第3章 1990〜1991年
重荷事件(2)

次の大会は10月下旬のストックホルムだった。僕は苦労しながら3回の3セットマッチ(チェコの鋭いショットメイカーであるペトル・コルダとの第3セット、タイブレークによる勝利を含む)を勝ち上がり、幸いにも準決勝へと進出した。そして生涯のライバルの1人となったボリス・ベッカーに敗れた。彼はイワン・レンドルにも似た荒々しいゲームで僕を翻弄し、スコアは6-4、6-4だった。

秋にヨーロッパで開催される伝統的な室内サーキットでは、僕は次の3大会で3試合しか勝てなかった。大半の室内大会で用いられる速いカーペットは、僕の新しいゲームに向いていたにも関わらずだ。冬のヨーロッパ・サーキットには2つの大きな大会、パリ・インドア(後にパリ・マスターズとなった)とシーズン最終戦の ATP ファイナルがあった。ATP(プロテニス選手会)は選手の組合として始まった。ゴルフの PGA のようなものだ。各年の終わりに、トップ8の選手たちは ATP ファイナル、あるいは世界選手権(後に、大会は ATP マスターズ・カップと呼ばれるようになった)で戦う。選手は4人ずつ2つのグループに分かれ、各グループでラウンドロビンを戦う。そして各グループの上位2名ずつが、引き続きノックアウト方式の準決勝と決勝を戦う。

1990年のラウンドロビンは惨敗だった。アンドレからは6ゲームしか取れず、ステファン・エドバーグにはストレートセットで敗れ、準決勝進出は果たせなかった。だが僕は創設されたばかりの、そして幾分の物議をかもした大会、賞金総額600万ドルのグランドスラム・カップ(GS カップ)で莫大な臨時収入を得て、ATP ファイナルでの心痛を和らげた。

その大会は国際テニス連盟(ITF)によって創設された。ITF とは(合衆国テニス連盟のような)各国のテニス連盟の上位機関で、ITF の所属団体は各国の国内選手権を統括する。それらの大会は長きにわたり、年間を通して最も重要な大会へと発展してきた。グランドスラム、あるいはメジャーは基本的にオーストラリア、フランス、イギリス、合衆国の「オープン」(ランキングに基づき、資格のある者全員が参加可能な)国内選手権である。ATP の勢力拡大から権威を取り戻すため、ITF は ATP ファイナルのライバル的大会としてグランドスラム・カップを開催する事にしたのだ。GS カップは4つのメジャー大会で好成績を挙げた選手たちを集め、年末の大きなイベントを開催するというものだった。合法的な考えではあるが、我々にはすでに ATP ファイナルがあった。だから GS カップの創設は人々を混乱させ―――選手に大金をばらまくだけとなった。

GS カップはメジャー大会で獲得したポイントに基づき、トップ16選手を選出するシステムだった。したがってメジャーの1〜2大会でたまたま好結果を出し、それによって本大会の出場資格を得た選手が常に数人はいた。賞金額は正気の沙汰とは思えなかった。ジョン・マッケンローは「鼻持ちならない」と発言し、公に大会を批判した。1回戦の敗者にさえ10万ドル台という気前の良い小切手が支払われ、優勝者に至っては200万ドルという目の回るような賞金を得たのだ(準決勝進出者はささやかな45万ドルを手に入れた)。ATP ファイナルがラウンドロビン制だったのに対して、 GS カップは男子16人のドローによるノックアウト大会だった。これは、メジャー1〜2大会で実力以上のプレーをして、GS カップの出場資格を得た者にとっては、今後は二度となさそうな臨時収入が入る事を意味していた。

GS カップのサーフェスは速いカーペットだった。だが僕は3セットの死闘にはまり込み、運良く勝ちを拾った。僕はウィンブルドンにおける最高のライバルとなっていった男(ゴラン・イワニセビッチ)と、子供時代からのライバル―――そして我々「黄金の世代」の中で、その段階でグランドスラム・タイトルを獲得していたもう1人の男―――マイケル・チャンに勝利した。それによって、僕はブラッド・ギルバートとの決勝戦に進出した。

ギルバートは後にアンドレ・アガシのコーチ、およびテレビ解説者となり、選手だった頃よりも名声を博した。彼は自身の書いた本のタイトルが示すように、ぶかっこうに勝つ(winning ugly)事で有名だった。マッケンローとは異なり、ブラッドは大金を鼻持ちならないとは受け止めずに熱意をもって戦い抜き、決勝戦まで到達した。だが僕は、ぶかっこうにプレーする男たちには大して苦労した事もなく、ストレートで勝利したのだった。


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