第6章 1994〜1995年
栄光の門(4)


1995年の2月までには、今年は型どおりの年にはならないだろうという事がかなり明確になっていた。デビスカップを含めて、僕のスケジュールには多くの予定があった。USTA(アメリカ・テニス協会)には、1年を通して出場するつもりだと告げてあった。それは最多で4回のタイを意味していた。

デビスカップへの挑戦は、僕の興味をそそる年もあれば、そうでない年もあった。金には関係がなかった。実際のところ、出場料の水準はお粗末なものだった。典型的には、出場すると1万5千〜2万ドル程度を受け取り、自国開催のタイで収益が出たら、利益配分のシステムで少しばかりの追加金を得た。だが信じてほしいが、それは最小のものだった。デビスカップ・タイが実際にはまる1週間の拘束(もし1〜2日早く到着したら、さらに)である事を考慮に入れると、一晩のエキシビションで4〜5倍の金を稼ぐ事もできる男たちにとっては、報酬は話にならないほど低かったのだ。

僕はデビスカップのユニークな特質を理解していた。僕にタイの試合で好不調の波があったのには、金以外の理由があった。デビスカップで優勝するためには4週間の拘束を必要とするが、それは2つのグランドスラムと同等の期間なのだ。また、ラウンドごとに誰と対戦するのか、あるいはタイがどこで行われるのか、前もって知る事はない。ファンはしばしば、デビスカップの分かりにくいフォーマットと慣例に混乱する。勝利チームの一員となっても、我々はその日にデビスカップで優勝した訳ではない―――単にそのタイに勝ち、数カ月後に行われる次のタイへと進んだだけだと、支持者あるいはレポーターにさえ説明しなければならない事が何回もあった。そのすべてが、デビスカップが人を惹きつける理由の一部であると理解はしているが、完全に賛成している訳ではなかった。

もし我々が、アンディ・ロディックとジェームズ・ブレイクが率いる現在の合衆国デビスカップチームに相当するチーム・スピリットを育て上げていたら、僕の心構えは違っていたかも知れない。彼らは素晴らしいチーム・スピリットと友情を保っているが、グランドスラム・タイトルを巡って競い合う事はない。僕の世代は、何年もトップ5に位置する4人のグランドスラム・チャンピオン(アンドレ、ジム、マイケル・チャン、僕)と、何人かの順位は低いが優れた選手で構成されていた。我々はライバルであり、競争相手だった。かなり上手く付き合ってはいたが、それでも常に互いの様子を窺い、次の動向を推し量っていた。そういった状況は、素晴らしいチーム・スピリットを生み出すには向いていない。たいていのチームは(ロディックのような)中心的なリーダーを頼りにするものだが、我々はみんな、他の誰かの2番手を務める気にはならなかったからだ。

妥当な関心と大衆からの敬意を得るために苦労しているデビスカップと、大いに成功を収めているゴルフのライダーカップの比較は興味深い。ライダーカップは1週間のイベントで、2年ごとに開催される。デビスカップは毎年の開催で4ラウンドから成り、どの国が勝ち上がるかで次の開催地が決まっていくのだ。異なったデビスカップのフォーマットが採用されたらいいのにと思う―――1カ所で、決まった期間(2週間が理想的だろう)にわたって開催され、結果を出すというようなものだ。

僕は確かにデビスカップをだんだん好きになっていった(16回のタイに出場し、2度の優勝に貢献した―――それは不定期の参加よりずっと多い)が、シングルス・キャリアが進展するにつれて、デビスカップは常に緊張の源となっていった。ナンバー1の座を保つ事に集中し、メジャー大会に優勝し、なおかつ全部で4週間というスケジュールのデビスカップに出場するのは、不可能だと分かっていた。多すぎたのだ。だから年によってデビスカップに参加したり、辞退したりした。1993年は辞退し、1994年はチームに加わって準決勝で敗退した。

だが1995年の参加には、もう1つの微妙な要素があった。その年、アンドレ・アガシとのライバル関係は新しいピークの段階に入っていたのだ。ほんの数カ月前、1994年USオープンで、アンドレはタイトルを獲得した初のノーシード選手となり、ランキングの地獄からの勇壮な復活劇を遂げた。さらに1995年のスタートには、オーストラリアン・オープン決勝で僕を負かした。どこかしこでも、人々はアンドレが僕のライバルとして出てくるのを見たがっていた。僕はそれを歓迎した。どんな選手でも、優秀さは競争の質に左右される―――特に世論の場では―――と承知していたのだ。さらに双方のスポンサー会社だったナイキは、ライバル関係をたきつけるために可能な事は何でもするというパレードの先頭にいた。

