第6章 1994〜1995年
栄光の門(1)


カギとなった試合
1995年1月、オーストラリアン・オープン準々決勝
ピート・サンプラス      6    6    6    6    6
ジム・クーリエ        7(4) 7(3) 3    4    3
1995年7月、ウィンブルドン決勝
ピート・サンプラス      6    6    6    6
ボリス・ベッカー       7(5) 2    4    2
1995年9月、USオープン決勝
ピート・サンプラス      6    6    4    7
アンドレ・アガシ       4    3    6    5
1995年12月、デビスカップ決勝
アメリカ合衆国対ロシア(モスクワ)
ピート・サンプラス      3    6    6    6    6
アンドレイ・チェスノコフ   6    4    3    7(5) 4

ピート・サンプラス      7    6    6
トッド・マーチン
エフゲニー・カフェルニコフ  5    4    3
アンドレイ・オルホフスキー

ピート・サンプラス      6    6    7(4)
エフゲニー・カフェルニコフ  2    4    6

年度末順位
1995年:1位


1994年、波に乗っていた時に起こった新しいシューズとのトラブルは、僕の前進をかなり妨げた。

勢いが滞っただけでなく、賞金に関しても、トップ選手として1年を終えた時に ATP ツアーから受け取れる筈だった160万ドルのボーナスも、さらに大会出場料(約束したすべての重要な大会に出場すると支払われる。ツアーは選手たちに、できるだけ頻繁にプレーするよう促していた)もフイになった。だが足の怪我によって、契約を履行するのは明らかに不可能だったのだ。

宣伝契約はさほど複雑でもリスキーでもない(ラケットに関しては例外もあり得る)が、時には利害の対立を生じる。ナイキは自社のシューズに自信を持っていて、問題は製品よりも僕の足にあると考えていた。それは微妙な問題だった。僕はナイキと長期的な関係を結びたいと望んで(僕は常に、人生のあらゆる局面で、長い安定した関係を好んだ)契約をしたばかりだったし、キャリアの黄金時代を迎えようとしていたからだ。最も避けたかったのは、ナイキと争いを起こす事だった。ナイキはすでに大がかりな広告キャンペーン(「キング・オブ・スイング」の広告シリーズを記憶しているだろうか)に着手していたのだ。僕はシューズの問題を、不運な初期の小さな事故と容認した。そして6カ月が経過する前には、我々は優れたシューズを創り出した。それは僕がその後、キャリアを通して履き続けたエアー・オシレイトだった。

僕は1994年秋のヨーロッパ・ツアーを、ストックホルムから始めた。ある晩、僕が練習コートにいる最中、ティムは失神してガラスのコーヒーテーブルの上に倒れ、顔をひどく切った。当時ティムは無茶なダイエットをしていて、しょっちゅうランニングをしていた。彼はいささか健康オタクで、あらゆるダイエット法を試みていたのだ。コーチが病院に運ばれたと告げられ、僕は動転した。だが気を失って顔を傷つけただけだと言われたので、僕は試合に出て勝利し、それからティムに会いにいった。彼は酒場のケンカでのされたような有様に見えた。医師は、失神あるいは一時的な意識不明は、心臓に関係があるのではないかと考えていた。

僕は順調に秋のシーズンを送り、アントワープと年度末の ATP ファイナルで優勝した。最後の2試合ではアンドレとボリス・ベッカーに続けて勝利した。その年最後の大会であるグランドスラム・カップでは、決勝戦でマグナス・ラーソンに番狂わせの敗戦を喫した。ラーソンは彼のキャリア最大の―――桁外れの―――200万ドルという賞金を獲得したのだった。だがその大会について忘れ難いのは、ティム・ガリクソンが再び失神した事だった―――ほんの数週間で2回目だったのだ。それはある朝、僕が地元のナイキ社員とプロモーションをこなしている間に起こった。ティムはホテルで意識を失い、再び病院に運ばれた。今回は、彼の妻のローズマリーがドイツまで飛行機でやって来た。再び、医師たちが彼の心臓を診た―――彼らは何らかの先天的な欠陥があると考えたが、はっきりした事は誰にも分からなかった。誰もが不安を募らせるばかりだった。

