第1章 1971〜1986年
テニス・キッド(3)


8歳になる頃には、僕はテニスを真剣に受け止めていた。母親が手すきの時にボール出しをしてくれる事で満足していた日々は終わったのだ。僕はたくさんのレッスンを受けていた。当時の事を思い起こす時、父が ATM に行って6ドルかそこらを引き落とし、ロバート・ランズドープに支払うよう僕に渡してくれた記憶がありありと甦る。

チャリン、チャリン……。現金自動支払機へは何回も通った。父は金持ちではなかったが、レストラン事業で幾らか蓄えがあり、かなり良い仕事に就いていた。だが多額の出費が始まり、父は蓄えに手をつけなければならなかった。

フィッシャーが父にアドバイスし、僕の上達を監督する役目に就いて間もなく、一貫したトレーニング形式が定まった。ランズドープはフォアハンドとグラウンドストロークを指導し、フィッシャーはサーブの上達に関与し、もう1人の地元コーチ、 デル・リトルはフットワークとバランスの専門家だった。やがて、クレーマー・クラブのプロコーチで、ロングビーチ州立大学の男子テニス部監督も務めるラリー・イースレイから、ボレーのレッスンも受けるようになった。これが僕の私的な上達チームだった。

僕のゲームの基礎はランズドープによって創られた。彼は南カリフォルニアのテニス界における崇拝の的で、軍曹的アプローチによる妥協のないドリルで有名だ。彼の特質はかつても今も、ゲームにおける最良のグラウンドストロークだ。教え子の大半は、強力なフォアハンドを身につけた。彼はフラットで鮮やかな、無駄のないストロークを教える。そしてトレイシー・オースチン、リンゼイ・ダベンポート、メリッサ・ガーネイ、ステファニー・ Rehe を含む女子のコーチングに優れていた。全員がジュニア時代には傑出した存在で、レベルの違いはあれプロとしても成功を収めた。ロバートが教えた最高の男子プレーヤーは、僕が現れるまではエリオット・テルシャーだった。皮肉な事に、エリオットは強力なバックハンドの方が有名になった。それが、どんなプレーヤーにも将来のプレースタイルを前もって示すような生来の傾向がある、と僕が言う意味だ。

ロバートとピート・フィッシャーの仲は上手くいっていなかった――ロバートはピートを騒々しい無駄口をきく奴と見なしていたのだ。それは何らかの事を意味していた。ロバートは善人で、我々が出会った時にはすでに大いなる評判を得ていたからだ。ロバートは非常に荒っぽい印象を与える。遠慮なく物を言い、容赦ないほど正直なのだ。関心がなければ、彼はそれを隠さなかった。その特質は不利に働いたが、彼はいわば一匹狼で、自分の務めを自分のやり方でする主義だった。彼がフィッシャーを威嚇していたのかは分からないが、彼らはそれなりに共同して取り組んでいた。

僕は熱心な子供で、ロバートを尊敬していた。彼は僕を威圧した。彼は巨大な手をした非常にぶっきらぼうな大男なのだ。僕のレッスンは木曜日だったが、学校で時計を見ながら緊張していたのを思い出す。ロバートのレッスンは午後3〜4時で、僕はランズドープのレッスンを受けるのが好きだったが、同時にレッスンの終わるのが待ち遠しかった。

僕がプレーを始めた頃は、まだウッドラケットの時代だった。そしてロバートは正確に打つ事を教えた。数年後には技術が基本的なテニスラケットを変え、武器を身につける事が誰にとっても容易くなった。だが僕は自分の武器をより厳しい方法で形づくった。我々がしていたのは非常に基本的な事だった。ロバートはラケットカバー――当時のラケットカバーはジッパーの付いた柔らかいビニール製で、ラケットのヘッドからスロートまでを覆うものだった――を開けると中に鍵を入れ、再びジッパーを閉めた(ロバートは常に40個くらい鍵を持っていたので、キーホルダーは金床のように重かった)。僕は重みを掛けたラケットでフォアハンド・ストロークを練習したものだった。小さい子供には辛い事だったが、それによってボールを押し出す事を学んだのだ。

ランズドープの練習メニューには、秘密のテクニックなどなかった。彼が重視したのは反復練習で、それには非常に大きな副次的効果があった。徹底したストロークの鍛錬を教え込んだのだ。ロバートはスーパーマーケット用の大きなショッピングカートにボールを積み上げて、ドリル――準備運動、短いボールを拾い上げる事、僕のトレードマークとなったランニング・フォアハンド等々――に取り組んだ。1時間、もしくはステラと分け合った30分の間。ドリルに次ぐドリルだった。

エリオット・テルシャーは、ロバートはボール出しの天才だと考えている――それほど難しい仕事とは思われていないだろうが。だがエリオットは正しい。ロバートは繰り返し正確にボールを適切な地点に出したのだ。毎日毎日、1時間、何百というボールをだ。僕は百万ものボールを打ったが、それは重要な事だった――身体に覚え込ませ、焼き付け、そして自然なものとなるのだ。

ロバートのお気に入りの1つは、きついトップスピンのショットを僕の真正面に打ち込む事だった。思い出してほしい。200ポンド以上もある大男が、12歳の痩せっぽちな子供と打ち合うのだ。それらのショットを受け流しながら、僕はぎりぎりのところで踏み止まって彼とショットを交わすすべを学んだ。それは僕を強くした。ロバートは片足に重心をかけて位置につき、カートから片手で素早くボールを取り出し、もう一方の手でボール出しする動作を何時間も続けていた。彼はついに腰の手術を受ける事になったが、それは身体を傾けてボール出しを続けていた姿勢のためだったに違いない。彼はセンターラインの中ほどに立ち、15分間連続でクロスコートに強烈なフォアハンドを叩き込んだものだった。消耗する仕事だった。

