第5章 1993〜1994年
炎の下に秘めた品位(4)


決勝戦の日、僕は目覚めた瞬間から神経質になっていた―――1992年USオープン決勝でエドバーグと対戦する前とは、正反対だった。よく眠れず、吐きはしなかったものの、胃はひっくり返りそうで、物も喉を通らないほどだった。僕は92年オープンの記憶に囚われていた。今回はあの時以来、僕にとって初のグランドスラム決勝戦だった。そして新しい何かを経験していたのだ―――負ける事への恐れを。もし今回のチャンスも掴みそこねたら、絶望的な気持ちになるだろうと感じていた。テニスの試合に臨むというよりは、裁判を受けるような気分だった。まるで初の決勝戦であるかのようだった。

1990年9月から様々な事を経験してきたとはいえ、僕にとっては今回が3回目のグランドスラム決勝戦でしかなかったのだ。結果は1勝1敗で、その負けた試合に、僕はひどく動揺させられていた。何が待ち受けているかも分からず、もはや隠れる場所はなかった。何が起ころうとも、失うものは何もないという気楽な気分にはなり得なかった。僕は優勝候補―――それはプレッシャーだ――だった。芝生では僕のサーブ&ボレー・ゲームが有利な筈だったからだ。

ティムは僕が自分のゲームでジムを威圧するよう望んでいた―――サーブ&ボレーを見せつけて、彼に息もつかせない事を。ジムはかなり厚いグリップを用い、ライフルのようなパワーと正確さでフォアハンドを叩きつけるが、もし僕がボールを低く保ち、彼にクレーでのようなスイングの準備をさせなければ、彼を不安定な状態にしておけるかも知れなかった。だがティムは、僕が自分に嫌気がさす事もあり得る、暑さで参ってしまう事さえあり得るとも承知していた。

ティムと行った決勝前のウォームアップは短かった。僕は不安で取り乱し、血流を活発にして自分のゲームを見いだすためにゆったりしたヒッティングをする代わりに、練習の間じゅう空回りしているような状態だった。僕はただ午後2時になる事を望んでいた。最後の審判の瞬間を迎えられるように。その間じゅうずっと、決勝に到達しても仕事は終わっていない、ある意味で、始まりにすぎないのだという認識が僕を圧倒していた。大会は砂の城のようなものだ。決勝で負けるとは、大きな波が来て、これまで築いてきたすべてを瞬く間に押し流してしまうようなものなのだ。現実は、決勝戦で敗れた男など誰も覚えていないという事だ。僕は父がルイジアナで語った事を思い出していた。ごらん、今あのレポーターはマルに話しかけているよ。

緊張は耐えがたいほどだった。7月4日のアメリカ独立記念日で、地獄よりも暑い日だった。だがジムと僕がセンターコートでウォームアップを始めた途端に、すべてが消え失せた―――つまり、何もかもが。不安も、苛立ちも、プレッシャーも。馴染みのフレーズを再び使うならば、重荷が肩から下りたような感じだった。36時間も続いた猛烈なプレッシャーは、もはや消え去っていた。ようやく呼吸する事ができるとはっきり悟り、素晴らしい気分だった。僕は決してその気分を忘れない。履いているシューズの重みだけが、僕を地面に繋ぎ止めていたのだ。

ジムとはキャリア初期からしょっちゅうヒッティングをしてきたので、彼のボールがストリングスから放たれるのを感じ取れるほどだった。そしてその馴染み深さは、僕をさらに居心地よい気分にした。そして、これは単なるメジャー大会の決勝戦ではない―――ウィンブルドンの決勝戦だという事が、同じく僕の胸を打った。大会最後の試合を、僕はテレビで見ながら成長してきたのだ。僕はロイヤルボックスへ注意を向けた。深緑の特別観覧席で、一般席よりもゆとりがあり、観客は黄褐色と緑のクッションのついた枝編み細工の肘掛け椅子に座るのだ。打球音はセンターコートに響き渡る。スタジアムが小ぢんまりしていて観客席と近く、部分的に屋根があるからだ。

僕は初めから良いプレーをした―――非常に。だがジムとの対戦が容易だった事はない。自分のサーブに気をつけて、さらに彼をブレークする機会を窺わなければならなかったが、最初の2セットではタイブレークまでブレークを果たす事はできなかった。ある意味で、これは芝生のテニスを象徴する危険な局面だった。僕はサーブで圧倒し(試合中に22本のエースを放った)、正確なボレーでそれをバックアップした。だがジムのサーブを打ち破るのは、はるかに厳しい課題だった。両セットでタイブレークに突入すると、僕がミスショットを打つか、彼が素晴らしい、あるいはラッキーなショットを打てば、彼がセットを勝ち取るだろうと承知していた。