失神の事件はあったが、年の終わりに我々の意気込みを鈍らせる事はなかった。僕は2つのメジャー大会、そして ATP ファイナルで優勝していた。足の怪我はUSオープン・タイトルを犠牲にしたかも知れないが、夏の大会をすべてフイにしたにも関わらず、2年連続で年度末1位となったのだ。僕は自信に満ちて短い休暇をとり、ゲームを調整するための公式大会に出場する事なく、1995年のオーストラリアン・オープンに臨んだ。ティムもまた、やる気満々だった。彼はテニスのゲームを愛し、そしてメルボルンのリラックスした雰囲気を楽しんでいた。彼の現役時からのツアー仲間が大勢いて、コーチングや種々のテニス関連ビジネスで働いていた。そして双子の兄弟、トムもいた。

僕は合計で8ゲームを失っただけで最初の2試合を勝ち進んだ。そして3回戦ではラルス・ヨンソンと対戦する事になっていた。ティムは僕をウォームアップさせてロッカールームに戻ったが、そこで突然、不可解にも昏倒した。その時までにティムは、先天的な心臓疾患と思われるものの薬物療法を受けていた。医師は彼が前回に倒れたのは小発作を起こしたためだと言い、失神の原因は心臓弁の機能不全によるものと考えていたのだ。トムは急いでティムを病院に運び、僕は自分の試合に臨み―――勝利した。その後に病院へ行った。何が起こっているのかを知るために。そしてティムは「回復する」と言われた。訪問の後、マスコミが待っていたので、僕はその情報を繰り返した。

次の対戦相手はスウェーデンのマグナス・ラーソン、つい1カ月前にグランドスラム・カップで僕を破った男だった。僕のスタートはひどいものだったが、ティムが倒れた事が影響したとは言えない。当時は何も確定していなかったから、恐慌をきたすこれといった理由もなかったのだ。

間もなく僕は2セットダウンとなり、第3セットの激戦を演じていた。それまでのグランドスラム・キャリアで、2セットダウンから逆転勝ちした事は、フレンチ・オープンにおけるトーマス・ムスター戦の一度しかなかった。だが僕は挽回に努め、最後の3セットを7-5、6-4、6-4で勝ち取った。試合が終わってみれば、 ラーソンは僕より1本多いエース(19本)を放っていた。彼はマスコミに、今日以上のプレーする事はできないと語った。

ラーソン戦の後、僕は再び病院に行った。ティムの病室に入っていくと、とても沈んだ雰囲気だった。ティムもトムも冷静でいようと努めていたが、持ちこたえる事ができなかった。世間話をしようとしたが、すぐに涙ぐんで泣きだした。ティムは個人クリニックでたくさんの検査を受けてきたが、さらに検査を受けるためにシカゴの自宅へ帰るよう勧められたと僕に語った。

その時点までは、 ガリクソン兄弟はティムの問題について確たる答えを得ておらず、どこが悪いのか彼ら自身も分かっていなかったのだ。また彼らは事態を控えめに言う事で、僕を動揺させまいとしていた。彼らがそういう態度をとり続けたので、僕は彼らが明かせない、あるいは明かしたがらない答えを問いつめなかった。ふさわしい時が来れば、話してくれるのだろうと考えたのだ。自分の役目は強くあり、集中を保つ事だと感じていた。僕は試合に臨み、いいプレーをする必要があった。なぜならティムにとって最も不要なのは、自分の状態が僕のゲームに悪影響を与えたとやましく感じる事だったからだ―――ティムはそう感じるタイプの男だった。

兄弟は僕に、すでにフライトを予約して、僕が次の試合を戦う日に出発すると告げた―――ジム・クーリエとの準々決勝だった。その試合はいろいろな意味で、ある種の祝祭にもなり得た筈だった。たとえジムと僕がライバルになっていようが。時には、我々は記事中で互いを非難し合ったりもした。それは競争心に満ち満ちた2人の男が、相手の成果と報酬の分け前を求めていただけで、真剣なものではなかった。我々には長い友情の歴史があり、さらにジムのコーチであるブラッド・スタインは、ティムとトムの友人だった。アメリカ人同士の繋がり、共にボロテリー・アカデミーで励んだという繋がり、あらゆる種類の繋がりがあった。だがティムの病状は、すべての上に暗雲のようにのしかかっていた。そして彼は試合前に立ち去ろうとしていたのだ。

