第8章 1997〜1998年
ウィンブルドンは永遠に(4)


2カ月先のUSオープンについて、僕には自信を感じるあらゆる理由が揃っていた。キャリアを通じても最も圧倒的と言えるテニスをしており、ドローにも恵まれていたのだ。手始めに、3人の比較的無名の選手―――トッド・ラーカム、パトリック・バウアー、アレックス・ラドレスク―――をなで切りにし、失ったゲームは合計で30に過ぎなかった(その数字はウィンブルドンとほぼ同じだった)。4回戦まで順調に来たが、次の相手はムラっ気のチェコの選手、ペトル・コルダだった。

対戦の日は、雨が降ったり止んだりしていた。我々のプレーを含めて、あらゆる意味でぎくしゃくした試合だった。僕のプレーはまあまあで―――第1セットをタイブレークで勝ち取った。だが次の2セットを失い、第4セットを6-3で勝ち取って何とか生き延びた。僕が第5セットで3-1リードとすると、誰もが(正直に言うと自分を含めて)峠は越えたと考えたのではないか。だがコルダを称賛しなければならない。彼は踏みとどまったのだ。僕がリードを広げようと迫るたびに、彼は予測しがたい、時に目がくらむほどのウィナーを放って、ぴったりとついてきた。彼はブレークバックを果たしてタイブレークへと持ち込んだ。そして7-3でタイブレークを制して勝利したのだった。

コルダらしいムラのある出来と言え、僕自身の神経も疲れて鈍い日だった―――理由の大半は陰鬱でどんよりした天気と、苛立たしい雨による遅延のためだった。僕はその年、すでに2つのメジャー・タイトルを手に入れていた。USオープンのタイトルも獲得していたら、成果という点で1997年は最高の年になっていただろう。しかも「傷口に塩」のように、コルダは次の試合をプレーする事さえなかったのだ。彼の言によれば、体調が悪いために。僕はほぼすべてのトップ選手と同じく、もし自分が負けるのなら、相手は大会で優勝する男であってほしかったのだ。

その後コルダは1998年にオーストラリアン・オープンで優勝した。それは彼の唯一のグランドスラム・タイトルとなった。だがそれから間もなくして、彼はドーピング検査で陽性反応が検出され、僕の時代では初となる出場停止処分を受けて注目を集めた。彼はその後に罰金も科され、大会出場を停止させられた。

ステロイドの使用は、何年も先までテニス界では重大な問題とならなかった。だから僕はこの問題に詳しくはない。だが僕は、テニス選手の99パーセントはクリーンである、常にクリーンであったと信じている。薬物を不用意に摂取する事は、たいていの選手には馴染まない事だ―――ツアーレベルのテニス選手は情報に富んだ環境にいて、通常は見識のある知識豊富な人々がそばにいる。選手たちは、もっと人気の高い幾つかのスポーツにおける若干の若い選手たちのように、運動能力向上薬物が引き起こす長期的な副作用について、世間知らずでも無知でもない。

また、テニスでは力強さは敏捷性ほど重要ではない。したがって筋肉増強による有利さは大してないのだ。僕は NBA(北米プロバスケット・リーグ)も、運動能力向上薬物について大きな問題を抱えているとは思わない。バスケットボールもテニスも、大きな筋肉と力強さよりも、むしろ敏捷性と優れた技が重要だからだ。だが後に、運動能力向上薬物はテニス選手にも、微妙な恩恵を与えうると知るようになった。薬物によって激しいトレーニングと、より早い回復を可能にする―――つまり、選手が本来は持っていないスタミナのレベルで、フィットネスの基礎とストロークの鍛錬を形成しうるのだ。それでもなお、最も練習する者、あるいは最もスタミナのある者が、大きな勝利を挙げている訳ではない。

