第7章 1996年
戦士の時(1)


カギとなった試合
1996年5月、ローラン・ギャロス
2回戦
ピート・サンプラス     6    6    6    2    6
セルジ・ブルゲラ      3    4    7(2) 6    3
準々決勝
ピート・サンプラス     6    4    6    6    6
ジム・クーリエ       7(4) 6    4    4    4
準決勝
ピート・サンプラス     6    0    2
エフゲニー・カフェルニコフ 7(3) 6    6
1996年7月、ウィンブルドン準々決勝
ピート・サンプラス     5    6    4
リチャード・クライチェク  7    7(4) 6
1996年9月、USオープン
準々決勝
ピート・サンプラス     7(5) 5    5    6    7(7)
アレックス・コレチャ    6    7    7    4    6
決勝
ピート・サンプラス     6    6    7
マイケル・チャン      1    4    6
1996年11月、ATP ワールド・チャンピオンシップ決勝
ピート・サンプラス     3    7(5) 7(4) 6    6
ボリス・ベッカー      6    6    6    7(11) 4

年度末順位
1996年:1位


1995年、その年の大部分はアンドレがトップの座に就いていたが、僕は年末を3年連続のナンバー1で終えた。1位の座を確定するためには、11月のパリ・インドア決勝戦でボリス・ベッカーを倒さねばならなかった。もしその年をアンドレに肉薄した2位で終えていたら、僕のキャリア全体は違ったものになっていたかも知れない。1つには、ナンバー1の連続在位年記録を達成する事は、僕にとっての底知れないような目標にならなかっただろう。結局はその目標を達成したのだが。だが僕は先へと突き進んでいた。

デビスカップの直後に、僕は引き続いてミュンヘンでグランドスラム・カップに出場した。会場に到着すると、ボリス・ベッカーが僕を脇に引っ張っていき、今までに受けた中でも最高に嬉しい賛辞を送ってくれた。ボリスがどれほど勝負に真剣な―――徹底的に支配的な―――男だったかを覚えているなら、この賛辞の価値が分かるだろう。彼は僕を見て、そして言ってくれたのだ。「ピート、モスクワでのあのデビスカップのプレーは信じ難いほどだったよ。それが、君が世界のナンバー1である理由だ、文句なくね」と。我々のライバル関係が熾烈だった事を考えると(僕はつい数カ月前にウィンブルドン決勝で彼を負かしていた)、その言葉は高潔なものだった。

年月が経つにつれて、僕はあのモスクワのデビスカップで成し遂げた事を、高まる喜びと共に味わい、大切に感じるようになっていった―――それがクレーで成されたという事が、ことのほか嬉しかった。これは僕が1992年USオープン決勝戦の後に取り組んだ献身というテーマの、1つの結実だったのだ。

1995年は、僕のキャリアにとって重要ないくつかの事柄が混じり合った年だった。長きにわたって保持されてきたジミー・コナーズの5年連続ナンバー1在位記録を、僕が破るかも知れないという可能性が出てきたのだ―――破るのは不可能とも見なされてきた記録だ。同じく、アンドレとのライバル関係という栄光の日々が、公式にスタートした年でもあった。我々がインディアンウェルズとマイアミで2つのハードコート大会の決勝戦を分けた時に、それはまさに一段上のレベルへと向かったのだ。我々は山を越え、テニス狂だけでなく、一般的なスポーツファンの間でもホットな話題となっていた。そして我々の対照性・違いは、なぜ一方を他方より好きかという問題について、人々を熱狂的にした。

悲しかったのは、そのすべての背景にティムの病気という問題がある事だった。メディアを含めて誰もが、我々のプライバシーを重んじてくれたが、人々はいつもティムについて尋ね、見舞いの言葉を口にした。1995年には大きな悲しみと無常感を抱いて過ごさねばならなかったが、僕はかなり上手く対処してきたと思う。その時点からずっと、一般の人々はより暖かい目で僕を見ているようだった。彼らは僕に対してもっと共感を抱くようになったのだと思う。

だが1995年に僕が自分の競争心に負担をかけ過ぎたやり方には、払うべき代償もあった。最初の代償はモスクワでのデビスカップ決勝戦から数週間後、1996年オーストラリアン・オープンでやって来た。僕はグランドスラム・カップ(足首の怪我で途中棄権した)に続く1カ月足らずの「オフシーズン」の後、大会にエントリーしたが、プレーの準備ができていなかったばかりか、熱意もなかったのだ。

それでもオーストラリアまで旅をして、出場はしたが、3回戦でオーストラリアのマーク・フィリポウシスに負けるという結果になった。番狂わせには完璧な状況だった。マークの後ろには熱心な地元の観客がつき、さらにナイトマッチで、ロッド・レーバー・アリーナにはおよそ18,000人のファンが詰めかけて、番狂わせを切望していたのだ。マークはただもう僕を圧倒した―――神がかった状態で、フィリポウシスのように大きくて、多才なゲームを持つプレーヤーがそういう状態になると、相手は困難な状況に陥るのだ。

