第3章 1990〜1991年
重荷事件(5)


その年最後のイベントは、リヨンで行われた対フランス戦のデビスカップ決勝で、これは僕のデビスカップ・デビューだった。ジョン・マッケンローやアンディ・ロディックのようにデビスカップを愛する者は、それを最優先し、最高の名誉と考える。自分の国を背負い、スコアボードにも国名が表示される状況で戦うのは独特な経験だ。それについては僕も同意する。デビスカップは自分自身のために戦う時には感じる事のない、特殊なプレッシャーを生み出す。ウィンブルドンやフラッシング・メドウのような場所でさえ生じないものだ。

デビスカップはチームプレーであり、そこも通常とは異なり、興味深いものだ。そして競技の愛国主義的な性格は、ツアーでは直面せずにすむ状況の下でプレーする事を意味する。デビスカップではあらゆる事が誇張される、あるいは歪み、記録・順位・調子などは関係ないものとなり得るのだ。それが新人にとってデビスカップを厳しい任務とする。

デビスカップの形式は、ワールドグループの資格を得た16カ国による勝ち抜けトーナメント方式で、各対戦(デビスカップで「タイ」と呼ぶ)は5試合―――シングルス4試合とダブルス1試合―――から成り、3日間(金曜日から日曜日まで)で戦われる。通常チームは週末のタイへ向けて、会場で練習にまる1週間を費やす。したがって選手はチームの一員として、デビスカップのために年間で最大4週間を振り向ける事になる。

デビスカップの4週は1年のスケジュールに組み込まれる。決勝戦は11月下旬か12月初旬に開催される。ホーム・アドバンテージ(各タイはホームか敵地で開催される)は、基本的に過去の歴史によって決定する。チームは交替でタイのホスト国になる。つまり、前回フランスが合衆国とフランスで戦っていたら、次の対戦では合衆国が自動的にホスト国となる―――たとえそれが4、8、12年後でも。ホスト国になるのは大いなるアドバンテージだ。地元の観客でスタジアムを満たす事ができる(デビスカップ・ファンはテニス界で最も賑やかで、最もよく喋るのだ)。さらに重要なのは、どこで(室内か屋外か、小さなクラブか巨大な競技場か)、そしてどんなサーフェスで戦うかを選択できるという事だ。

成長する過程で、デビスカップは僕にとってあまり大きな意味を持っていなかった。テレビで見た記憶もない(ケーブルテレビが普及する以前の時代には、デビスカップはそれほど放映されていなかった)。したがって僕には、デビスカップに対する敬愛の念が育っていなかった。この事実は、デビスカップに傾倒する事を困難にした。大方のトップ選手と同様に、僕はグランドスラムで能力を最高に発揮する事を最優先事項としていたからだ。さらにデビスカップは、時間的に多大なものを求められた。

1991年、フランスは非常に人気の高い元選手で、フレンチ・オープンのチャンピオンだったヤニック・ノア監督の下で、魔法のような快進撃を遂げていた。ギー・フォルジェとアンリ・ルコント、2人の華麗な左利き選手は、オープン時代になってから初めての決勝戦へとフランスチームを導いた。さらにフランスチームは決勝戦のライバル―――合衆国―――に対してホームコート・アドバンテージを握っていた。彼らはリヨンの室内スタジアム、速いカーペットでタイを戦う事に決めた。

フランスがサーフェスを発表した時、合衆国監督トム・ゴーマンの下には非凡な才能の集団が揃っていた―――少なくとも理屈の上では。「重荷」試合でUSオープンのタイトルを失ってはいたものの、速いコートでは僕は自国で最も優秀な選手だった。僕はアンドレ・アガシと共に、チームに組み入れるべき理想的な男だった。だがゴーマンは、僕がツアーでは新人である事を完全に忘れていたようだ。そしてデビスカップならではの独特なプレッシャーを考慮に入れていなかった。どういうわけか、チームで自国のために戦う事は、とても人に影響を及ぼす事もある。活気を与えられて、勇ましく反応する選手もいる。足がすくみ、愛国主義のプレッシャーに脅迫されているように感じる選手もいる。アウェイの決勝戦で熱狂的な愛国者たる観客を前にして、騒然とした状況の中に未熟な選手を投げ入れる事は、けた外れのギャンブルなのだ。

リヨンに到着した時、僕の不安とストレスは驚くほど高まっていた。理由の一端は、デビスカップでは常にそうだが、USTA(アメリカ・テニス協会)役員がおおぜい周りにいて、チームに目を配っていたからだと思う。同じく、このデビスカップ決勝戦がフランスでは途轍もなく大きな出来事だという事実も関係していた。決勝戦のためにフランスじゅうの記者団が開催場所(ガーランド・スポーツ・パレス)を訪れ、昔日の有名な「四銃士」―――ジーン・ボロトラ、ジャック・ブルニョン、アンリ・コシェ、ルネ・ラコステ―――が国際テニスに君臨していた時代から初めてとなる決勝で、いかにフランスが優勝するかを記録したいと望んでいるようだった。