ジムと対戦する前夜、間際になってから、我々みんなでティムのために「さよならディナー」をするべきだと誰かが言いだした。素晴らしい提案、思いやりのある意思表示だった。ディナーはメルボルンのダウンタウンにあるイタリアン・レストランで行われた。我々はあらゆる事についてお喋りをし、陽気で楽しい雰囲気にしようと努めた。避けたかった話題はティムの病状、そしてジムとの対戦についてだけだった。だが、皆がティムの事を心配していた。そして、すべてがいささか不自然だった。運動仲間の気さくな雰囲気を維持するには、若干の努力を要した。テニス選手は仲間内だと元気が出るが、これは我々にとって感情的に馴染みのない領域だったのだ。ジムと僕が翌日に対戦する事を承知しているというさらなる緊張感も、やむを得ない事だった。

僕は心の底で、物事がばらばらに壊れていくという最悪の気分を味わっていた。だが純粋に利己的な見地からいうと、1つの事については非常に幸運だった。ポール・アナコーン、彼は常に僕を気にかけてきてくれたが、彼がオーストラリアにいて、引退前に最後のグランドスラム大会に出場していたのだ―――実際はダブルスのみにエントリーしていた。僕はポールに、ティムの状況がはっきりするまで、大会で僕を手助けしてくれないかと頼んだ。そして彼はそれを受け入れてくれた。

僕のキャリアのごく早期に、共通のエージェントだったギャビン・フォーブスが、僕をポールに紹介してくれたのだ。我々は時に顔を合わせ、食事の席や大会でテニスについて話をした。実際、ウィンブルドンの最中には、ガスと僕はセント・ジェームズ・ホテルのポールの部屋に遊びに行き、ポールが冷蔵庫に入れておいたアイスクリームを食べ尽くしたりしていた。僕が成熟してトップ選手になっていく間も、関係は続いていた。ツアーとはよそよそしい場で、誰もが自分の事だけにかまける傾向がある。だがポールは常に、僕がしている事に関心を抱き、僕に注目し続けてくれた。僕はそれを感じ、感謝していたのだ。

幸運な事に、数週間前には、ポールと僕は同じ飛行機でオーストラリア入りしていた。その時に少し話をしたが、彼はオーストラリアン・オープンの後に、大学でコーチングをするつもりだと言っていた。だがティムが帰国しなければならなくなった時、彼はその計画を留保してくれたのだ。状況は悲劇的だったとはいえ、驚くばかりのタイミングだった。もしポールが早くに敗退して帰国していたら、あるいは、そもそもオーストラリアへの最後の旅行をしないと決めていたら、僕はどうしていたか分からない。

ポールは穏やかな男で、ティムよりもさらに若かった。そして一緒にいるのがとても心地よかった。ティムは僕の公式コーチのままでいたが、ポールは毎日会場に同伴してくれた。ポールは電話でティムと話をし、それから仲人役のようにティムの考えを伝え、彼の望みを実行してくれたのだ。ポールは助力が必要とされる限り、喜んでその役目を担うつもりでいてくれた。我々はティムの健康問題が解決し、パリで行われる次のグランドスラム大会には、僕のそばに戻れる事を願っていた―――すぐにではなくとも。だが不吉な兆しがあった。僕はロッカールームで、あるベテランのコーチが脳腫瘍とガンについて話しているのを耳にしたのだ。

翌朝、ティムは帰国した。そして僕は、夜のゴールデンアワーに行われるジムとの試合に備えて眠っていた。先の事についてはあまり考えなかった。考えるには他の、もっと良い時がある。僕には果たすべき仕事があった。それをティムが最も誇らしく感じるであろう方法で遂行していたのだ。

ロッド・レーバー・アリーナの開閉式屋根は、我々の試合のために開いていた。コンディションはほぼ理想的だった。試合の最初から、ジムは良いプレーをした。彼は僕よりも、オーストラリアのコートとコンディションを気に入っていた。そしてその夜、まだ暖かい空気の中、彼のフォアハンドはライフル銃のショットのように炸裂していた。我々の間に差はあまりなかったが、僕は2つのタイブレークを失って2セットダウンとなり、ひどい窮地に陥った。それはベスト・オブ・5セットのグランドスラムの試合では、特にジムほどの優れた選手に対しては、最悪の状況だ。僕の頭の中では、このような会話が飛び交っていた。もう僕はおしまいだ。試合を終え、シャワーを浴びて、敗戦をタイブレークでの不運のせいだとあきらめる事もできる。あるいは、踏みとどまって、もし幸運が僕にあるなら、さらに2時間半戦う事もできる―――試合を振り出しに戻すために。

