第3章 1990〜1991年
重荷事件(1)


カギとなった試合
1991年9月、USオープン準々決勝
ピート・サンプラス   2    6    6
ジム・クーリエ     6    7(4) 7(5)
1991年11月、ATP ワールド・チャンピオンシップ決勝
ピート・サンプラス   3    7(5) 6    6
ジム・クーリエ     6    6    3    4
1991年11〜12月、デビスカップ決勝
アメリカ合衆国対フランス
(フランス、リヨン)
ピート・サンプラス   4    5    4
アンリ・ルコント    6    7    6

ピート・サンプラス   6    6    3    4
ギー・フォルジェ    7(6) 3    6    6

年度末順位
1991年:6位


僕は1990年USオープンで優勝し、20世紀で最年少のアメリカ人チャンピオンになっていた。大いなる勝利を味わう事が約束されていると思うかも知れない。だが、そんな時間はない。真の混沌は、最後のボールがコールされる瞬間に始まるのだ。深呼吸をして、深く座り、その瞬間を味わう権利を得た。だがそうは行かない。それを味わう唯一の時は、対戦相手と握手をし、トロフィー授与式とスピーチが始まる前のわずかな間だけなのだ。後に続くすべては、何時間も、指定されたメディアの取材をすべてこなし、近づく資格のある誰かれの祝福を受けるという、一種の犬や子馬の品評会なのだ。

もちろん、1990年の段階では、僕は何を味わうべきか分かっていなかった。自分が成した事を正しく認識するには、僕はあまりにも若かった。試合の後、僕は幸福にぼうっとした状態で、ふわふわとすべてをこなしていた。僕はショックを受けていたし、多くの人々もそうだった。僕はゾーン状態にいたのだ。僕のゲームにある弱点や未熟な要素は、何もプレーに現れなかった。プレッシャー? 僕はプレッシャーの何を知っていたというのか? 僕はただボールを投げ上げ、叩き、それが次々にラインを捉えるのを見守る子供にすぎなかった。そしてラインに打っていれば、誰にも打ち負かされない、それだけだ。

自宅にいる僕の家族もまた、呆然としていた。決勝戦の後、マンハッタンのパーカー・メリディアン・ホテルへ戻るまでには大変な時間が経っていた。そして僕が最初にしたのは家に電話をする事だった。ステラが電話をとった時、彼女は泣いていて、僕は不安になった。「どうしたの?」と僕は尋ねた。「なぜ泣いているの?」

姉が泣いていたのはとても幸せだからだった。家族の皆も良い気分でいた。父は上機嫌だった。今回は父が「お粗末」というあの忌まわしい言葉を使う事はあり得ない、と僕は分かっていた。父が僕の上達につぎ込んだすべての金が、家族の誰かれが僕をレッスンや大会に連れて回った果てしない時間が、これを実現するために家族全体が耐えてきたあらゆる犠牲が―――今やすべて正当化されたと知るのは嬉しかった。

その晩、ジョー・ブランディが「ピート、これから君の努力が本当に始まるんだよ」と言ったのをはっきりと覚えている。その時は、彼が何について話しているのか僕には分からなかった。オープンでの優勝は、ただ何かが起こったという感じだった。そして確かに素晴らしかった。僕はニューヨークで爆発したのだ。だが優勝の結果として残った大いなる問題には、僕はまったくもって無知だった。新たに生まれた名声や、それに伴う期待にどうやって対処するのか?

初のオープン・タイトル獲得を後悔の念で振り返るとしたら、僕はどうかしているだろう。だが正直な気持ちとしては、僕はもう少し年がいっていたら良かったと思う。選手としても人間としてももう少し成熟し、世の中の成り立ちや自分にかけられる期待、判断に対してもう少し賢明であったならと思う。当時はそれが分からなかった。だがあの勝利は一方通行の入り口だったのだ。それを通り抜けたら、引き返す事はできない。高い地位を維持する事は大きな責任だった。大いなる努力と、ある種の成熟と強靭さを必要としたが、僕にはそれが欠けていた。慎重を要する時期が控えていた。

試合後の数時間、当時のエージェントだったイワン・ブランバーグは狂騒状態になっていた。彼は僕に刻々と変わる最新情報を伝えていた。「オーケイ、CBS 局のモーニング・ニュースに出演する事になった」「グッド・モーニング・アメリカにも出演を依頼されている」「ラリー・キング・ライブに出演したいかい?」僕はただ「オーケイ、オーケイ、素晴らしい……もちろん!」という有様だった。だが僕は彼が何について話しているのか分かっていなかった。僕はうぶな子供で、現在では前途有望な選手が受ける事になっているメディア対応の訓練も経験していなかった。