僕は第1セットのタイブレークをサーブ&ボレーで順調に乗り切った。試合の決定的ポイントは、恐らくジムが第2セットのタイブレーク、6-5で握っていたセットポイントだったのだろう。そのポイントで、僕はミスヒット的なボレーを打った。ボールは妙な感じで長く浮き上がり、ジムにセットを与えるかに見えた。だがボールは空中で勢いを失い、ベースラインにポトリと落ちて6-6となった。ジムは落胆し、僕はチャンスに飛びついた。2ポイント後には、ランニング・クロスコート・フォアハンドでそのセットも勝ち取ったのだ。後に、ジムは取りそこねたセットポイントのチャンスについて考察し、 正確に要点をついた。「それが芝生のテニスだ―――さいころを振るようなものだ」

だが2つのセットを手にしても、終わりにはほど遠かった。実際に、第2セットを勝ち取ったという大きな安堵感は、僕を失速へと導いた。第3セット第2ゲームのサービスで、僕はブレークポイントでダブルフォールトを犯し、ジムに新たな勢いを与えてしまったのだ。なんとかブレークバックはしたものの、精神的なエネルギーを費やして消耗し、懸命に良いプレーをしてはいたが、疲労を感じ始めていた。

僕は疲労を見せるよりもすべき事を知っていた。肩をしゃんと伸ばし、その姿勢を保つ必要があった。これが共に取り組んできた18カ月の間、ティムが僕に強調してきた事だったのだ。だから僕は自分をプッシュした。穴にはまり込みすぎないよう自分に言い聞かせた。だがジムは第8ゲームで再び僕をブレークし、そしてエースで首尾よくセットをものにした。

第4セットでは5ゲーム目まで互いにサーブをキープしていたが、僕はピンチに陥っていると気づいていた。それが、僕が新たに見いだした決意の発動する時だった。1年前なら、僕は太陽の熱で元気を失い、第4セットを落としていたかも知れない。その後は―――どうなっていただろう? その可能性が大いにありえる事を感じてはいたが、あまり考え込まなかった。疑いを閉め出す事には長けていたのだ。もっと激しく戦うよう自分を叱咤した―――かつてないほどに。僕は自分のゲームを立て直し、再びランニング・フォアハンド・パスによって、第4セット第6ゲームでジムをブレークしたのだ。

突如として僕は息をつく余裕を得ていた。そしてタイトルまで2ゲームのところにいた。その2ゲームはエースとボレーウィナーの連続で過ぎていった。そしてマッチポイントを乗り越えた時、喜びと解放感の混じり合った感情が押し寄せてきた。尊敬に値するグランドスラム・チャンピオンとは何を意味するのか、僕はついに理解したのだ。他の人がどう考えるか、あるいは言うかは重要でなかった。僕自身の心で、これが僕が真に到達した瞬間だと知ったのだ。それまでは、自分が素晴らしい試合をすれば大会に、すべてが上手く運べばメジャー大会にさえも優勝できるとは承知していた。だがこの試合は、ただ良いプレーをする事だけではなかった。チャンピオンとしての正当性を示すものだったのだ。

僕は不安という厳しい試練を切り抜けて、自分の価値を証明したのだ。この決勝戦と以前に経験したものとの違いは、何が懸かっているのかを僕が完全に承知しているという事だった。僕はその日、模範を示したのだ。それ以降、僕はその感覚―――最終的に試合が始まると、激しい不安感は絶対的な集中と大いなる解放感の中に消えていく―――を、あらゆる重大な試合で感じ取っていた。

1993年のウィンブルドンにおける優勝は、僕が圧倒的なチャンピオンとなっていく本当の始まりだった。だが記者会見での出来事は、いまだ僕が感情的にはいかに未熟だったかをはっきりと示していた。故ダイアナ妃は僕がジムを下すのを見ていたが、明らかにファンとして僕を応援してくれていた。イギリスのタブロイド紙がこの事を指摘して僕の反応を求めると、僕は軽率にも「きっと彼女は僕にまいっちゃったんだ」と答えたのだ。そこにいた人々の何人かは笑った―――いささか神経質そうに。その出来事は忘れるのがいい。

偉大さへの道のりは一通りではない。僕はそれを理解していた。歴史上における僕のライバル、ロジャー・フェデラーを例に挙げよう。彼は当初16のグランドスラム大会では、準々決勝に達した事もなかった。それ以降に彼が成し遂げてきた事を考えると、ショッキングなほどの統計だ。だが僕の場合は、もしあの試合でジムに負けていたら、将来はどうなっていただろう。その事を考えるとぞっとする。それは僕がチャンピオンになるための謎を解く、最後の1ピースだったのだ。僕は天賦の才を手に入れ、そして、それを持つ事で生じる期待と難題に対処するすべを学んだ。ティム・ガリクソンは、僕のゲームと性格を真に理解するコーチだった。彼は僕に何が必要かを承知し、そして友人でもあった。彼は僕が内なる精神の闘いを終えられるよう望み、息をこらしていた。僕は本当にチャンピオンになりたいと思っていたのか? 僕はチャンピオンの心、精神、意志を本当に持っていたのか?

ウィンブルドンの後、ようやくティムは息をついたのだった。


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