僕は本来、疑り深い人間ではないが、ドーピング論争が起きる時に僕をわずらわせる事の1つは、いつも弁解がつきまとう事だ。まちがって妻の薬を飲んでしまった、医者が誤った処方箋を書いた、検査の手順に不備があった、等々。言い換えれば、犬はいつだって宿題を食べてしまうのだ(見えすいた言い訳という意味)。ドーピングが発覚して、そんな風にごまかそうとする者たちには、軽蔑しか感じない。僕も現役時には、様々なビタミン剤を含めて多くの薬を摂取したが、それが合法な薬かどうかを確認するために、いつも医者にチェックしてもらっていた。ドーピングが重大な問題として提起されるずっと前から、そうしてきた。そうする事もできるのだ。僕は繰り返される弁解には飽き飽きしているし、グレーゾーンというものはないと考えている―――検査でクリーンとなるかどうかは、本人にかかっているのだ。もしステロイドに対して陽性反応が出たら、何らかの明確で不可抗力の酌量すべき事情がない限り、ペナルティを科されるべきだ。それだけの話だ。

他の事としては、僕には不正行為ができないという事だった。僕は不正な、あるいは非合法なものの利用を正当化する事ができなかった。もし利用したら、薬物がもたらすかも知れないどんな利点をも帳消しにしてしまうほど、心が乱れただろう。たとえ他の人々が使用していたとしても、僕はステロイドの使用を、道義にかなう判断だとは見なさないだろう。たとえ周りの誰もが、他の皆は使用していると言って僕をそそのかしたとしてもだ。それが、薬物を使用する集団に拮抗できるか、あるいは遅れをとるかという相違を意味したとしても。僕がそういった高尚な意見を持つのは容易だと自覚している。だが大切なのは、ドーピングの選択を提示されたら、自分がどう感じるかという事だと思うのだ。

別の事実もある。ドーピング罪を科される者の中に、トップ選手はめったにいない。薬物にできない事は、選手をウィンブルドンのチャンピオンにする、あるいはロジャー・フェデラーを打ち負かすゲームを与える事なのだ。真に痛手をこうむるのは、ドーピングを犯す者と同レベルの選手たちだ。そこでなら、ランキングを何位か上げる、あるいは何大会かで1〜2ラウンド余計に勝ち上がる事は、ランキングにも獲得賞金にも大きな相違を生み出す事ができる。コルダがあの時期に何を摂取したとしても、彼をトップの座まで引き上げる事はなかった。彼は常にトップに近い集団の中にいた。そして過去に、僕は彼に対して苦戦していた(4年前のグランドスラム・カップでは、彼は第5セット13-11で僕を破っていた)。

ドーピングが我々のUSオープン対決で、何らかの役割を果たしたのかも知れないと、現在は気づいている(コルダは結局、1年足らず後に罰を科された)。それは長い消耗する試合で、奇妙な状況の下で戦われた。そこでは少し余分な力が、彼に重大なアドバンテージを提供したのかも知れない。我々が真相を知る事はない。ペトルだけが真実を知っているからだ。彼がどんな薬物を摂取していたのか―――あるいは、していなかったのか―――については。僕は彼に悪意を抱いてはいない。敗戦の1つとして書き記すのみだ。

USオープンでの失望の後に、ワシントン D.C. のロック・クリーク・パークのハードコートで、力強く若々しいオーストラリア・チームに対して、僕はデビスカップで自分のベストの1つである試合をした。シングルス2試合でマーク・フィリポウシスとパット・ラフターを下して、合衆国をスウェーデンとの決勝戦へと導いたのだ。我々はその決勝戦で敗れる事となった。理由の一端は、僕がマグナス・ラーソンとの開幕試合の最中に、脚の怪我で途中棄権を余儀なくされたからだった。しかしながら、僕は2つの大きな年末の大会、グランドスラム・カップと ATP ワールド・チャンピオンシップで優勝を遂げた。その過程で、いつもより新しい顔ぶれが多い事に、注目せずにはいられなかった―――パトリック・ラフター、グレッグ・ルゼツキー、カルロス・モヤといった男たち………僕は自分をベテランのように感じ始めていたのだった。


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