タイ開始の前日、我々チームはリヨンのホテルで感謝祭の晩餐をとった。有名なシェフによる料理だったが、その晩餐会さえも少し緊張するものだった。テニスの役員たちと一緒で、我々はみんな上着とネクタイを着用しなければならなかったからだ。僕はふさわしい服装に異を唱えはしないが、すべてが儀式ばり、強制的で、堅苦しい感じだった………我々がチームとして本当に必要なのは、リラックスする事だった時に。これらのすべてが、とても重苦しく僕にのしかかってきた。僕は合衆国のナンバー1シングルス選手に指名されていたからだ。まるで NFL の新人クォーターバックが、スーパーボウルで初のスタートを切るようだった。

ゴーマンもまた形式ばっていた。僕にはそれが明らかとなった。我々は常にチームのミーティングを行ったが、僕は意味を見いだせなかったのだ。ただすべてを大袈裟なものにして、ストレスを増加させた。僕は常に、目立たないやり方で物事を行う方が好きだった―――劇的であるよりも、むしろ控えめに、挑戦的でやる気満々よりも、むしろ冷静で超然としているのが好みなのだ。デビスカップ優勝といった一大事に見える事でも、必要以上に大袈裟に扱うのが良いとは思わない。つまるところ、それは単にテニスの試合だ、場に臨んで最善を尽くし、結果はどうなろうとも構わないという心構えの方が気楽なのだ。

ゴアはベテランの監督で、彼自身が元デビスカップのスターでもあり、彼とテニスの話をするのは楽しかった。アンドレ・アガシの考えを聞くのも嬉しい事だった。だがこのミーティングでは、ただ皆が集まって座り、翌日の練習や公開されるペアリングについて話すだけだった。ダブルスプレーヤーの1人、ケン・フラック(ロビー・セグソとペアを組んでいた)は、こういったミーティングの1つで僕を見て、「ピート、君は両方のサーブでサーブ&ボレーをするつもりかい?」と尋ねた。僕は彼を見ながら考えていた。僕は世界のトップ選手の1人だ。そしてあなたはシングルスで結果を出せないダブルスの専門家だ。あなたは大胆にも、僕がどんなプレーをするつもりか尋ねるのかい?

傲慢に聞こえるだろうが、僕はただ怒りっぽく、ピリピリしていた。だが同時に、僕は型にはまった作戦で試合に入る事がなかったのだ。僕は自分の強み、最も心地よくプレーできるゲームを承知していた。そして対戦相手の得手不得手、どうやって彼らのゲームに挑むかに通じようとしていた。だが僕は試合の中で自分のやり方を「感じる」のが好きで、自分のプレーレベルとネットの向こう側から受けとる情報に基づいて、微調整を加えるのが好きなのだ。

自分のサーブの出来が、どれくらい攻撃的にプレーするかを決定づける事がよくあった。サーフェスによる(あるいは日による)自分の動き方の感覚と、対戦相手のリターンゲームの出来が合わさって、どれくらいの頻度でサーブの後にネットへ詰めるかが決まった。僕は本能によって行動し、プレーを進めながら物事を把握していった。フラックの質問は僕を困惑させ、用意していない言質を求めるものだった。それは悪気のない質問だったと思うが、僕の反応は、僕がどれほど守勢で神経質になっていたかを大いに物語っていた。

何にも増して、フランスのシングルス・プレーヤーは、相手を倒すテニスのできる巧みなベテランだった。チームについて疑問符はなかった。もしホームで戦うプレッシャーに対処できる者がいるとしたら、それはこの男たちだった。地元観客の絶賛は、彼らを鼓舞するだろう。速いカーペットが僕のゲームに適しているとしたら、まさに彼らのゲームにも適していたのだ。

デビスカップ・チームには2人のシングルス・プレーヤー、ナンバー1とナンバー2、そしてダブルスチームがいる。3日間のタイは金曜日に、シングルス2試合(一方の国のナンバー1が他方のナンバー2と対戦する)から始まる。土曜日はダブルスのみ。そして日曜日は、「残り」のシングルスが各国のナンバー1とナンバー2の間で戦われる。ドローは誰がタイの第1試合(あるいは「ラバー(激突)」)で戦うかを決定する。そこからは定められた方式に従って進行する。

