第2章 1986〜1990年
ニューヨークのおとぎ話(4)


1990年9月9日の午後遅く、ネットの向こう側にいた男はアンドレ・アガシだった――僕と同じような少年。ワイルドな蛍光ライムグリーンのウェアを着て、ぼさぼさの長髪の彼は目立っていた。

当時は知る由もなかったが、アンドレと僕は歴史的なライバル関係を作り上げ、2人とも「国際テニス名誉の殿堂」入りを果たすまでに至った。だがキャリア早期のその時点では、アンドレと僕には過去4回の対戦があるだけだった。我々は互いのゲームに通じていなかった。アンドレは主にフロリダでテニスをしていて、一方で僕はカリフォルニアにいたからだ。

我々が初めて対戦したのは、カリフォルニア州ノースリッジで行われた12歳以下のジュニア大会のハードコートでだった。どちらがその試合に勝ったのかは2人とも覚えていないが、アンドレを見た時の事は今でも鮮明に覚えている。彼はギャングでも乗るような大型の緑のキャデラックで、父親のマイクと一緒にやって来たのだ。ふさわしい光景だった。アガシ一家はラスベガスに住み、マイクはシーザーズ・パレスのカジノ主任を務めていたからだ。その頃からすでに、アンドレはジュニアのロックスターのような様子だった。痩せっぽちだったが、僕もそうだった。彼はすでにビッグ・フォアハンドと敏捷でけっこうな脚を備えていた。

アンドレと僕はもう1回対戦する事になっていた。ジュニア大会では、同じ日に2試合プレーする事がよくある。そして我々は2人とも午前の試合に勝っていた。しかしなぜか、アンドレとマイクは姿を消した――現れたと思ったら消え、僕は相手の棄権によって勝ち進む事になった。プロになっての初対戦は1989年ローマ大会のレッドクレーで、アンドレは3ゲームを失っただけで僕をぶちのめした。だが先に述べたフィラデルフィアの試合では、互角の戦いをしていた。

USオープン決勝戦では、アンドレが明らかな優勝候補だった。すでに世界ナンバー3まで急速に順位を上げ、ボリス・ベッカーを破って決勝に進出していたのだ。彼は一流のショーマンだったが、お偉方の中には大試合で勝利する彼の能力を疑問視し、彼は実体よりもイメージが大きいと示唆する者もいた。妙な話だった。厳然たる事実と結果ほど、明快で確かなものはなかったからだ。その意味において、アンドレは本物だった。フレンチ・オープン決勝で、初のグランドスラム決勝進出者アンドレス・ゴメスに番狂わせの敗戦を喫したとはいえ。その敗戦の後、批評家たちはアンドレをとことん物笑いの種にしようと手ぐすね引いていたのだ。だが僕は当時、アンドレが経験している苦難に気づいていなかった。自分の事で精一杯だったからだ。

過去2回の対戦は、オープン決勝戦を占うには適していなかった。僕のゲームは1990年の夏に急激な成長を遂げていたからだ。アンドレはそれに対処するすべを持ち得なかった。彼にとっては少し物怖じする事だったに違いない――もしそれに気付いていたら。僕はそういう事も大して考えていなかった――僕はUSオープン決勝に臨み、失うものは何もないという気分だったのだ。何が進行しているのかという事は、僕の想像を超えていた。そして無知ゆえの多幸感が要求するであろう見返りは――それは確かに代償を求めるものなのだが――視線の先に見えてさえいなかった。

スタジアムは我々の試合を見ようと満員だったが、僕はリラックスし、快適に感じていた。レンドルとマッケンローに対する勝利の後、僕は状況と自分のゲームについて、まったくもって気楽な気分でいたのだ。僕にとっては、すでにおとぎ話のようなUSオープンになっていた――実際に、子供の頃には空想の中の大会だったのだから。スリル満点の終局にふさわしいのは武勇談だった――信じられないようなシーソーゲーム、実現の瞬間、試合の紆余曲折。だが、そんな風にはならなかった。

僕の側からすると、試合は必然と無敵が混合した霧の中で進行した。グラウンドストロークが上手く機能する事で、最後のピースはあるべき所に落ち着いていた。僕は「与えられたもの」と接触していた。初めから僕はアンドレを大いに振り回し、彼はたくさんのミスを犯した。いま一度、僕は強烈なサーブを打っていた――まるで好きな時にエースを放つ事ができるようだった。今日に至るまで、その感覚とリズムを本能が覚えている。打つ前にエースがやって来るように感じる事ができたのだ。よし、エースを打つぞ、ほら――ドカーン! エース!