僕のランニング・フォアハンドはロバートのおかげで身についたのだ。ミッドコートからのフォアのアプローチショットもそうだ――派手ではないにしても、非常にトリッキーなショットだ。決め球にも、アプローチショットにも、そしてラリーショットにもなり得る。タフなショットだ。なぜなら、前後に走るよりも左右に走る方が楽だからだ。コート前方へ進み、ネットを越えるだけの高さをとりつつ、ペースと深さも(長くなりすぎないように)充分にカバーする。

プロになってからは少しフォアハンドを変え、もう少しトップスピンをかけて誤差の範囲を増すようにした。だが長年の間にも変更はごくわずかだった。もし息子がテニスをしたがり、そしてロバートがまだコートにいるなら、僕は彼に指導を依頼するだろう。数年前に、僕は当時ロバートが指導をしていたリビエラ・クラブにいた。そして彼が育成していた12歳の子供とヒッティングをするよう頼まれた。僕はそれを引き受け、特に何も考えていなかったが、数年後にテレビでその少女を見つけた。マリア・シャラポワだったのだ。ロバートは才能を見抜く慧眼の持ち主だった。誰が「それを持っているか」――素晴らしい選手になる可能性と気骨があるかを、直感的に理解する事にも優れていた。彼は選手の性格と心意気を把握していた。だが、彼はとにかくタフだった!

時が経つにつれて、フィッシャーは我が家を日常的に訪れる存在になっていった。そして日課は順調に推移していった。火曜日にはデル・リトルと、木曜日はランズドープと、そして彼の仕事が終わる金曜日にはフィッシャーと共に励んでいた。レッスンの合間や週末には、他のジュニアと練習試合をしたり、大会に出場した。

リトルはオースチン一家ととても親しい関係にあった。一家は南カリフォルニアのテニス界における王族のような存在で、トレイシー、パム、ジョン、ジェフ等の選手を輩出していた――全員がプロツアーでプレーし、トレイシーがゲームの歴史における最も有名な天才児として目立っていた。

リトルはクレーマー・クラブで教えていたが、そこから多くの子供たちを、 ロミータ近くにある彼の練習場へ連れて行った。そこの状況は極上とはとても言えなかった。実際、彼が使用していた2つのコートはトレーラーハウスの駐車場にあった。リトルは優秀な指導者だった。彼はコーナーに立ち、僕を走り回らせた。コートのありとあらゆる場所へボールを打ち出し、常にフットワークを強調していた。我々はスプリットステップなど多くのドリルを行った。常にバランスを保つ事に、彼は大いに貢献してくれた。

フィッシャーとテニスに取り組む時間は限定されていた。彼は内分泌学と小児科の成長の専門家として、保健医療従事者のカイザー・パーマネントと共に極めて多忙にしていたからだ。週日のレッスンにはあまり立ち会わなかったが、彼はいつも我が家に出入りしていて、夕食を共にし、父と話をしていた。フィッシャーはテニスのスタイルと戦略について理解が深く、父と僕にその知識を伝えようとした。ピートは指導にもかなり優れており、僕は彼との練習で特にサーブについて多くを学んだ。だがそれには少し奇妙なものもあった。

ピートとデル・リトルはそれを「チョン」と呼んでいた。思い出すたび、今でも笑ってしまう。まるで東洋武術か何かのような、神秘的な響きだ。「チョン」はサービス・スタンスと、ある角度を作るために足の踵を寄せる方法に関係があった。僕には理解できないものだったが、フィッシャーが「良し、チョン!」と言うのを聞くのは痛快だった。

僕の特徴的な癖の1つは、サービスモーションの始まりにある(シャラポワを含めて、何人かの選手がこのモーションをとる)。ベースラインで左足をサーブする方向へ向ける。それから重心を少し後方へ移し、左足の爪先を上げる。それがサービスモーションの本当の始まりとなる。ピートとデルは僕にそれをさせるようにした。足を寄せる事は「チョン」に関係があったからだ。

だが「チョン」であろうがなかろうが、僕はかなり整ったシンプルなサービスモーションを身につけた。それは大いなるプラスとなった。小さな欠陥やチェック項目が多いほど、事はうまく運ばなくなるものだ。後年ピートは、僕はとても「教えやすい」生徒だったと言った。もちろん僕は子供で、子供なら誰でもする事をした――小さなスポンジのように、物事を吸い取っていたのだ。

フィッシャーはもう1つ大きな貢献をしてくれた。これは僕にも説明しやすいものだ。彼は僕にサーブを読まれにくくするすべを教えてくれた。レッスンの中で、彼は僕にトスを上げさせ、それからどこへ、どんな種類のサーブを打つか声を上げて指示した。後になって、僕のサーブがどこへ飛んでいくのか、どんな種類の動きをするのか読みづらいと選手たちは言ったが、それはピートのおかげだった。

時間をかけて、僕は手首の使い方を学んでいった。そして「回内」あるいは手首を曲げる事によって、同じ基本的なモーションで異なった種類のサーブを打つ事ができた。キックサーブだけは少し異なっていた。強いキックを得るためには、トスをより左後方へ上げなければならず、それは隠しようのないものだからだ。それでも、他の選手よりは分かりにくく打つ事ができた。

僕がバックハンドの両手打ちをやめてサーブ&ボレーをするようになると、ラリー・イーズレイが練習に加わった。イーズレイはボレーのコーチに優れた人物で、僕を手助けしてくれた。その移行の最中には、後に述べるように、深刻な懸念やあがきを感じる時もあった。そしてクレーマー・クラブの人々は、僕がバックハンドを変えるのは馬鹿げていると考えていた――特にライバルのマイケル・チャンが僕を凌駕するようになると。


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