第9章 1999〜2001年
ロイを捕らえる(1)


カギとなった試合
1999年7月、ウィンブルドン決勝

ピート・サンプラス    6    6    7
アンドレ・アガシ     3    4    5
2000年7月、ウィンブルドン決勝
ピート・サンプラス    6    7(5) 6    6
パトリック・ラフター   7(10)  6    4    2
2000年9月、USオープン決勝
ピート・サンプラス    4    3    3
マラト・サフィン     6    6    6
2001年7月、ウィンブルドン4回戦
ピート・サンプラス    6    7    4    7(2) 5
ロジャー・フェデラー   7(7) 5    6    6    7
2001年9月、USオープン準々決勝
ピート・サンプラス    6    7(2) 7(2) 7(5)
アンドレ・アガシ     7(7) 6    6    6

年度末順位
1999、2000年:3位


ナンバー1在位連続年記録を破るための奮闘に疲れ切っていたので、僕はオーストラリアン・オープンを欠場し、納得ずくで春の大会から始動していった。ロンドンのグラスコートに行くまでは、1大会で準決勝に進出しただけだった。だがクウィーンズ・クラブで優勝を果たし、最愛の大会でロイ・エマーソンの12グランドスラム・タイトル記録に並ぶチャンスを握ってウィンブルドンに臨んだ。

この当時、アンドレの復活劇は最高潮に達していた。彼は1999年ローラン・ギャロスで優勝を遂げ、金字塔を打ち建てた。「キャリア・グランドスラム(グランドスラム4大会すべてで、少なくとも1回ずつ優勝する事)」を達成したテニス界で5人目の男子選手となったのだ。僕はウィンブルドンで良いドローを得て、1週目は比較的楽なものとなった。グラスコート・テニスで要求される資質により、ウィンブルドンでの競争相手は、例えばフレンチ・オープンよりは小さな集団だった。その一方で、ビッグサーブを持つ者なら誰でも、優勝候補を番狂わせで破る危険性もあった。ちょうど1998年と同じく、準決勝で(恐らく)ティム・ヘンマンと当たる前に、準々決勝でマーク・フィリポウシスと対戦する事を知っても、驚くにはあたらなかった。

フィリポウシスはいっそう危険な存在になっていると、僕は承知していた。前年の秋、彼はビッグ・フォアハンドと強烈なサーブを生かしてUSオープン決勝戦まで進出していたのだ。ウィンブルドン対決では、彼は絶好調で第1セットを6-4で勝ち取った。しかし第2セット1-2の段階で膝をひどく傷め、途中棄権した。その怪我は、彼のキャリアに甚大な影響を及ぼす事となったのだった。

次はヘンマンだった。あるレベルで僕は彼に同情していた。彼は一流の選手で、僕の友人・ゴルフ仲間でもあり、よく一緒に練習する相手だった。フレッド・ペリー以降、イギリスでは自国の男子ウィンブルドン・チャンピオンが誕生していなかったが、ティムはそれに迫るところまで来ていた。彼には優勝のチャンスがあり、常に準々決勝かそれ以上まで進出していた。しかし番狂わせや対戦相手運もあって、優勝は阻まれていたのだ。

専門家を自称する者の中には、ティムが難関を突破しない事に酷評する者もいた。しかし僕は、ティムが背負っているイギリスの期待やプレッシャーを考えれば、彼は品位をもって状況に対処しているだけでなく、実際にウィンブルドンでは飛び抜けたプレーをしていると感じていた。僕自身はこの大会で3回(2回は後半のラウンドで)彼を下していたが、大会での優勝に次いで良いのは、チャンピオンに負ける事なのだ。時々、こんなに何回も友人の夢を打ち消すのは辛くないかと尋ねられたが、僕はこう答えるしかなかった。全然、と。それはダーツやチェスのゲームで相棒を負かすようなものだった。ただプレーをして、より優れた方が勝つ、それだけの事だったのだ。

僕とロイ・エマーソンの記録との間に立ちはだかる最後の男は、ライバルのアンドレだった。土曜日の女子決勝戦に雨が降ったため、リンゼイ・ダベンポートとシュテフィ・グラフの試合は日曜日に順延となり、我々の決勝戦の前に組み入れられた。

