第1章 1971〜1986年
テニス・キッド(4)


子供時代の僕には、テニスであれ何であれ、ヒーローはいなかった。部屋にポスターも貼っていなかったし、熱狂的にサインなどを集める事もなかった。だが僕が深く関わるにつれて、テニスは家族の関心事になっていった。一家全員でグランドスラム決勝戦を見たものだった。ある時、テレビが長い間映らない事があった。僕は壊れたのだと思ったが、父はテレビを見過ぎたせいだと考え、時間をおいて修理しようと決めた。その年、僕たちはウィンブルドン決勝戦を見るために、午前6時にジャック・クレーマー・クラブへと向かった。その事を鮮やかに記憶している。まるで家族の冒険旅行のようだった。

時々ピート・フィッシャーはデル・リトルと夕食後に我が家を訪れてきた。デルはテニスの旧いフィルムをたくさん持っていた。父は古い16ミリ映写機を準備し、デルはダイニングルームの白い壁にそれを映し出した。そして全員――父、ピート、デル、ステラと僕――で、ロッド・レーバー、ケン・ローズウォール、ルー・ホードといった選手たちの決勝戦を見たものだった。ピートはロッド・レーバーの信奉者で、僕たちはダイニングルームの壁面でレーバーがコートをゆったりと巡る姿を見ていた。僕はレーバーが滑らかにプレーする様に深く魅せられた――粒子の粗い白黒の16ミリ・フィルム上であっても。

僕は朝8時にヴィスタ・グランデ小学校へ行き、正午まで過ごした。それから母が僕たち兄弟を車で迎えにきて、自宅へと連れ帰った。僕は昼食を食べ、着替えをして、3時にはクレーマー・クラブへ向かった。そしてそこにいる誰かれと1〜2セットをプレーした。将来有望な子供は大勢いて――カリフォルニア・テニスの利点だ――練習相手には恵まれていた。メリッサ・ガーネイ、ジョーイ・ラダム、ピート・フィッツパトリック、トム・ブラックモア、エリック・アマンド等とプレーをした。ガーネイやアマンドのように、何人かはプロへと進んだ。他は傑出したジュニアだった。週に2日はクラブでテニスキャンプが催され、何日か――時が経つにつれてさらに頻繁に――レッスンを受けていた。日課は午後7時頃に終わり、帰宅して夕食を食べ、宿題をして、眠りに就き、そして目覚め――また同じ日課を繰り返した。

厳しく統制された生活で――成長するにつれて、その傾向はいっそう強まっていった。だが何かに優れた存在となるには、集中が本当に必要なのだ。その意味では、一度に二つ良い事はない。素晴らしい社交生活、アカデミックな仕事、そして運動競技の野心、そのすべてに集中する事はできない。テニスで優れた存在になるためには多くの時間と努力が必要で、それには子供時代の年月が肝要なのだ。

だが学校を無視したわけではなかった。僕はまじめな生徒で、AマイナスかBプラスの部類だった。一生懸命に勉強し、几帳面で、数学ではいつも上級クラスにいた。数字に強かったのだ。当時も口数は少なく、あるいは表現豊かではなかったが、読書はしていた。すぐに飽きてしまうタチだったが。これまでに読んだ本は数冊しかない。いちばん好きでよく覚えているのは、J.D. サリンジャーの代表作『ライ麦畑でつかまえて』だ。高校2年の時に読んで、主人公のホールデン・ コールフィールドがどうなっていくのか、とても好奇心をそそられた――彼はおよそ僕とはまったく違う子供だったのだ。

学校では「親友」がいなかった。あるいは仲間と過ごす時間もなかった。僕のいわゆる社交生活は、クレーマー・クラブが基本だった。我々テニス・キッズは一緒にプレーをし、一緒に同じ大会へ行き、学校よりもむしろクラブで付き合っていた。高校へ上がってもそのままだった。

クラブはテニスが中心だったが、時折はバーベキューなどの行事もあった。僕はプレーを強制されているとは感じていなかった。そして既に、自分は成功するという世間知らずな、ある意味で根拠のない想定をしていた。大会で優勝し、大金やスピードカーやあらゆる虚飾を手に入れるつもりになっていた。その点では何も不安を感じていなかった。最終的には、それらの物は僕にとって大して意味がないと分かったが。

やがて僕はヴィスタ・グランデからリッジクレスト中学校へと進んだ。テニス学習とトレーニングは継続し、そして高校へ進学する時に、僕の未来を形成するかなり劇的な事が起こった。リッジクレストの生徒の大半はローリング・ヒルズ高校へ進学した。だがなぜか、ガスと僕はパロス・ヴェルデス高校( PV )に割り当てられたのだ。もしローリング・ヒルズに行っていたら、学校の友人と一緒になっただろう。だが PV では、誰も知り合いがいなかった。同時に、テニスのレッスンにさらに時間をとられるようになり、新しい友人を作るチャンスもなかった。

