第5章 1993〜1994年
炎の下に秘めた品位(3)


ウィンブルドンのドローは、かなり厳しいものだった。僕の側には必ずしもビッグスターではないが、芝生での戦い方を心得た男たちが並んでいたのだ。最初の3ラウンドで、僕は2人のオーストラリア人(ニール・ボーウィックとジェイミー・モーガン)とジンバプエ人(バイロン・ブラック)を下さなければならなかった。その結果、4回戦では低いランクのイギリス人選手で、どういうわけか勝ち上がってきていたアンドリュー・フォスターと対戦する事になった。だがこれは要注意だった。イギリスの人々はずっと、イギリス人男性のウィンブルドン・チャンピオンを待望していたからだ―――1930年代にフレッド・ペリーが優勝して以降、それは誕生していなかった 。

イギリスの楽天主義者さえ、フォスターのウィンブルドン優勝を想像する事はできなかったが、ウィンブルドンでは常に弱さを見せてきた世界ナンバー1のピート・サンプラスから番狂わせの勝利を挙げる事は、悪くないスタートだったのだ。だからフォスターは絶賛と希望の波に乗っていた。そして彼には同胞の後押しがあった。僕にとってはさらに悪い事に、我々はいちばん外れにあるコート、コート13を割り当てられた。

厳密には、コート13はメインあるいは「ショー」コートの1つだった。片側には移動可能のそびえ立つアルミニウム製観覧席があったからだ(対照的に、通常は無名の選手を割り当てる「フィールド」コートには、殆ど座席がない)。だがコート13の観覧席には先着順で座れた。そしてウィンブルドンのグラウンド・チケットあるいはパスを持っている者は誰でも、そこに陣取る事ができた。つまりそれは、最も情熱的で熱狂的な、同じく最も騒々しくて党派心の強い―――そして最も酩酊したファンが集まる事を意味していた。

我々の前に組まれていた試合が長引いたので、フォスターと僕がコートに入った時には夕方になっていた。伝統的なピムズ・カクテルに加えて、英国のラガービールで喉を湿らすには充分な時間をファンに与えていた。僕はもつれた戦いに入り込まないと決意していた。それはまさに制御しきれない状況になるからだった。僕は完璧に近いテニスをして、3ゲームしか失わずに最初の2セットを勝ち取った。

だがフォスターは場の勢いとファンの声援にかき立てられ、第3セットで食い下がってきた。我々は6、8、10ゲームまで共にサービスゲームをキープした―――その時までに、観客はフォスターの活気を感じ取り、試合にのめり込んでいた。さらに、日没が近づいていた。本命側が恐れるすべての要素が揃っていたのだ:いやな状況、手に負えないファン、消え去る事もあり得るリード。

それでもなお、最悪の場合でも日没サスペンデッドになるまで試合を引き延ばし、翌日には集中し直して相手を片付けられると考えていた。だが僕の内部の何かが、それを望まなかった。内部の何かは、頑張って勝利を求め、相手を倒したいと望んでいた。これは昨年のUSオープン決勝後、僕につきまとっていた苦い後味をぬぐい去る事でもあった。フォスターはエドバーグではないし、コート13はルイ・アームストロング・スタジアムではなかった。だがこれ自体が、僕にとってはとても重要な時だったのだ。

僕はあくまでも頑張ってタイブレークに突入した。そこでは自分のサーブに気をつけて、さらにフォスターの勢いを止めるべく何本かいいリターンを放った。マッチポイントを勝ち取るやいなや、僕は腕を振り上げ、観客に向き直って叫んだ。「見たか、マザー・フ#$@&%rs!」と。

コートサイドにいたカメラマンは僕の言った事を正確に聞き取り、そしてタブロイド紙が影響力を持つイギリスでは、それは面倒事を意味した。タブロイド紙に記事を書く「フリート街の男たち」(そして女たち)は情報を見つけ出し、型どおりの事件を第一面のニュースにまで誇張する事にひときわ優れているのだ。ウィンブルドンにおける彼らのお気に入りのやり方は、カメラマンと手に手をとって仕事をする事だ。カメラマンは記者よりもアクションのずっと近くに位置しているからだ。実際に、彼らは試合中に選手が言ったりしたりする事のほぼすべてを見聞きできる。そして、彼らは確かに僕の挑発的な言葉を聞いた。たとえその対象であるファンの大部分には聞こえていなくても。

