第2章 1986〜1990年
ニューヨークのおとぎ話(2)


1989年には、僕はかなり素早くトップ100入りを果たした。プロキャリアにおける初の大勝利は、USオープン2回戦でマッツ・ビランデルを番狂わせで破った事だった。彼はディフェンディング・チャンピオンだったのだ。マッツはよく知られているように「普通の人間」であり、最高のチームプレーヤーだった。僕がこれを書いている現在も、彼はスウェーデンのデビスカップ・チームの監督を務めている。だが友好的で、穏やかで謙虚なスウェーデン人の内面には、オープン時代で最もタフな、集中した意志の強い競技者魂が潜んでいた。彼はそれを1988年に証明した。その年に彼はジミー・コナーズ(1974年)以来、1年で4つのメジャー大会中3つ(ウィンブルドンを除く)に優勝した初の選手となったのだ。マッツは堅実で適応力のあるベースライン・ゲームに加え、頭脳と心意気をもって勝利を勝ち取った。

マッツとの2回戦で、僕は初めて当時の USTA(合衆国テニス協会)国立テニスセンターのルイ・アームストロング・スタジアムコートに立った。ナイトマッチで、僕は神経質になっていた。スタジアムコートには立錐の余地もないおよそ1万8千人の観客がいて、そしてニューヨークのファンは名うての騒々しい観客だと知っていたのだ。僕は少し不安で、そしてまだ未熟だった――感情的にも、精神的にも、そして技術的にも。フォアハンド――僕のベストショット――は安定性を欠き、大局的に見ればバックハンドは語るに足らなかった。だが突如として身についた1つのものはサーブだった。1989年、僕は急激にサービスエースを打つようになっていた。どうしてそうなったかは訊かないでほしい。僕にも分からないのだから。

ビランデル戦には、ピート・フィッシャーとギャビン・フォーブスが立ち会っていた。僕はサーブの調子が良く、激戦を第5セット6-4で勝利した。それは本当に大きな勝利であり、ある種の前触れでもあった。マッツは巧みでタフではあったが、パワーという点で僕の優位性をくつがえす事ができなかったからだ。番狂わせには他の事情も少しばかり絡んでいた。当時、マッツの父親は闘病の末期にあった。そしてマッツ自身も素晴らしかった1989年シーズンの後遺症を感じていたのだ。彼は精神的に少し燃え尽きていて、USオープンの直後には劇的に順位を下げていった。

試合後、僕のささやかなチームがグランド・セントラル・パークウェイを通ってマンハッタンへと戻る車中で、 ギャビンは「いいかい、君は明日、ありとあらゆる新聞に掲載されるよ」と言った。僕は思った。よし、クールじゃないか、何が起こるんだ? 

起こったのは、僕はもう1ラウンドに勝ち、次は3セットで8ゲームしか取れずにジェイ・バーガーに敗れたという事だった。だが僕はすでに名乗りを上げていた。マッツはトップ5選手で、ニューヨークではディフェンディング・チャンピオンだったのだ。僕はアメリカの新鋭で、まったくもって格下だった。メディアやファンは試合中もその後も、僕の話でもちきりになった。

突然の成功と結びついた急激な変化は、僕の現状を脅かした。ピート・フィッシャーが自身の医学キャリアを放棄して、僕とツアーを回る事はあり得なかった。だがピートは宣伝が好きで、僕のゲームを形成したという称賛を楽しんでいた。彼の目前で僕が予測どおりの選手になり始めると、彼はいささか常軌を逸し、貪欲になっていった。また、彼がカリフォルニアの自宅にいた間、僕はフロリダで様々なコーチとトレーニングを積んでいた。彼らの世間的信用はフィッシャーよりはるかに高いものだった。彼は自分が切り離される事を恐れていたのかも知れない。そこで彼は、たとえ僕の専属コーチになれなくても――なる筈もなかった――指揮権を維持しようとした。そして報酬を望んだ。

ビランデル戦での大番狂わせの前からでさえ、ピートは莫大な要求をし始めていた――けた外れに大きな要求だった。ピートは僕のグランドスラム賞金から25パーセント、他については50パーセントを要求した。基本的にあらゆるものからの分け前を欲しがった。ある晩フィッシャーはカリフォルニアの我々の自宅に現れ、紙皿に彼の要求を書き記した。もし僕が同じ年に四大大会すべてで優勝してグランドスラムを達成したら、大量の報酬を要求すると――フェラーリ・テスタロッサまで入っていた。それが皿の上に書かれたのだ。実際、僕はピートがテニスマガジンの記事中で審判台に座り、ロゴ入りの帽子をかぶっていたのを覚えている……フェラーリのロゴだった。

