第5章 1993〜1994年
炎の下に秘めた品位(6)


1994年はオーストラリアン・オープンから始まった。僕は初戦を突破して、そして次にロシアの新人、エフゲニー・カフェルニコフと相対した。明るいブロンドの髪とハロウィンのカボチャちょうちんみたいなニヤニヤ笑い、質の高い両手バックハンドを持つ背の高いひょろっとした少年については、皆が僕に警告していた。彼のフォアハンドはテニス史上でも最も不格好なショットに入った。腕を曲げて打ち、滑らかで惚れ惚れするようなバックハンドに比べると、殊にぎこちなく見えた。

だがそのフォアハンドは見た目より優れたショットで、さらにその男は大いなる才能の持ち主だった―――僕を追いつめるほどに。さらに悪いことに、僕は対戦した事のない相手に対しては、上手くやれたためしがなかったのだ。世評という僕のわずかな利点は、僕が相手のやり口を見抜き、相手特有のゲームに対して快適なゾーンに入り込むには通常1〜2試合を要するという事実によって相殺された。

だが僕はカフェルニコフ戦を切り抜け、それからイワン・レンドルを下し、さらに準決勝と決勝では、旧友のジム・クーリエとトッド・マーチンに連勝した。トッドをストレートセットで下して、3大会連続でメジャー優勝を遂げたのだ。僕は勢いに乗っていた。次には2つの大きい冬の合衆国ハードコート大会、インディアン・ウェルズとキービスケーンで優勝した。僕は皆が少し自分に畏怖の念、恐れを抱いている事に気が付き始めた。そしてその感じが好きだった。

マイアミから、大阪と東京で行われる小規模のハードコート・サーキットでプレーするために極東へ向かった。現在はアジアでテニスがブームになっているかも知れないが、当時はプロモーターにとって厳しい地域だった。トップ選手を呼び寄せるためには、賞金に加えて出場料を提供しなければならなかった。選手が少なくとも2大会でプレーする事に同意したら、出場料は時に10万ドル台半ばからそれ以上にも上り、問題となっていた。

僕はお金のために何かする事はなかった。それは僕が幸運だという事でもあった―――その必要がなかったのだ。だが同時に、エキシビションや、出場料がなかったらプレーしないだろう大会でお金を稼ごうとすると、良くない事も起こりうるからだった。それには燃え尽き症候群、怪我、精神的な疲労が含まれる―――そのすべてが、本当に重要な大会の後半戦、そして年月とともに、プレーの出来に影響を与えうるのだ。時には、僕は出場料を受け取ったイベントから手を引く事もあった。最善の努力を尽くせるとは思えなかった(通常は身体的な理由で)からだ。

僕の場合、アジアでプレーするのは魅力的だった。レッドクレーでプレーするためにヨーロッパへ急いで向かう気がなかったからだ。最初から、クレーは僕にとって冒険のようなものだった。そして僕がクレー大会で過ごした時間と重要なクレー大会における結果との間には、ほとんど相関関係がなかったのだ。1994年春のヨーロッパでは、ローマはフォロ・イタリコのクレーコートでイタリアン・オープンに優勝し、キャリアで最高と言えるクレーコートの戦績を挙げた。

当時のイタリアン・オープンは、最速のクレーコートを特色としていた。それは決勝戦で僕がウィンブルドンの偶像的存在、ボリス・ベッカーと対戦する事になった理由を説明する一助となる。だがその途上で、僕はアレックス・コレチャ、アンドレイ・チェスノコフといった堅実なクレーコート・プレーヤーをも下し、大会を通じて1セットしか落とさなかった。

その優勝は、人気者の元プロでテレビ解説者のビタス・ゲルレイティスを満足させた。ビタスが僕のクレーでの悪戦苦闘ぶりを見て、僕を励ましてアドバイスをしてくれて以来、我々は友人となっていたのだ。彼には信頼性があった。サーブ&ボレー・テニスをしながらも、イタリアン・オープンで2度の優勝を遂げていたからだ。彼は僕に、自分にできたのなら僕にもできる筈だと言ってくれた。僕はビタスが大胆なチップ&チャージ・ゲームで成し遂げた事を本当に尊敬していた。そして彼がそばにいてくれるのは素晴らしかった。彼のエネルギー、豊かな個性、人生への情熱ゆえに。

ビタス、ティム、そして僕はタンパで充分な時を共に過ごした。そこは僕がキャリアの大半、トレーニングのために暮らした場所だ。ビタスはそこにしばしば立ち寄ったものだった。テニスを引退した後の彼はゴルフ狂で、ティムとプレーするのが好きだったのだ。我々の友情は多くの人々を驚かせた。我々はとても違っていたからだ。ビタスは全盛期、最高に魅惑的なテニスプレーヤーだった―――カリスマ性、長髪、ロックスターの気質を持つスタジオ54の常連だった。
訳注:スタジオ54。マンハッタン54番街にあった人気のブロードウェイ劇場・ディスコ。1977年にオープンし、1986年に閉鎖。

アンディ・ウォーホールがお気に入りで、ニューヨークのゴシップページにしょっちゅう登場していた。だがビタスは最高で3位まで上り、オーストラリアン・オープンで優勝した他に、グランドスラム決勝戦に2回進出した。偉大なる仲間、ビョルン・ボルグと対戦した1977年ウィンブルドン準決勝は、現在でもオープン時代における最高の試合の1つと見なされている。

恐らくテニス界では、ビタスがジミー・コナーズとの対戦で16回負け続けた後、ついにジンボから勝利を挙げた時に披露した素晴らしい名言が、最も有名だっただろう。試合後、彼はプレスルームにぶらりと入ってきて、集まっていた記者をじろりと見渡し、まったくもって真面目くさった顔で宣言したのだ。「ビタス・ゲルレイティスを続けて17回破る者はいない」と。

僕は良い体調でパリ、ローラン・ギャロスへと向かった。クレーは僕が得意とするサーフェスではなかったが、時にはとても快適に感じる事もあった。そして遅かれ早かれ、パリで僕にチャンスの窓が開くだろうと思っていた。フレンチ・オープンで下した男の1人は、新人のマルセロ・リオスだった。彼は当時まだとても若かったが、すでに「注目されて」いた。実際、我々は共にジェフ・シュワルツをエージェントにしていたのだ。だがジム・クーリエが、彼は僕をプッシュしようと努力し、トップへの返り咲きを目指して挑戦を続けていたが、4セットの準々決勝でローラン・ギャロスから僕を放逐した。彼はパリではまだ黄金時代にいたのだ。過去3年決勝まで進み、2度優勝していた。


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