僕の内部の何かが、戦い続けるよう駆り立てた。僕は第3セットの早い段階でブレークを果たし、そのアドバンテージを手放さずにセットを勝ち取った。そして第4セットでは、ジムが第5ゲームで僕をブレークして4-2のリードとした時には、いよいよ終わりかと思われた。彼は勝利まで2ゲームのところにいたのだ。だが、彼はケイレンを起こし始めていた(その時には僕は気付かなかったが)。5-3リードとするゲームポイントで、ジムはダブルフォールトを犯した―――試合を通じて犯したわずか2本のうちの1本だった。それから彼は2本のグラウンドストローク・エラーを犯し、スコアは突如として5-3ではなく4 -4となり、僕は息を吹き返したのだ。僕はサービスをキープし、次のゲームでジムをブレークして第4セットを勝ち取った。

第5セットで第1ゲームをサービスキープして、僕はこの試合を通じて初めてリードを手にした。前半の深刻な難局では、混乱して上の空の状態だったが、今やほんの少し息をつく余地が生まれ、いろいろな事がほぐれ始めた。チェンジエンドで椅子に座りながら、僕はティムの事を考え始めた。病院での事、そしてティムがいかに弱々しく、悲しそうな様子だったかが甦ってきた。

ほんの一瞬後、僕は取り乱していた。僕はこれらすべてを、すべての強い感情を内部に閉じ込めていた。封じ込めていたのだ。それは発散される必要があった。発散されたがっていた。それでもなお、物事を露わにするのは僕らしくなかった―――テニスの試合中には。だから僕は、それらの感情をどこに持っていけば良いのか分からなかった。さらに悪い事に、自分の感情を押し込めようと努力しながら、僕がもがきながらも試合に入り直した事をティムがどれほど誇らしく思ってくれるか、充分に理解していたのだ。

我々が組んで仕事を始めた時、僕の競技者根性は可もなく不可もなしで、すぐに落胆する傾向があった。逆転勝ちの名手ではなかったのだ。だがこの大会に関してだけなら、僕は2試合続けて2セットダウンからのカムバックを果たしていた。それはティムが教えてくれた事と大いに関係があったのだ―――僕に銘記させた労働を善とする考え、彼が教え込んだ矜持、僕のゲームについて示してくれた自信と。

僕には彼の顔が見えた。目は輝き、唇にはひそかな笑みを浮かべていた。彼が僕にこう言う時の―――いかに何度も言ったことか。アドサイドからセンターへの僕の強烈なフラットサーブは、かのグリーンベイ・パッカーズのパワースイープみたいだと。
訳注:パワースイープ。アメフトにおけるエンドランの一種。ラインマンが後退してボールを持った選手のためにパワーで敵をブロックする。

ティムが初めてその類似性を口にした時、僕はただ当惑して彼を見つめた。多分、目を回してさえいただろう。いったい彼は、どんな類のティム - イズムに結びつけるんだ?と。僕はそのパッカーズのパワースイープについて何も知らなかった。だがティムはウィスコンシン出身で、熱狂的なパッカーズ・ファンだったのだ。彼は楽しそうに力のこもった台詞を口にした。「いいかい、それが来ると分かっていても、止めるためにできる事は何もないんだよ」

ティムはその台詞が好きだった。大試合の前にはいつも、僕を活気づかせようとしてその台詞を使った。そして僕はそこにいた。オーストラリアン・オープンの準々決勝、2セットオール1-0リードの状況で、余計な事は何も考えまいと努力しながら。

僕の内部で何かがはじけた。あらゆる考えや感情が、溢れかえるように押し寄せてきたのだ。圧力をかけられた液体が、塞がれていた出口から噴出するかのように。僕はそのチェンジオーパーですすり泣き、肩を震わせていた。その時、僕は感じている事すべてとは正反対の感覚を得ていた。突然、再び息をつけたような気分になったのだ―――長い間できなかった後で、ようやく呼吸できたかのようだった。実際に、良い気分だった。