ピートがその皿を振り回した夜は妙に現実離れしていた。僕は今日に至るまで詳細を覚えている。彼と父は激しく争い、僕はとても居心地が悪かった。フィッシャーは家族のような存在で、誰も彼をのけ者にするつもりはなかったからだ。彼が我々のために何をしてくれたか知っていたし、感謝していた。だが彼が提案する長距離コーチングの取り決めは受け入れがたかった。そして彼の要求は非常識に思われた。彼は我を失うにつれて、関係全体をだめにしようと決意しているように見えた。別の見方をすれば、それは滑稽だった。僕はこう考えていたのを覚えている。僕はほんの17歳の子供で、ボールを2回コート内に入れるのもやっとだ。なのにピートは僕のグランドスラム達成(テニス界全体の歴史で、たった2人の男しか成し遂げていない)について話し、テスタロッサを分け前として受け取る事について話しているのか?

最も馬鹿げていたのは、フィッシャーは金を必要としてはいなかったという事だ。彼は素晴らしい経歴を持つ裕福な医者で、5エーカーの地所に住んでいた。事実上、我々の関係は紙皿の夜に終わりを告げた。父は彼を切り離すとひそかに決意していた。フィッシャーの要求よりも強力な理由があったのだ。父は僕がピートに頼りすぎて、選手としての成長が阻害される事を懸念していた。僕は世間に出て、自分自身で物事に対処するすべを学ぶ必要があった。

フィッシャーとの溝が広がるなか、僕はコーチを雇おうと決心した。ジョー・ブランディに決めた。良い組み合わせだった。僕はニック・ボロテリー・テニスアカデミーに暮らし、ジョーはそこで指導をしていたからだ。彼はジムと彼のコーチ、セルジオ・クルスと息の合う関係だった。そこで我々4人は一緒にツアーを回り、多くの時間を共有した。その時までには、僕は彼のやり方を理解していた。我々が一緒にツアーを回り始めた時、ジョーはすでに50代の年輩だった。心地よい取り組み方だった。ジムと僕は一緒に練習し、ダブルスでプレーした(我々は1989年にイタリアン・オープンで優勝した)。練習や試合の後には、4人で夕食に出掛けた。ジョーは僕よりずっと年上だったので、彼と僕が本当に心の絆を結んでいたとは言いにくい。だが多分、その段階では望ましいものだったのだろう。僕は大人の男として自立する必要があったし、ジムが相棒であり兄弟のような存在として、僕の成長を容易にしてくれたからだ。

僕の結果はさらなるチャンスへの扉を開いた。1989年の終盤にイワン・レンドルから電話があり、僕をコネチカット(彼はいつも「コネクト - E - カット」と発音した)州グリニッジの自宅に招待してくれたのだ。当時、彼は世界トップの選手で、大邸宅に暮らしていた。荷物を客室にしまい込んだ後、彼は僕を妻のサマンサに引き合わせ、犬(レンドルはドイツ・シェパードの繁殖を手がけていた)を見せ、そして庭園と施設を巡った。次に父と話をした時、僕は自分の見たすべてを熱心に語った。そして父は、僕もレンドルと同じくらい努力すれば、そういう暮らしを創り上げられるだろうと言った。

イワンには鉄の男という評判とイメージがあった。確かに、言葉の弱母音を落とすチェコのアクセントと強面な態度で、威嚇的にも見えた。だが彼は僕を歓迎し、くつろがせてくれた。思いやりがあり、僕に好奇心を抱いていた。僕が驚いたのは、我々がいつ起床し、いつ練習し、いつトレーニングをして、食事をして、就寝するか、その週すべての計画を彼があらかじめ立てていた事だった。彼は毎朝6時に自分で起床した。とても規律正しくて、集中していた。おそらく多くの人は、それをロボットのようだと評するだろう。だが彼は自制してそれをやり遂げていた。彼は自分が何を望んでいるか、それをどのように追い求めるかを正確に把握していたのだ。

その週、僕はその年のトップ選手が出場する年末のマスターズ大会(後に ATP ファイナル、さらに ATP 世界選手権と名称を変えた)へ向けてイワンが準備する手伝いをした。努力する事について、我々は大いに話をした。僕はあてもなく流れに浮かんでいるような段階だった。多分イワンはそれを感じたか見たかして、偉大な存在となるためには何が必要か、僕に手掛かりを与えたかったのだろう。彼は僕のテニスについて、そして何を成し遂げたいのかについてたくさんの質問をした。

