第3章 1990〜1991年
重荷事件(3)


その年はまあまあの終わり方だった。それは1991年に経験するジェットコースターのような1年の予兆でもあったのだ。僕の結果が安定しないのには2つの理由があった。1つはコントロールする事ができたが、もう1つはできなかった。僕のゲームはいまだ発展途上だった。サーブ&ボレーゲームは頼りになったが、リターンゲーム(特に速いサーフェスでは)とグラウンドストロークは、上手くいく日とそうでもない日があったのだ。それがコントロールできない部分だった。自分でコントロールできる筈の部分には、献身を必要とした―――コートに立つ時はいつも、勝とうが負けようが、自分のベストを尽くしてすべてを投入するという強い欲求を。

オープンでの優勝は、僕のライフスタイルを劇的に向上させていた。最高のレストランで食事をし、好きな場所でゴルフをする事ができた。何かを望むと、まったく知らない人を含めてみんなが応じてくれた。物質的には快適だったが、居心地の悪さも感じていた。同時に、USオープン・チャンピオンであるという事に伴うプレッシャー―――突然、背中に標的を背負った男―――はひそやかに、そしてゆっくりと神経をすり減らしていった。僕は少し不機嫌で内向的になった。自分にかけられる期待が恨めしかった。

オーストラリアン・オープンは欠場したが、僕は相性のいい馴染みの大会、 フィラデルフィアのプロ・インドアでかなり好調な1991年のスタートを切った。マッケンローに再び勝って決勝へと進出したのだ。だがレンドルは、フラッシング・メドウで僕が彼に勝った事を恐らくまだ忘れられなかっただろうが、僕を徐々に打ち崩し、決勝戦で5セットの末に僕を負かした。フィラデルフィアが終わってウィンブルドンまでの間、僕は1大会でしか2回戦を突破できなかった。しかもそれはオーランドの比較的マイナーな大会だった。そこでも僕はデリック・ロスターニョに準決勝で敗れた。ロスターニョは時に大物食いこそすれ、決して堅実な結果を挙げている選手ではなかったのだが。

ウィンブルドンの重要な前哨戦となるロンドン、クウィーンズ・クラブの大会では、僕はお粗末なほど調子を狂わせた。1回戦でほとんど無名のマーク・カイルにストレートで敗れたのだ。マンチェスターでは準決勝まで進んだものの、ゴラン・イワニセビッチに敗れた。ウィンブルドンでは2回戦で敗退し、その頃にはできる限り早く芝生から離れ、ロンドンから立ち去りたい思いになっていた。僕は理論上、4度のウィンブルドン・チャンピオンでグラスコートの魔法使いだったロッド・レーバーのようなプレーをすべく教育されてきたが、実態は、芝生は僕を困惑させ、失望させたという事だった。

だが、グラスコートでの憂鬱を晴らす治療法は、前方に見えていた。アメリカのハードコート・シーズンがウィンブルドンの直後に始まるからだ。それらの大会が持つリラックスした雰囲気が好きだったし、何よりもまず、僕はハードコート・プレーヤーだったのだ。夏にはその憂鬱を振り払い、サム・サンプラスに「お粗末」と言われないよう、春に対する復讐を少しばかり果たした。僕は夏に開催される3つの大きな大会―――基本的にはUSオープンに向けた予行演習―――に出場し、3大会とも決勝戦まで進み、2大会で優勝したのだ。ロサンジェルスではブラッド・ギルバートを、インディアナポリスではボリス・ベッカーを打ち負かした。シンシナティは3大会中で最大のものだが、やりにくい左利きの男、ギー・フォルジェに敗れた。だが僕はオープンに向けて良い状態にいた。

フラッシング・メドウでは素晴らしいスタートを切った。僕のそばにはジョー・ブランディがいてくれた。速いコートで優れたプレーをするクリスト・ヴァン・レンズバーグに対しては、 5ゲームしか失わなかった。2回戦では、彼が怪我で途中棄権するまで、ウェイン・フェレイラにボールを叩き込んでいた。次の試合ではタイブレークで1セットを落とし、4回戦では同世代で、才能はあるが影の薄い存在だったアメリカのデビッド・ウィートンと対戦し、まずいプレーをして第1セットを落とした。だが、その間じゅうずっと、プレッシャーは増大していった。僕はディフェンディング・チャンピオンだったのだ。そしてある事を理解するようになっていた。このスポーツにおける最大の挑戦は、メジャー優勝者という地位を防衛する事だと。以上。誰もが狙っているのだ。