ウィンブルドン決勝戦は伝統と儀式に満ちており、コートへ出ていく前にも、さらなるプレッシャーを感じかねない。まずは小さな待機室で待たされ、ドアの上に掲げられたキプリングの詩の引用を眺める事になる。それから、ついにコートへと送り出される時には、何も持たない―――付き添い人が、椅子までずっとラケットバッグを運んでくれるのだ。上品な慣習ではあるが、その事で自分がいっそう人目にさらされ、無防備な気分にさせられる。両脇に腕をぶらぶらさせながら、ウィンブルドン決勝戦に臨まんと歩むにつれて、もう引き返す事はできないと悟る。隠れる場所はどこにもない。これはテニス人生のテストなのだ。それがウィンブルドンの優勝を特別なものにしている一要素だ。

センターコートはウィンブルドンの神秘性を生み出す中枢である。常套句ではあるが、その場所は本当にテニスの大聖堂のようで、中へ入るとすぐに、自分が小さな存在であるという感覚を持つ。しかし世界じゅうの素晴らしい大聖堂とは異なり、センターコートは驚くほど小さい(改築前は、観客席は約1万2千席)のだ。そしてスタンド上方の屋根は、さらにこぢんまりとしたと印象を与える(2009年までに、センターコートには全体を覆う格納式の屋根がつく予定)。

比較すると、オーストラリアン・オープンのロッド・レーバー・アリーナは味気ないほど整然として、特色がなく、そして巨大に見える。ベースラインに立ってネットの向こう側を見ると、コート後方の壁までは遙か何マイルもあるように見えるのだ。そしてコートを実際よりも小さく感じさせる。僕は元来、コートでのプレーを実際より大きく感じられるスタジアムの方が好きだった。

ローラン・ギャロスのフィリップ・シャトリエ・コートも、コート周りのスペースが広くて、同じく巨大だ。その事で僕はますます、あそこで起こる事をコントロールできない―――テリトリーが広すぎる―――という気分にさせられた。その心地悪い気分は、いくぶんは妥当だ。なぜならクレーでは、実際にずっと大きなコートでプレーする事になるからだ―――少なくとも、どれほどのスペースを使うかという点に関しては。クレーでは、しばしばベースラインの遙か後方でプレーする。他のサーフェスよりも遠くまでボールを追い、左右にもっと広く振られる事が多いのだ。

ニューヨークにある USTA ビリー・ジーン・キング国立テニスセンターのアーサー・アッシュ・スタジアムは、グランドスラム開催場所の中で最も威圧的ではあるが、コートと周辺のスペースは、驚く事にごく適正だ。そびえ立つ壁が、コートを小さく感じさせるのではないかと思う。多くの選手は、落ち着きのないお喋りなニューヨークの観客のせいで、アッシュ・スタジアムで集中するのがいかに難しいか不平を鳴らす。だが僕にはそれが問題となる事はなかった。とはいえ、僕は旧ルイ・アーム・ストロング・スタジアム(アッシュ・スタジアムが建てられる前のメイン・コートで、現在は第2コート)の方がもっと好きだった。恐らく少し小さく感じられたからだろう―――およそセンターコートらしくはなかったが。

これにはプレーへの明らかな心理的影響があった。コートが小さく見えると、遠いサイドが近いように見えて、コートのプレーがより速く感じられたのだ。その事は僕にさらなる自信を与えてくれた。僕は速いテニスが好きだったからだ。この錯覚は、対戦相手にも影響を与えたのだろうか。

ウィンブルドンでは、コートは完全に、そして否応なしに注目の的となる―――飛行機の騒音もないし、巨大スクリーンもない。株価やフットボールのスコア、広告など注意をそらす込み入ったデジタル・スコアボードもない。ウィンブルドンではコート周辺のスペースが限定されている。背景幕は濃い色で、ごてごてした広告などはほとんどない。暗い背景が、青々とした芝生をことさら魅力的に見せるのだ。美的な見地からすると、芝のコートはクレーの土の広がり、あるいは無個性なハードコートに優るすべてを備えている。

僕はコートの相対的な「柔軟性」を楽しんだ。ステップを踏むたびに、足の下で芝生が穏やかに沈む感触は素晴らしかった。あそこでは自分が猫のように感じられた。まるで柔らかなマットの上にいて、不安や恐れ、過度の消耗もなく、思うままにプレーできるようだった。センターコートはいつも、自分が持てる技能と結びついていると感じさせた。そして洗練されたイギリスの観客は、その感覚を増幅してくれた。彼らの前でプレーする事は喜びだった。そして彼らは僕を、最高のプレーをするよう奮い立たせてくれた。ウィンブルドンは聖地だ。あそこでプレーするのは常に喜びだった。


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