現在のテニス界では、大学への進学は有能な選手にとってもはや選択肢でないのは残念な事だ。かつて、合衆国がテニス界を支配し、ゲームの潮流と価値感を作っていたオープン時代の早期までは、有望な選手たちの大半は進学した――― UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)、USC(南カリフォルニア大学)、スタンフォード、ペパーダイン、トリニティ(テキサス州サンアントニオの大学)といったテニスが伝統的に強い大学へ。子供たちは「標準的な」青春期を送り、学期間である夏には主要な大会でプレーした。大金がゲームに関わり、ごく幼い年齢からテニスにもっぱら集中する事を余儀なくされるにつれて、すべてが変わっていった。

グランドスラム優勝で僕に巡ってきた報酬と機会は、肝をつぶすようだった。僕がUSオープンで優勝した日、ナイキ創設者のフィル・ナイトがスタンドにいた。恐らく彼のスター・クライアント、アンドレを見ていたのだろう。彼は僕のプレーぶりにとても感銘を受け、僕と契約を結びたいと願った。だが僕は後になって、彼にはチャンスがなかったと知った。ナイトが競争入札に入り込む前に、ブランバーグはフライングをしていたのだ。僕が大会の有力候補となるにつれて、シューズとウェアのメーカーが殺到し、ブランバーグはその数が増大するのを見ていた。そしてイタリアのスポーツウェア会社セルジオ・タッキーニがこの先5年間、僕に年100万ドルのスポンサー料を保証した時、ブランバーグはその申し出を無視できないと決心した。準々決勝の前に、彼は僕にタッキーニとの契約を結ばせた。アンドレを倒す時までに、僕はナイキに名を連ねる事もあり得たのかも知れない。だが僕はすでにタッキーニと契約していたのだった。

僕のオープン初優勝の後、人々はブランバーグに押し寄せた。僕をエキシビション・マッチ(通常は仲間のプロと対戦する1回だけの興業で、その結果は公式ランキングに影響しない)に出場させたがったのだ。僕は製品のエンドースメント契約、1回限りの出場、チャリティ・イベント……等々の申し出を受けた。数週間前に USTA 国立テニスセンターへと向かった僕は、キャリア的に赤字で、例の ATM をスロットマシンのように扱う父の思い出と共にいた。2週間の終わりには、僕は黒字で成功者となっていたのだ。僕は19歳にして百万長者だった。だがその事については大して考えなかった。自国のタイトルを獲得したという事以外は、自分が成し遂げた事について何も心にしみ込んでいなかったのだ。

翌日、僕は接続便でロサンゼルスに戻った。飛行機を乗り換えるために降りると、CNN のクルーが空港で僕を待ち構えていた。別のテレビクルーはパロス・ヴェルデス高校へ向かい、妹のマリオンにつきまとっていた。そのすべてが奇妙に思えた。同じく、ジョニー・カーソン(アメリカの有名なコメディアン)が電話をしてきた。そしてついに、僕は衝撃を受けた。これは大きい、どでかい事なんだ、と。僕にとっては単にもう1つのテニスマッチであり、失うものは何もないという好機として始まった筈だった。だが、それは人生を変えるような出来事になっていた。間もなく、僕はこれまでの人生で知らなかったものに対処しなければならなかった。プレッシャーというものに。自分の地位を守るプレッシャー、大人の男、チャンピオンのように振る舞うプレッシャー、新たな地位と富に伴う要求と義務に直面するプレッシャー、「プロフェッショナル」である事に伴う義務を引き受けるプレッシャー、そして何よりも厳しいのは、僕の新たな地位を保ち、さらにそれを向上させるために、毎日毎日、ラウンドに次ぐラウンドで、勝つというプレッシャーだった。

もし、フットボール選手のようにチームメイトの支えがあり、1週間に一度だけプレーすれば良かったら、もっと簡単だったかも知れない。だが僕のスポーツは個人戦で、ほぼ1年を通して、少なくとも4つの主要なサーフェス(芝生、ハードコート、クレー、室内カーペット)でプレーするものだ。たいていの大会では、優勝するためには4〜7人の相手を打ち破らなければならない。それらの相手はすべて異なったスタイルでプレーし、異なった資質を持っている。僕が出くわすであろう相手、およそ世界のトップ100選手について本にまとめるだけで、2年はかかるだろう。そして後のラウンドではトップ選手と対戦する事を予想できる一方で、最初の数ラウンドでは誰に出くわすのか分からないのだ。そういった意味では、テニスはどんなスポーツよりも博打的だと言える。

1つの事は確かだった。今や僕の背中には、永久に消えない巨大な的が刻み込まれたのだ。


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