記者会見に向かった時、僕はリラックスし、満足していた。最前列にはレポーターである、身なりの良い男たちがひしめいていた。イギリスのタブロイド紙に最も俗物的でいいかげんな話を書く人々が、常に非の打ち所のない身なりをして、 ポケットチーフか上着の襟穴に花までつけているのは、馬鹿げた皮肉というものだ。そして1人の完璧な装いをした男が、完璧な英国式アクセントで、「あなたがイギリスの観客を『マザー・フ#$@&%rs 』と呼んだというのは本当ですか?」と言うのだ。

僕は凍りついた。これが大ごとになり得るとは、心に浮かんでさえいなかったのだ。その瞬間に感じた決まり悪さは決して忘れない―――もしくは忸怩たる気分は。僕は咄嗟に自分の言った事を否定した。恐らくそれは適切ではなかったのだろう。僕はそれを愉快に感じていたのだ。だが最もすべきでないのは、闘いのさなかに口から飛び出た軽率な発言について言い争う事だった。僕の否認が重要だったわけではないが―――とにかく翌日には、その事件はありとあらゆる新聞に書きたてられ、突如としてイギリスのすべてが僕を憎んでいるかのようだった。軽率なコメントのせいで―――そしてタブロイド紙の権力のせいで。

もちろん、僕の1993年ウィンブルドンにおける最も厳しい部分は、まだ先にあった。前回優勝者で僕のライバルでもある、アンドレ・アガシとの準々決勝だった。我々は多数のサービスブレークを伴う、張り詰めた質の高い闘いをした。試合はぎりぎりまでもつれ、第5セットの大半はシーソーゲームとなった。僕に有利だったのは、アンドレが初のグランドスラム・タイトルを防衛するというプレッシャーを感じているらしかった事と、サーフェスが速い事だった。僕は自分のサーブに気をつければ良いと承知していた。ブレークするすべを見いだす事だけが問題だった。非常に質の高い試合だったが、僕は第5セット終盤でついにブレークを得て均衡を破り、それからサービスゲームをキープして決着をつけた。

準決勝ではボリス・ベッカーと対戦した。彼はすでに何回もウィンブルドンで優勝したチャンピオンであり、不動の偶像的存在だった。第1セットは互いに譲らぬ展開だったが、僕がタイブレークで勝ち取ると、それは彼の意志を打ち砕いたようだった。次の2セットでは1回ずつのサービスブレークに乗じ、僕は満足のゆくストレートセットの勝利を収めた。我々の試合は準決勝の2試合目だったので、僕はその前に行われたジム・クーリエとステファン・エドバーグの試合を部分的に見る事ができた。大半の人と同様、僕はエドバーグが勝つと予想していた。彼はとても優れたグラスコート・プレーヤーだったからだ。だがクーリエはどんなサーフェスにおいても闘士だった。そして彼は勝つ途を見いだしたのだ。状況からいって、彼には最高の機会だった。彼は決勝戦に突き進んだ。

僕は初のウィンブルドン決勝戦を、いわば共に成長してきた男と戦う事になった。冷静で、堅実で、世才に長けた、気持ちがくじけて試合に負けた事―――僕とは違って―――は決してない男だった。我々はもはや親友ではなかったが、問題を抱える間柄でもなかった。廊下やロッカールームで顔を合わせると声を掛け合い、トレーニングルームやホテルのレストランで隣り合えば世間話をした。

多くの人々は、僕がジムから1位の座を奪ったのは不当だと感じていた。グランドスラムの舞台では、彼の方が僕よりも明らかに良い成績を挙げていたのだ。だが僕はくじけず、何らかの大舞台でナンバー1の座を保持してみせようと決意していた。僕は対戦した4回の決勝戦で彼を下し、グランドスラムの戦いでは彼に対して3勝0敗だったのだ。


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