ところで、この出来事については、1人のファンが「カモン、ピート、コーチのために頑張れ!」と叫んだ時に僕が取り乱し始めた、という説が広く信じられている。それは真実ではない。僕は男の叫びを聞いてさえいなかったのだ。ともかく、それから2ゲームの間、自分の感情あるいは涙をコントロールできなくて苦労した。僕は何事もなかったように続けようとしたが、できなかった。後ろに下がって少し時間をとり、落ち着こうと努めなければならなかった。ジムのゲームの調子を狂わせたくなかったが、彼はこの時までに、何かまずい事が起こっていると気づいていた。それが何であるかは分かっていなかったが。

1-1の時点で、そのゲームの最初か2番目のポイント後に、僕はまた気持ちが乱れた。次のポイントをプレーする前に、少し時間をとった。その時までには、僕が普通でない感情的な何かを抱えていると、スタジアムにいる誰もが承知していた。会場は静まりかえり、僕は気持ちを立て直そうと努力していた。それから、コートの向こう側からジムの声が聞こえてきた。「大丈夫かい、ピート? 君が望むなら、明日やってもいいんだよ」と。

僕にはジムが、彼が時に見せる、あの少しばかりソフトな皮肉っぽい口調でそれを言ったように思えた―――僕がよく知っている口調で。彼の発言をどのように捉えるべきか、僕はよく分からなかった。実際、ファンはそれを聞いて笑った。彼が何を考えているのかは分からなかったが、彼が事の運びに満足していないのだと感じた。ひょっとすると彼は、テンポが滞る事で彼のケイレンが悪化するのを願って、僕がウロウロしていると考えたのかも知れない。だが僕はずいぶん後になるまで、彼のケイレンについて知る事さえなかった。

ジムの言葉は僕を混乱させ、そして苛立たせた。同時に、僕をひどい状態から立ち直らせた。僕は素早く集中し直さなければならなかったのだ。突如として、ティムの事を考えたり涙や湧き出る感情を止めようと苦労する代わりに、僕は試合に勝つ必要がある、すぐにも勝利する必要があるのだと知った。ジムは僕を窮地から逃れさせてしまい、神経をすり減らしていると気づいたのだ。どんなに取り乱す理由があろうと、ハムレットのように歩き回るのはやめなければならなかった。

それは僕の人生で最も長い10分間だったかも知れない。各国のテレビ視聴者を含めてほぼ2万人の人々は、僕が顕微鏡の下の虫さながらにもがき苦しんでいるのを見てとる事ができた。たまらなく苦しかったが、ジムのしゃれた冗談は僕を素早く現実へと引き戻した。そして僕はうまく対応した。第8ゲームでジムをブレークし、それを守り抜いたのだ。試合は4時間に2分だけ欠けるところまで達していた。後にジム自身が言ったように、「第5セット4 -3の時点では、我々のどちらかが倒れても不思議ではなかった。だが立ち続けていたのは彼だった。ピートは決然としている。そしてグランドスラムにおいては確かに、彼は勝つために力の限り何でもやろうとしている」

「明日」戻ってきて終わらせようという発言が何を意味していたのか、僕は一度もジムに尋ねた事がない。その事について、我々はメディアを通して話をしてきた。そして彼は、僕がそれを辛辣なたわごとだと受け止めた事を承知している。ただならぬ状況に対する無意識で偽りのない反応であったと彼は語ったが。ある日、我々はそのすべてについて充分に話し合う事もできただろう。だがその必要性もないのだ。僕はその事で悪意を抱いたりしなかった。それは我々両者にとって、多くのストレスが積み重なる厳しい状況だった。我々は共に大人の男で、競争心が強く、時に大人の男は乱暴に振る舞うものなのだ。

試合の後、僕はとてもきまりが悪く、自己をさらけ出してしまったように感じていた。ただ泣きたくて、家族と話をする必要がある、その気分を知っているだろうか? それが、僕の置かれた状況だった。僕は母親の声を聞く必要があった。そして、それをしたら、僕の感情は和らげられた。家に電話をすると母親が出た。我々兄弟の1人がサポートを必要とする時、母には哀れみ深くゆっくりと話す傾向がある。そして母が「ああ、ピティ。見ていたわ。大丈夫?」と言った時、それがどれほど悲しそうに聞こえたか、はっきりと覚えている。

僕はただ取り乱し、再び泣きだした。


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