第4章 1992年
献身に対する自問自答(2)


1992年の前期、デビスカップでの惨敗はいまだ僕の心に生々しいものだった。ティムは昔ながらの、デビスカップを愛する男として、僕の口からあのリヨン決勝の苦い味をぬぐい去る助力を優先事項にすえた。その機会は1月、オーストラリアン・オープンの直後に巡ってきた(疲れ果てた1991年の後、僕はメルボルンへ赴く代わりに、ティムとトレーニングをする事に決めた)。1992年の第1ラウンドでは、合衆国はアルゼンチンとの対戦を引き当てていた。そして我々はホスト国だった。USTA(アメリカテニス協会) はハワイのハードコートでプレーする事を決定した。この場所は、オーストラリアで勝ち進んだ後に家路を目指す可能性の高い自国のトップ選手にもアピールするだろうと承知していたのだ。

タイは僕にとって、まさに予定どおり―――そして希望どおり―――上手く運んだ。トム・ゴーマンは非常に楽天的で、僕が上手くやる事を強く望んでいた。やはりチーム・ミーティングは行ったが、2度目となる今回は、僕も気にならなかった。僕は第1試合に登場した。そして第1セットを失いはしたが、その後は堂々と自信をもってプレーし、マルティン・ハイトを下した。チームメイトもそれぞれ仕事をこなし、我々は3連勝で勝利を決めた。その結果、3月に行われる準々決勝では、当時のチェコスロバキアと対戦する事になった。そして巡り合わせにより、我々は再びホームコート・アドバンテージを得ていた。USTA はタイをフロリダ州フォート・マイヤースの、ソネスタ・サニベル・リゾートで開催すると決定した。

僕は1989年にデビスカップのヒッティング・パートナーとしてデビューした場所に戻ろうとしていた―――その時のチームはアンドレ・アガシとマイケル・チャンが中心で、パラグアイと対戦した。当時としては、ダン・ゴルディと僕がヒッティング・パートナーとして得た2,500ドルは、ありがたい報酬だった。今や僕はサニベルに戻り、アンドレと共にシングルスを担当していた。僕はデビスカップに誇りを感じ始め、確かに心地よさを感じるようになっていた。実際、僕はデビスカップに傾倒し始めていた。

アンドレはデビスカップで大きな役割を果たしていたが、やはりチームは最高の合衆国デビスカップ戦士、ジョン・マッケンローのものだった。彼はキャリアの終わりに近づき、たいていはダブルスへの出場だったが、今でもチームをまとめる精神的支柱だったのだ。年月と共に親しい友人となっていったトッド・マーチンは、1992年のチームでヒッティング・パートナーを務めていた。タイ前のある練習の際、1ポイントを終えたマッケンローはコート脇に座っているトッドを見て、「タオル」と怒鳴った。「タオルを頼む」や「タオルを取ってくれるかい?」ではなく、ただ「タオル」と。僕はたまたまその瞬間にトッドと目が合い、彼がマッケンローの粗暴な態度に驚いているのが分かった。彼はタオルを取り、言わば気乗りしない様子でジョンにそれを投げた。

僕は笑いそうになるのをこらえた。トッドが何を考えているか、正確に理解したからだ。あなたは何様のつもりなのか? と。だが、身分の低いヒッティング・パートナーとしては、彼は何も言う事ができなかった。その夜、我々はその小さな事件について話をし、僕はトッドが気分を害しているのを知った。今に至るまで、廊下やロッカールームでトッドに会うと、僕は彼をちらっと見てウインクをし、そして「タオル」と怒鳴ってみせる。彼は僕が何の話をしているか、正確に分かっているのだ。

フォート・マイヤースでは、僕のシングルス結果は1勝1敗だった。カレル・ノバチェクには勝ったが、 ペトル・コルダに敗れた。アンドレは勝敗が決定する第5試合でノバチェクを倒し、我々に3-2の勝利をもたらすヒーローとなった。


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