実情はそうだった。

アンドレが第3セット2-5ダウン、サービスゲームという状況で、僕はマッチポイントを迎え、史上最年少のUSオープン優勝者となる入口に立っていた。ネット越しに彼を見ると、とても小さくて、はるか遠くにいるように見えた。それでもボールはグレープフルーツくらいに大きく見え、いつでもショットを成功させられるように感じていた。ゾーン状態の時には、物事が少し曲がり、歪んでくるものなのだ。

アンドレはボールをつき、サーブの態勢に入った。髪は汗で少し粘つき、派手なライムグリーンのウェアを着た彼は、白熱して燃えているかのように見えた。僕はかがみ込んでレシーブの姿勢をとった。少なくとも1回サービスブレークを果たし、そして相手のサービスゲームでマッチポイントを迎えるのは試合を終える理想的な方法だ。大してプレッシャーがない。もう1回か2回サービスゲームをキープして、試合を終わらせる事もできる立場にいるのだ。中くらいの速さのコートでは、堅実なサーブを持っていればその見込みは充分にある――そして度を失ってはいけない。試合は手の内にあるのだ。危険を冒さずにリターンで思い切ったスイングができる。その一方で、試合に生き残るべくサーブを打つ側は、首にかかる縄が締まるのを感じているのだ。

キャリアを通じて、アンドレは概してプレーが速かった。すべてがてきぱきしていた。だが重要な場面では、すべてが少しスローダウンする――スローダウンさせなければならない。試合を終えたいのなら、それは基本にして最も重要な事の1つだ。慎重になる必要がある。試合を終わらせるには大いなる自制心を要するからだ。

アンドレは下を向いてボールをついていた。恐らく攻撃的なサーブを打ってポイントを勝ち取りにいくべきか、あるいは安全にプレーして僕に勝負をさせるべきかどうか考えていたのだろう。こういった状況では、慎重になりすぎたり、もしくは気負いすぎる事がよくある。それは根本的なジレンマの1つであり、いまだに僕がいかなる場面でも抱えるジレンマだ。僕は、良かれ悪しかれ、最後のポイントをコントロールする側でありたい。

アンドレはもう一度ボールをつき、そして素速いサービスモーションに入った。僕は構えた。6000マイルほど離れた場所、 パロスヴェルデスの自宅付近では、ギリシャ系の痩せた男が妻と一緒にショッピングモールを歩き回っていた。それは僕の両親だった。彼らは神経質になりすぎて試合を見られなかったので、その代わりに買い物に行く事にしたのだ。

アンドレは良いサーブを打ち、僕はバックハンドでリターンした。短めの、守備的な受け流すリターンになった。彼は回り込んで比較的簡単なフォアハンドを打とうとし、そして失敗した。ボールはネットにかかった。

僕は両腕を突き上げ、そして選手のゲスト席を見渡した。皆が喝采していたが、僕が見知っていた唯一の男はジョー・ブランディだった。大陸の向こう側のモールでは、何が起こったのかを知らないままに、両親はいまだ歩き回っていた。電機店のそばを通りかかると、全部のテレビがUSオープンの表彰式を映し出しているのを目にした。

カメラの中でUSオープンの男子シングルス・トロフィーを受け取っている子供は僕だった。目も眩むほどのスピードで、僕はタイトルに到達した。だが今や、僕は未知の領域にいた。そしてそのための準備はできていなかった。払い戻しはあるものなのだ、誰も労せずして利益を得る事はできないのだから。


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