリア対戦成績にどう影響するかといった、1つの試合の要点でしかなかった。だが、自分にできる限りの完璧に近いテニスをした事には、確かに誇りを感じていたのだった。


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