第6章 1994〜1995年
栄光の門(2)


ティムはまだシカゴへ戻る途上で、ロサンジェルスで飛行機を乗り換える間に試合の結果を知った。彼は空港で会ったレポーターに語った。「私は試合を見なかったし、望んでオーストラリアを去ったわけではない。健康でないと、私は彼に手を貸すことができない。ピートがジムのような素晴らしい選手に対して逆転勝ちしたのは称賛に値する。彼をとても誇りに思うよ」

翌日、試合とそれに付随するすべての出来事は、ありとあらゆる新聞に掲載された―――事件はメルボルンの、そして恐らくニューヨーク、パリ、ロンドンで話の種になった。会場を歩き、ロッカールームに入っていくと、人々が僕を見て、僕について話しているのが感じ取れた。すべての関心が集まる事は、僕をとても落ち着かない気分にした。僕はポールに、人生でこれほど心許ない思いになった事はないと話した。

もし僕が優勝を運命づけられているかに見える大会があったとすれば、それはあの1995年オーストラリアン・オープンだった。だが、常に物事がそのように運ぶわけではない。僕は準決勝でマイケル・チャンを下したが、決勝戦では第1セットを勝ち取ったものの、アンドレ・アガシに敗れた。それはアンドレの2大会連続のグランドスラム・タイトル(そして彼がメジャーの決勝戦で僕を負かした唯一の機会)だった。決勝戦の日までに、僕は感情的に消耗していたが、弁解ではない。おとぎ話のような結末を台なしにしたと、アンドレを恨んだ事もない。聖書にもあるように、剣によって生きる者は、剣によって滅ぶのだ。

大会の終了後、聞いたり読んだりした事のいくつかが、僕をとても煩わせた。人々はこのような事を書いていた。「ピート・サンプラスは確かに人間だ………彼は感情を見せる!」あるいは「ピート・サンプラスが感情を露わにし、彼を人間と思わせるためには、コーチの病気が必要だった………」と。それらのコメントのいくつかは、誉め言葉のつもりだったのだろう。若干の記事は確かに、僕がいかにジムを倒し得たかについて、違った意味で肯定的な記述の物語にまとめられていた。だが、感情を見せないようにしている僕の努力が、感情を持っていない―――少なくとも充分には―――事を意味すると、何人かの解説者は本当に信じているのだという心地悪さを感じていた。推論は明白のようだった。漠然とではあるが、僕はあまり「人間」らしくないという事だった。ウィンブルドンでの「サンプラスは退屈である」という論題と合わせて、これは僕の人格と気性に対する痛烈なワンツーパンチだった。

時代の動向だったのだろう。僕が幼い子供だった頃から、テニス界や社会の物事は大いに変化していたのだ。人々はどんどんセンセーションを切望するようになり、同じくそのすべてを、もっとさらけ出すようになっていた―――感情を知られるがままにし、奔放にゴールを追い求め、謝罪もなく、自己が送っているメッセージ、あるいはそれが自己にどう影響を及ぼすかにも気づかず。これは自制を養い、品位をもって振る舞う事よりも「真実」であると考えられていた。テニス界では、その水門はジミー・コナーズとジョン・マッケンローによってこじ開けられていた。彼らの航跡では、「個性」が最重要だった。僕にとっては、常に自制が最重要だったのだ。

僕にもっと「感情」を見せるよう、より「人間」であるよう望んだ人々は、世の中には多くの異なった人格があるという事を軽視しているようだった。そして彼らの振る舞い方には、プライベートであれ公の場であれ、感情の深さや本質―――「感受性」―――は何も結びつかないようだった。実のところ、常に自分の気持ちについて語ったり、あるいは感情を表出する人々を僕は信用していなかった。自制心を失う事、感傷におもねる事、他の人を難詰する事、ばかげた高慢ちきな要求をする事、あるいは人々に自分が何を聞きたがっているか告げる事が、より深い感情、より強い感受性を持っている、あるいはより人間的であるしるしだとは思わない。それは単に自制心を働かせる事に劣るか、あるいは要求が過度か、迎合もしくは自分を笑いものにしたがっているだけだ。

ジムとの試合後、もし感受性に欠ける者がいるとすれば、それは僕が本当に感情を持っているという事を証明するためには、公の場における神経衰弱にも近い何かが必要だったと、いとも軽率に唱え始めた人々だと僕はしばしば感じた。確かにあの試合は、僕が感情的に脆いという事を明らかにした。それを暴くのには異常な状況が必要だったというだけの話だ。


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