アンドレ、ジム、そして僕は全員、1995年にデビスカップでプレーする事に同意していた。そして第2ラウンドがイタリアで行われる事が決まるとすぐに、問題が生じた。準々決勝のタイは、3月末に不便なシシリー島のパレルモ市で開催される事になっていた―――それは2つの大規模な合衆国ハードコート大会(インディアン・ウェルズとキービスケーン)の直後で、我々のような競技者は疲れていて、ヨーロッパのクレーコートシーズン前に若干の休息を求めているのだ。

我々は3人ともデビスカップ、テニス、そして我々自身にも最良の事をしたいと望んでいた。基本的には、誰もキービスケーンの直後にイタリアへ出掛けてプレーするのを望んでいないという事だった。だが我々には、カップを勝ち取るという各方面からのプレッシャーがあった―――サンプラス、アガシ、クーリエ、チャンという勝つ可能性を秘めたチームメンバーがいて、優勝できない筈があるだろうか? もし他のもっと重要な目標があるからといって、我々全員がタイをスキップしたら、宣伝面でひどい状態に陥る事は確実だった。我々は利己的で、非愛国的に映るだろう。

同じくこういう要素もあった。アンドレが1995年オーストラリアン・オープン決勝で僕を負かした後、我々は共に、我々2人はこれからの年月、ナンバー1の座を争っていくだろうという意識を持っていた。ごく正直に言って、デビスカップ出場の犠牲を払う事により、結果として大きな大会で、あるいは長きにわたるナンバー1順位の追求で、もう一方のチャンスを増大させるような事を2人とも望んでいなかったのだ。

デビスカップが近づきつつある冬の終わり、インディアンウェルズ大会で、我々は問題を抱えていると全員が認識していたので、トム・ガリクソン(デビスカップ監督を引き継いでいた)および何人かのアドバイザーと集まり―――文字どおり、同じ部屋で―――を持ち、話し合うという常ならぬ共同歩調をとった。我々はその場で向かい合って、誰もイタリアに行く事を望まず、しかし誰かが行かなければならないのなら、唯一のフェアな方法は全員が行く事だと決断した。

そこで我々は大々的な記者会見を開き、アンドレと僕が2人ともパレルモに行き、ジムは必要な場合に備えて控える、と発表した。次の数週間で、アンドレと僕はインディアンウェルズとマイアミのタイトルを分けた。アンドレはキービスケーンで僕に勝利し、ナンバー1の座を奪い取った。それを取り戻そうと、僕は夏の間じゅう彼を追いかける事になったのだった。

マイアミでの試合が終わった直後に、我々は飛行機に飛び乗ってニューヨークへと移動した―――実際に、我々はアンドレがチャーターしたジェット機に飛び乗ったのだった。そしてその夜は、彼の新しいガールフレンド、ブルック・シールズが出演しているブロードウェー・ミュージカル「グリース」のセットを訪問した。その夜はニューヨークで過ごし、それからコンコルドでロンドンへ飛び、さらにパレルモでのタイのために別のプライベート機を利用した。

対イタリアのタイはミスマッチな組み合わせだった。イタリアのシングルス・プレーヤー、 レンゾー・ファーランとアンドレア・ガウデンツィは堅実なトップ50選手だったが、それ以上のものではなかった。彼らはホームだったので、当然の事としてクレーを採用した。そしてイタリアの観客は非常に騒がしく、手に負えない存在となる事が予想された。だが、それを無効にする方法は、タイが闘いになるのを阻止する事だった。我々がした事はまさにそれだった。最初の3試合で勝利を収め、2日目で勝ち上がりを確定したのだ。

9月までは、準決勝タイの心配をする必要がなかった。準決勝ではマッツ・ビランデル率いるタフなスウェーデン・チームと対戦する事になっていた。少なくとも我々はホーム―――アンドレにとっては本当のホームであるラスベガス―――で彼らを迎え撃つのだ。


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