僕はイワン自身のプロ意識に強い感銘を受けた。1〜2日の内に、彼は僕を30マイルかそこらの自転車走に連れ出した。みぞれ混じりの寒いなかを、彼のトレーナーの1人が暖かく心地よい車内で運転する自動車を追っていくのだ。当時イワンは世界ナンバー1で、僕に対して何を望んでいるのだろうかと考えた。僕の良き指導者になる事を望んでいたとは思わない。彼には気に掛けるべき他の事柄がたくさんあったのだから。同じく、僕を彼の影響下において、何らかのメリットを得ようとしていたとも思わない。彼がそのような操作をしていたとは思わない。ただ僕という人間を知り、僕が行動する動機について感触を得たかったのだろう。彼は僕がトップ選手になると見なしていたからだ。また、イワンはスポーツ・マネージメントを手がけようと考えていたのかも知れない。彼には起業家精神があり、すでにいくつかの屋内テニスクラブを所有していた。もしかしたら、将来の顧客として僕をチェックしていたのかも知れない。

数カ月後、1990年の始めに僕はオーストラリアン・オープンの4回戦まで進出した。その数週間後には、ミラノで開催される大きな室内大会の準決勝でイワンと対戦した。僕は第1セットをかなり楽に取ったが、その後はイワンがパワーで圧倒した。一緒にトレーニングをしたレンドルとは別人だった。競技の場では、彼は違う運動選手だった。僕が速いスタートを切った後に彼がしたのは、ペースを落とす事だった。それは僕に思い知らせる方法でもあった。なぜなら若く性急な選手は、考えて作戦的に行動するよりも、ただボールを打ってプレーしたがるからだ。

僕はそれまで、ゲームそのもので本当に僕を威嚇するような選手にはあまり出くわしていなかった。だがイワンは違うレベルにいるようだった。彼には大槌のようなフォアハンド、あるいはフォアハンドに備えるためのスライスがあった。彼はペースを操り、ボールをあちこちへ散らしたので、僕は急きたてられる思いになり、腰を落ち着けて自分のゲームに取り組み、しっかり構えてショットを交わす余裕がないように感じられた。その対戦は僕を呆然とさせた。彼はゲーム界のビッグキャットで、以前にどれほど僕に親切であっても、ただ僕を打ちのめしたのだ。

1990年もフィラデルフィアは僕を歓迎してくれた。今回、僕はすべての試合に勝利したのだ。ラウンド16でアンドレ・アガシと激戦(各々が7-5でセットを分けた後に、彼は胃の具合が悪くなって途中棄権した)をした後に、僕はアンドレス・ゴメスを圧倒して優勝を果たした。ゴメスは上り調子にあり、グランドスラム・タイトル――唯一の――を春の終わりにパリで獲得するに至った。僕の順位は着実に上昇し続けてきたが、この優勝でもう一段階上がった。

その後も、僕は大会でいい所まで勝ち進んだ。だがフレンチ・オープン、もしくはローラン・ギャロスへと至るクレーコート・サーキットで競う準備はできていなかった。春にヨーロッパで行われるクレー大会はミュンヘンに出場したのみだったが、スウェーデンのクレー悪魔軍団の1人、ヨナス・スベンソンに叩きのめされた。それから夏の芝生サーキットへと移り、芝のコートには複雑な思いを抱いていたにもかかわらず、マンチェスターの小さな大会で優勝した。ウィンブルドンでは、クリスト・バン・レンズバーグ――有能なグラスコート・プレーヤー――にストレートで敗れた。

夏の合衆国ハードコート・サーキットで、僕は息を吹き返した。トロントのカナディアン・オープンでは、準々決勝でジョン・マッケンローと対戦した。ビランデルとマッケンローの間には、1つの重要な類似性があった。彼らは性格もプレースタイルも違うが、レンドルのように僕をパワーで圧倒する事はできなかったのだ。ああ、ジョンは僕をスライスでかき回し、苛立たせ、あの缶切りのような左利きのサーブで僕のリターンゲームを惨めなものにする事はできた。だが僕は常に、最も必要とする1つのものが僕にはあると感じていた――ショットを打つ時間的余裕が。

トロントでマッケンローと対戦した時、彼はキャリアの下り坂にいた。僕は心身ともに順調だった。また、ほんの少しだけ彼を知っていた。面白い事に、ツアーに参加すると、素早くトップ選手に対する畏敬の念を克服するものなのだ。とりわけその選手が同国人で、必然的に何らかの関係や接触を持つと。なぜジミー・コナーズがあれほどの孤立主義者――よそよそしく超然としていた――だったのか、僕には理解できる。彼は同僚――そのすべて――に畏怖の念を抱かせ続けたかったのだ。ジョンは僕に親切で、レンドルもそうだった。だがレンドルのゲームは僕を躊躇させたが、ジョンとだと、肉体的にも心理的にも快適な領域にいた。トロントでは、第3セット6-3で彼を破ったが、準決勝のマイケル・チャン戦では第3セット7-5という無情な負け方をした。


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