あらゆるプレッシャーが静かに高まっていき、ジム・クーリエとの準々決勝にはそれを引きずっていった。僕の背中にそれは猛烈にのし掛かっていた。その日に我々が対決した頃には、ジムと僕の間にあった友情はすでに冷めてきていた。天賦の才に恵まれた我々の世代は浮上し、そしてライバルになっていたのだ。意外にも、マイケル・チャンが我々の中で最初にグランドスラム優勝を遂げ(1989年のフレンチ・オープン。マイケルはほんの17歳だった)、我々全員にとっての関門を据えていた。次は僕で、1990年だった。アンドレは1991年のローラン・ギャロスでキャリア3回目の決勝戦に達したが、ジムが優勝を果たした事で、アンドレにもう1つの苦い、そして意外な敗戦を課する事となった。したがってジム、マイケル、僕がそれぞれ1回メジャーで優勝し、アンドレは決勝に3回進出していた。それからは、誰もが自分の事で精一杯になった。我々みんなが自分のいるべき場所を手探りし、集団から抜け出そうと望んでいた。そのような熾烈に競争意識を抱く状況では、友情を維持しようとする事は欺瞞だっただろう。そして我々はみんなその事を承知していた。

僕はその夏に3つの重要なハードコート大会の2つで、ジムをストレートで破っていた。それでも彼との試合に不安を感じていた。試合の早い段階では少し動揺し、硬くなっていた。緊張感が僕を圧倒していたのだ。また、僕はベースラインからジムと対戦したが、それはサーブが上手くいかなかった事に伴う失敗だった。対照的に、ジムは非常に集中し、ストロークで優位に立っていた。僕は第1セットで2ゲームしか取れなかった。次の2セットはタイブレークにもつれ込み、7−4、7−5で失った。その後インタビューで語ったように「僕は腰が引けていて、彼は勢い込んでいるように感じられた。もちろん僕は負けようとしてコートに出たわけじゃない。だが今日はサーブの調子が悪くて、ステイバックしなければならない事が多すぎた。そして彼はコート後方から徐々に僕を打ち崩していった」

それでも、僕はタイブレークで参ってしまったわけではない。自分のサーブに苦しみ、そして2ダース以上のバックハンド・エラーを犯していた。より大きな意味では、ただ自分を見失い、プレッシャーにもがき苦しんでいたのだ。あの致命的な記者会見で語ったもう1つのコメントは、僕がどれほど途方に暮れていたかを示している。「………プレッシャーが大いに関わっていたんだ。どう説明したらいいかも分からない。解放感というのとは違うが、もう僕は皆が話題にし、注目し、批評する対象にならなくて済む。それは終わったんだ。もう済んだ。そして今や僕は自分自身に戻れる」

それがいかに辛そうで守勢な響きに聞こえるか、現在では僕自身さえ驚きを感じる。さらに悪い事に、記者会見で僕が口にしたもう1つの台詞は、その後長きにわたって僕につきまとう事となった。僕は「ものすごい重荷が肩から去ったように感じる」と認めたのだ。引き続いてジムが記者会見室に入り、僕のコメントが伝えられると、彼らしい控えめな方法で慎重に答えた。「 肩に重荷を背負えたらいいのに、と思っている男は大勢いる」と。

それはマスコミの求めているものだった。彼らは素早く報じ、そして僕はキャリアで初めて本物の論争に巻き込まれた。僕は翌日すぐに自分が言ったコメントの反動に直面する事は避けられた。ダブルスに登録していなかったので、敗戦の直後にニューヨークを去っていたからだ。だがニューヨークでは続く数日間、記者は僕の性格に関するストーリーに取り組み、選手という選手に当たって、僕のコメントに対する分析者を探し求めていた。

僕のコメントについて語った1人の男はジミー・コナーズだった。彼はキャリア後期における素晴らしい快進撃の最中にあり、まだニューヨークにいて国じゅうの注目を引きつけていたのだ。それは僕にとって幸運でもあり、不運でもあった。ジミーの英雄的な快進撃はすでにオープンの主要なストーリーになっていたので、僕への注目度はそれほど高くなかった。一方で、僕のコメントに対するジミー自身の反応は、偉大な権威からの説教として放送された。彼が語ったのは、コナーズが自己宣伝に用いる標準的な論点の好例だった。「40歳になろうとする私はここにいて、背中を痛めつけているというのに、若造は負けて喜んでいる。もはやこういう子供の事は分からないね………」