心の底では、僕は負けた事にそれほど傷ついていなかった。最善は尽くしたのだ。もし6〜8週間ほど休んで、自分のバッテリーを再充電し、新しい年への準備をする事ができていたら、気持ちは違っていたかも知れない。同じく、オーストラリアン以外のメジャー大会であったら、違っていたかも知れない。僕はメルボルンでプレーする事があまり好きではなかったのだ。そして長年の結果もそれを反映していた(2回しか優勝しなかった)。これは多くの人々を驚かせた。なぜなら表面上は、オーストラリアン・オープンは僕にとって完璧なグランドスラム大会のように見えたかも知れないからだ。

オーストラリアには偉大なテニスの伝統があり、なおかつ彼らの偉人たちは僕といくぶん似通った、ごく普通の、率直な物言いの、控え目な男たちだった。それは僕がオーストラリアについて即座に感じた親近感だった。またオーストラリア人は親しみやすい温和な人々で、彼らのメジャー大会はリラックスした雰囲気で、それも僕に適していた。たとえ道路で腹を銃で撃たれ、助けを求めて1人の男へ這い寄っていったとしても、彼は恐らく「心配ないよ、友よ!」と言い―――そしてできる限りの援助をしてくれるだろう。ロッド・レーバー・アリーナを含むメルボルン・パークの施設は近代的で、第一級だ。他のメジャー大会を特徴づける無秩序とごみごみした感じがないし、メディアの存在さえいくぶん控え目だ。したがって熾烈さやイライラするようなプレッシャーも少ない。

オーストラリアン・オープンに対する僕の不満は、ボールから始まった。オーストラリアでは、ボールは常に少し異なるように思えた。速くて硬いボールにしたいのか、あるいは柔らかくて遅いボールにしたいのか、決めかねているかのようだった―――あるボールは子猫のように毛羽立ち、またあるボールはもっと締まっていて、速く飛んだのだ。ある年など、スカッシュのコートで見られるように、合成サーフェスの上に小さな黒いボールの跡がついた。

メルボルンでは常に、気温が華氏100度にまで達する日が数日はあり、湿度はそれほど高くないが、熱気は消耗させる。それは僕にとって特別な難題だった。秘密にはしていたが、僕にはサラセミアという、地中海系の家系によく見られる軽い疾患を抱えていたからだ。基本的には血中の鉄分欠乏症で、貧血を引き起こす。そしてその疾患を抱えている人たちは、猛暑で弱る傾向があるのだ。僕は自分の家系にサラセミアがある事を承知していたが、キャリアのかなり後半まで、その問題に対処しないと決めていた。不思議な事に、オーストラリアで最も活躍したのはスウェーデン人だった―――北国の冷たい気候の下で暮らす人々は、冬の太陽と熱気に感謝し、愛しているのだ。同じく、ロシア人も通常そこで活躍する。

メルボルンパークのコートについて、予想できないもう1つのものは、リバウンドエースのサーフェスだった(2008年にプレキシクッション Plexicusion に取って代わった)。リバウンドエースは典型的なアスファルトのハードコートに、ゴム化合物を塗布したものだった。サーフェスは少しクッション性を増し、そしてバウンドを遅くした。しかし熱気の中では奇妙な事が起こった。ある年など、メルボルンは非常に暑かったので、テレビの撮影クルーがコート上で卵を割り、低速度撮影を使って卵が炒められていく様子を記録したほどだった。熱気はリバウンドエースを非常に粘つかせた。ガブリエラ・サバティーニは方向転換をしようとして、テニスシューズがそっくり脱げてしまう事があった(シューズがコートにくっついて、彼女が剥がそうとしたら破れたのだ)。他にも危険な転び方をしたり、足首を捻挫する選手たちがいた。

さらに、オーストラリアのコンディションは瞬く間に変化する事もあり得るのだ。昼間と夜に試合を行う相違はとてつもなく大きい(オーストラリアンとUSオープンの2つだけはナイトマッチを行うメジャー大会で、レーバーアリーナに取りつけられた格納式の屋根は、夜に屋内でテニスを行えるという事を意味する)。サーフェスはどんな類の環境変化にも反応した。気温が快適な華氏75〜80度の時―――焼けつくような午後に続くナイトマッチの最中、しばしばそうなった―――それは全く異なるコートとなった。僕にとってオーストラリアン・オープンとは、一貫性―――サーフェス、ボール、環境のコンディションについて―――を最も望む場における、博打にも似た冒険的事業だったのだ。


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