僕はチームのナンバー1シングルス・プレーヤーだった。だがドローでは、フランスのナンバー1(フォルジェ)が我々のナンバー2であるアンドレと戦端を開くと決まった。僕はアンドレを声援しながらベンチから見守っていた。彼はきっちりと仕事をこなし、我々に1-0リードとなる勝利をもたらした。観客には感銘と、少しばかりの脅威を感じた。会場の収容人員は7,000人を少し超える程度だったが、全席が売り切れで、全体的には巨大な、耳を聾するばかりの観客となっていた。僕にとっての「最後の審判」の瞬間は急速に迫っていた。僕の出番は次だった。合衆国のナンバー1とフランスのナンバー2、ルコントの対戦。

起こった事は、僕は凍りついたように動けなくなった(Freezing)という事だった。最悪の事態だった。ヘッドライトを浴びた鹿レベルの麻痺状態だったのだ。ここで「緊張で怯んだ(Choking)」と言わなかった事に注目してほしい。前にも述べたように、2つの間には大きな相違がある。Freezing はさらに悪い状態だ。それは choke しうる(あるいはしない)重大なポイントに到達する事さえ阻むのだ。スコアは飛ぶように脇を通り過ぎていった。まさにルコントが放つウィナーのように。

僕がサーブを打つ時には、ライン際に立って打つタイミングを待ったが、観客は熱狂的になっていた。僕は会場が発する雰囲気のエネルギーを浴びながらその場に立ち、彼らが静まるのを待っていた。それは大きなミスだった―――ラインから離れて彼らが落ち着くのを待ち、状況をコントロールする権利は自分にあると態度で主張すべきだったのだ。そうすれば自分のペースで試合を運び、プレーするのだと示せただろう。それが、僕がリヨンで学んだ事だった。後に多くの試合で役立つようになった。

僕はストレートセットでルコントに敗れ、茫然自失の状態でコートを後にした。土曜日にはフランスチームがダブルスで勝利し、2-1のリードとした。勝敗の決する最終日、僕は合衆国の希望を繋ぐべく、第1シングルス試合でフォルジェと対戦した。金曜日に起きた事を整理する、あるいは最悪だった初日の経験から学ぶべき事を確認する充分な時間がなかった。僕は名ばかりの抵抗を示したものの、フォルジェは4セットで勝利してフランスにカップをもたらした。

その後、僕はひどい気分だった。途方に暮れていた。デビスカップはチームの戦いだというが、僕はずっと孤独感を感じてきた―――テニスコートで初めて味わうほどの孤独感だった。もちろん、チームのメンバーはコートサイドから僕を励してくれていた。さらに、監督はコートで隣に座り、チェンジオーパーの間には話をしたりアドバイスを受ける事もできる。だが皆はそれに多くの意義を持たせすぎる。チームメイトに自分のラケットを渡し、「ねえ、僕は苦しんでいるんだ。かわりにプレーしてくれるかい?」と言えるものではないのだ。

緊張した、そして惨めな週だった。ガスはこの旅行に付き添ってくれ、僕と同じ部屋に宿泊していたが、合衆国が負けた晩、我々はかなり早く眠りに就いたと言う。数時間後、僕は明らかに何らかの悪夢で目を覚まし、そして叫んだ―――声を限りに―――頑張れ、USA! と。それから僕は眠りに戻った。それはタイで経験した観客の騒音への反応だったのだと思う。僕は一度もあのようなものに晒された事がなかった。そして多分、それに抵抗するか、あるいは自分を主張する必要があったのかも知れない。たとえそれが夢の中で、そして遅すぎたとはいえ。

この大惨事への説明はごく単純と言える。僕はその仕事にふさわしくない人間だったのだ。今日に至るまで、誰かがリヨンでのあのタイの話を持ち出すたびに、僕はただ肩をすくめてにやりと笑い、そして言う。「任務にふさわしくない人間だったのさ」と。僕はゴーマン、あるいは他の誰かに責任を負わせたくはない。だがフランスとの決勝戦で、残念ながら明確だった1つの事は、ピート・サンプラスという未熟な若者は、デビスカップでプレーするという責務に対してまったく準備ができていなかったという事だった。任務にふさわしくない人間だったのだ。

しかしながら、個人的には明るい希望があった。ティム・ガリクソンは僕のコーチを引き継ぐべく待機していたが、僕がいかにフランスの左利きに対して苦労していたかを知った。彼は、僕がサーブレシーブの際に右側へ寄りすぎ、バックハンド側を空けすぎていると感じていた。僕がもっと左側に立って、回り込んで強烈なフォアハンド・リターンを炸裂させるぞ、というシグナルを送るよう望んだ。それは慎重を要する変化だった。なぜなら左利きの選手は、特にアド・コートでは、 右利きのバックハンドを攻撃するのが好きだからだ。結果は注目に値した。彼がその助言を与えてくれた後、僕は左利きの選手に対して32連勝を挙げたと思う。

もし僕がレシーブのスタンスを変えていなかったら、もう1人の左利きゴラン・イワニセビッチとのライバル関係は、非常に違った結果になっていたかも知れないと思うとぞっとする。


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