そのコメントは僕を突き刺すようだった。僕は常に、ジミーが僕や僕の世代全体について語る事を気にかけていた。我々―――つまり「スター」―――は、他人の言う事を気にしないと発言するが、実は気にしている。そして何らかの方法で、すべてを耳にしているのだ。ジミーはそれまで僕に相応に好意的だったが、僕の世代の誰に対してもすすんで称賛を送る事はしない、と僕は常に感じていた。我々は彼の威光を奪う者たちだったのだ。彼は物事をただこんな風に言ったものだった。「私はボールを5ヤード・ラインまで運んだ。それを引き継ぐかどうかは彼らしだいだ」と。僕はその意味を理解していた、その時でさえ。ジミーが同僚と親しくする事は決してなかった。彼は地球上の誰をも自分の競争相手と見なしていたのだ。そして彼は引退へと向かう途上にあり、栄光の最後の光輝を掴まんとしていた。僕はそれで差し支えなかった。彼の執着は気にならなかった。

ジミーのコメントは火に油を注いだ。そして事件は一人歩きを始めた。もはやストーリーは、オープンで何が起きたか、それについて僕が何を言ったかに収まらなくなっていた。ジミー・コナーズが何を言ったかが肝心だったのだ。そしてさらに………。それはメディアの雪だるま現象だ。

偉大な選手に名指しで批判されるのは、容易な事ではない。だが何にでも論理的に説明できる方法はある。つまり自分の心の中に、僕は問題を抱えていた―――もしくは抱えていなかった。クーリエに対する僕の敗戦は、何らかの徴候を示していた―――もしくは単に辛い敗戦だった。僕は競技者としての気質に潜む欠陥を露呈した―――もしくは単に少し元気がなくて、タイブレークでは運が悪かった………。何が進行しているのか、僕はよく分かっていなかったのだ。

だが論争は、いずれにしても、直面しなければならない何らかの現実に言及していた。そして僕の返答の仕方は、キャリアに影響を及ぼしていった。しかし当時は、どちらかと言えば僕はその重要性から逃れていた。何年も後に、ジミーと僕はたまたまロサンジェルス・レイカーズのゲームで近い所に座っていた。そして僕は彼と接触する事にした。彼の注意を引き、我々は挨拶を交わした。僕は彼の電話番号を尋ね、数日後に電話をした。ゴルフを1ラウンドする予定を立てて、一緒にプレーした。それで我々の交際は終わった。驚くかも知れないが、多くの人に冷淡な人間だと思われていたイワン・レンドルは、むしろジミーよりも、強硬なライバルであると同時に、善良で思いやりのある友人であり模範だった。

「重荷」事件に関して奇妙なのは、僕のしたすべては自分がどう感じるかについて真実を語ったという事だ。だが映画「ア・フュー・グッドメン」でジャック・ニコルソンが言った有名な台詞がすべてを物語っている。「君は真実を求めるのか? 真実は手に負えないんだよ!」1991年のニューヨークで、僕は少しそんな風に感じていた。自分がどんな事を経験しているかについて、僕はマスコミに偽りのない、ありのままの気持ちを語った。そして僕はそれゆえに叩かれたのだ。

何が問題であったかは承知している。理論上は、タイトルを失った事について、僕はがっかりするよりも、むしろ喜んでいるような印象を与えたのだ。だが「理論上は」と言うのは、あの日に記者会見室にいた者は、誰もがよく分かっていたからだ。僕は喜んでなどいないと。たとえ解放感は感じていたとしても。あの日、僕は教訓を得た。口に出さない方が良い事もあると。自分がどれほど打ちのめされているか、そして次の大会に向けていかに「120パーセント」集中するつもりかについて、僕は何らかのありふれた平凡な答えを電話相談室で訊いておくべきだったのだ。

「重荷」エピソードでその年のグランドスラム大会は終わり、その中で僕は大いにぎくしゃくした雰囲気を味わった。僕は苦闘していた。そしてUSオープンの後には、誰もがそれを知っていた。僕の性格が問題になった。だが、いまだ僕は成熟の途上であった事を皆が理解していたとは思わない。僕はゴシップにも、他の人々を熱心に分析する事にも、大して興味を抱いた事がない。特に知り合いでもない人の事には。自分は自分、人は人という考え方の人間だ。だからいかに人々が僕の性格に着目し、僕が言ったりしたりする事のあら探しをするかを知る事は、僕を気詰まりにさせた。僕は少し腹立たしさを感じていたが、それは僕だけではなかった。アンドレ・アガシはグランドスラム決勝戦で0勝3敗だったが、彼もまた「性格」の問題に対処し、マスコミにかなりひどく叩かれていた。


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