僕は毎日午前11時30分に学校から帰宅した。友人たちはローリング・ヒルズにいたので、一緒に過ごす相手がいなかった。生活は家とクレーマー・クラブを中心に回っていた。僕はそもそもシャイだったが、青春期に入り、さらに内向的になっていった。他の子供たちが出掛けたりデートの事を考えている時に、僕はぎこちない状態にあった。女の子にも興味がなく、ただテニスの事を考えていた。ステラはもっと行動的な社交生活を送っていた。デートに出掛け、高校のダンスパーティーにも参加した。僕はクラスの総代になる気もなかったから、それは構わなかった。僕は自分が何者か、将来は何になるかを知っていた。それはテニスプレーヤーだった。学校では、僕は「テニス・キッド」として知られるようになった。

地域にはテニスの才能が集まっていたが、僕の学校では、テニスはフットボールのような花形スポーツではなかった。僕は高校のチームでもプレーしたが、2年間試合に負けた事がなかった。自ら望んだわけではなかったが、僕は少しばかり一匹狼のような存在だった。理由の一端は、僕には他の人々と過ごす時間がなかったからだ。だが同時に、僕は他の子供たちがしている事に大して興味を抱かなかった。彼らと競う気も、比べる気もなかった。争い事にも加わらなかったし、フットボールチームのクォーターバックを羨ましいとも思わなかった。彼らはキャンパスの人気者だった。僕は並行する現実世界にいて、時々は平均的な高校生の生活と交わるような生活だった。

パロス・ヴェルデス高校にはかなり裕福な人々もいて、子供たちの中には「Teenage Wasteland
(イギリスのロックバンド The Who の曲)」の心理を奉ずる者もいた。彼らは目標を持たず、退屈していたが、物質的な心配をする必要はなかった。学校の社交界、あるいは反抗児たちの間に存在する代わりのものに関係する事以外には、日常生活の現実を知らなかった。昼休みにマリファナを吸う子供もいた。「secret life of suburbia(郊外住民の秘密の生活。イギリスのドキュメンタリー番組)」的な出来事も起こっていたが、僕には何の興味もなかった。そういった意味でテニスは僕にとって素晴らしいものだった。トラブルから僕を遠ざけ、抱えていた10代の悩みが何であれ、それを弱めてくれたのだ。

生活ぶり、孤立性などから、僕はテニスロボットのようだったのかと考えるかも知れない。それは正確ではないと思う。僕は自分のしている事が心から好きだったからだ。反抗的になり、練習をしたくない日もあった。2時間のヒッティングに没頭していない時もあった。だが概ねは、僕はテニスに打ち込んでいた。その多くは基本的にピート・フィッシャーと関わっていた。つまり、プレーしなさいと言うのは父ではなかった。続けるよう僕を励ますのはフィッシャーだった。父はむしろ不干渉という基本姿勢だった。ピートに任せていたのだ。僕が練習したがらない事で、父に叱られた記憶は一度もない。

もちろん遊びたい、他の子供のような生活をしたいと思う自分もいたが、テニスから逃れたいと思うには至らなかった。確かに、多少のプレッシャーはあったが、人から強要されていると感じた事はなかった。僕が感じていたプレッシャーは、自ら課したものだった。僕は自分の上達に多くの金がつぎ込まれている事を知っていた。家族の中で特別待遇を受けていると知っていた。僕がフィエスタ・ボウル・ジュニア大会に出場できるよう、6時間も車を運転したりと、家族みんなが協力してくれていた。父はひと言も愚痴をこぼさなかったが、僕のトレーニング資金を調達するために、毎日毎日スロットマシンのように ATM から金を引き出すのを見ていた。チャリン、チャリン……。それは本物の金で、僕はその事を知っていた。僕はプレーする事が好きだったが、同時に、すべての犠牲と努力――父の、兄弟の、そしてコーチの――が必ず報われるようにする責任があると感じていた。心の奥でそう感じていた。

クラスメイトや教師の大半は、僕がどこで何をしているのか見当もつかなかった。大会に出場するため旅行をするようになると、教師に手紙を提出して、学校を数日間欠席する理由を説明しなければならない事もあった。1人の数学教師――エバハード氏――は、僕が南アフリカへ10日間出掛けなければならないという手紙を読んで、目を回した。彼が何を考えていたのか分かる。学校を10日間も欠席するなんて、君は自分をいったい何者だと考えているのか? 君がテニススターになれる可能性はほとんどない。僕が彼の立場なら、同じ事を考えただろう――可能性は殆どないと。

「テニス・キッド」である事は、むしろ気の滅入るような、厳しい、統制された生活に見えるかも知れない。僕にはデートも、ダンスパーティーもなかった。一年じゅうが果てしないレッスンと練習セッションだった。だがそれは僕が選んだ道だった。そして僕は幸せだった。俳優のルーク・ウィルソンは僕のゴルフ仲間だが、彼はかなり華やかな社交生活を送ってきた。僕は彼に「もし25歳の時に君と出会っていたら、僕は最高でも6回のメジャー優勝しかしなかっただろうね」とよく言ったものだ。


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