第1章 1971〜1986年
テニス・キッド(6)


両手打ちの粘り屋からオールラウンドのプレーヤーへの移行で苦労していたとはいえ、ジュニアでの経験はとても楽しいものだった。僕は旅行やホテルに泊まるのが好きだった。ルームサービスはこの世でいちばん素敵なものだと思っていた。父はデニーズが大のお気に入りだったので、大会を回る時にはいつも、デニーズを見つけて外食していた――人工皮革の座席に座り、ラミネートされたメニューを手にするのがとても楽しみだった。さらに、僕にはステラがいた。姉は2歳年上だったが、僕と同じような事を経験していた。姉はお手本であり、僕に心地良さをもたらしてくれる存在だったのだ。

僕が属していた南カリフォルニアのセクションには、素晴らしい選手が何人もいた。マイケル・チャンに加え、ジェフ・タランゴや他にも数人いて、イースターボールのような国内大会にはチームとして出掛けた。だがホイッティアーで開催される南カリフォルニア全体の大会では、チャン、タランゴや他の仲間たちは僕のライバルとなった。

父はほぼ誰とでも上手く付き合っていた。サム・サンプラスには、他の親のような途方もないエピソードがない。父は試合中にもう一方の親と罵り合うような事もなかったし、ましてや殴り合いなどしなかった。常に高潔だった。そして僕は素直な子供だった。

僕は自分の上達について、今後どうなっていくのか全く分からなかった。自分がテニスプレーヤーになるべく運命づけられているとは承知していた。だが15〜16歳の頃は、ただ自分のゲームを見つけ出そうとしているだけだった。ピート・フィッシャーは僕にサーブ&ボレー・ゲームのプレー法を教えるのに忙しく、僕のジュニアキャリアは出世コースになかったが、UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校) のテニス監督グレン・バセットは、僕をブルーインズ(UCLA のテニスチーム)に勧誘しようと近づいてきていた。それは嬉しい事だった。だが基本的には、僕は国内タイトルを勝ち取っておらず、属する USTA セクション――最も厳しいセクションの1つと認められていた――ではかなり良い、それがすべてだった。その間もずっと、僕は勝つ事ではなく上達する事に全力を注いでいた。暗黙のうちにピート・フィッシャーと、彼が僕のゲームに関してしてくれる事を信頼していた。

父はいろいろな意味で、目立たないとしても、僕の発達に最も強い影響力を持っていた。父の言葉と意見は、僕の生活に強い影響を与えた。12歳の時に、少し年上のデビッド・ウィートンと対戦した事は忘れない。デビッドは後に優れたプロとなったが、その時は第2シードで、僕は国内クレーコート大会の2回戦で彼を負かしたのだ。それは僕にとって本当に大きな勝利で、その後には地元のリポーターがインタビューを求めてきた。素晴らしかった。まるで世界の王になったような気分だった。

翌日、まさに同じコートで、僕はマル・ワシントンに6-1、6-0か何かのスコアで負けた。つまり、彼は僕を子供扱いしたのだ。その試合の後、同じリポーターがマルのところへ行き、インタビューをしていた。父は僕を脇に引っ張っていき、こう言った。「昨日、あの男はおまえに話しかけていたね? 今はマルに話しかけている。ある1日だけでなく、日々いかに良いか、それがすべてだからだ」

それが父のやり方だった。いちばん大切な事のみを重視した。後に僕もそうなった。現実主義者とも、情に流されないとも呼べるだろう。どちらでも同じ事だ。僕はその日、ワシントンへの敗戦にがっかりしていた。そして父は、僕がその教訓を忘れないように、熱意に少し燃料を足さなければならなかったのだ。僕はお粗末なプレーをした。昨日に何をしたかは、もはや重要ではなかった。常に今日、明日がすべてなのだ。


戻る