第4章 1992年
献身に対する自問自答(3)


1992年の前半、僕の結果はまあまあだった。ティムと僕は前進あるのみだった。1つの大会では勝ち進み、別の大会では苦戦した。そして4月まではタイトルを獲得できなかった。だがその後ヨーロッパのクレーでは、今までで最も堅実と言えるシーズンを送った。ニースでは準決勝へ、ローマとフレンチ・オープンでは準々決勝まで進出したのだ。

次はロンドン、クウィーンズ・クラブでのウィンブルドン前哨戦だった。そこではブラッド・ギルバートに対して、その年2度目の敗戦を喫した。ウィンブルドンでは準決勝でゴラン・イワニセビッチに敗れた。僕はいまだに芝生を嫌っていた。テニスは稲妻のように速かった。ボールは硬く、銃弾のように飛び交った。ゴランはサーブで僕をコートから吹っ飛ばした。だがそれは、彼の優れたパワーのためだけではなかった―――僕には競技者として欠点があるからでもあった。

僕は試合で自分に気が滅入ってしまったのだ。芝生では起こりがちな事だ。相手が右に左にとエースを連発していると、爆弾が通過していくごとにサービスをブレークするチャンスはどんどん消えていく。他のどんなサーフェスよりも、芝生では辛抱強さと、フラストレーションに対する強い覚悟を必要とするのだ。準決勝に到達して嬉しくはあったが、この敗戦はある意味で、昨年のUSオープンでジムに負けた時の記憶を呼び戻した。僕はゴランに対して充分に頑張り通していなかった。誰も僕にそれを言い聞かせる必要はなかった。それに気付いていた者がいたかも不確かだ。だが僕には分かっていたのだ。

僕は心地よい領域、合衆国のハードコート・シーズンを楽しみにウィンブルドンを去った。だがまず、僕はオーストリアのキッツビューエルで開催された大きなクレーコート大会に出場し、何人かの非常に堅実な選手を倒して優勝した(当時レッドクレーでは5本の指に入ったアルベルト・マンシーニを含めて)。恐らくクレーでは僕の2番目に素晴らしい優勝だ。バルセロナのオリンピック大会には好調で臨み、遅いレッドクレーというサーフェスにしては良い結果を出した。3回戦でロシアのクレー専門家、アンドレイ・チェスノコフに第5セット6-3で敗れた。

僕のゲームは再びまとまり始めたようで、合衆国に戻ると勢いは留まる事がなかった。シンシナティとインディアナポリスで続けざまに優勝し、その過程でエドバーグ、レンドル、ベッカー、クーリエに勝利したのだ。僕は自信の波に乗ってニューヨークへと向かった。前年のようなプレッシャーはまったく感じていなかった。世界のトップ3選手である事を快適に感じていた。僕は10試合に連勝してフラッシング・メドウに乗り込み、最初の2ラウンドでは苦もなく勝ち、その記録を12に延長した。

3回戦では仲間であるトッド・マーチンと対戦し、フルセットの戦いをした。僕は第5セット6-4で逃げ切り、次にかつての強敵ギー・フォルジェを倒した。準々決勝ではロシアのアレクサンドル・ボルコフと対戦したが、彼はすでに帰りの飛行機を予約しているかのようなプレーをした。これはグランドスラムの準々決勝だというのに、彼ほど素早く、あるいは明らかにやる気をなくす者がいるだろうか。彼は僕に対してチャンスがないと思ったからだと考えたいが、僕はもっと良く分かっている。こういうタイプの選手は繊細に調整されたレースカーのようなもので、速いが、少し自信を失ったり、あるいは心地の悪い難題に直面すると、前触れなしにスピンして進路から外れる傾向があるのだ。

準決勝ではジム・クーリエを4セットで下し、僕は2回目のUSオープン決勝戦に進出していた。だが今回の対戦相手は、同僚の天才児ではなかった。僕は経験豊かで非常に冷静な競技者、スウェーデンのステファン・エドバーグと対戦する事になった。彼は厳しい闘いをくぐり抜けて決勝戦へと到達していた。

エドバーグと僕には共通点があった。我々は共に控えめで内向的な、古いタイプのスポーツマンだった。ステファンはスウェーデンで育ったが、同国のクレーコート主体の傾向とは別の道を辿り、そして僕と同じく片手バックハンドに変更していた。彼は攻撃テニスを望んだからだ。エドバーグもまた天才児だったが、少し違った方法でだった。彼はジュニア(18歳以下)のグランドスラム優勝を達成していた。プロとしては、僕が1992年にそれとは気づかず取り組んでいた、苦闘にも似たものを彼は経験してきた―――才能ある選手というだけでなく、偉大な競技者になるための闘いを。ステファンの場合、彼につきまとったキャッチフレーズは「重荷」ではなく、「内なる炎」だった。キャリアの早期、ステファンはガッツ、勝利への燃えるような野心に欠けていると非難されたのだ。

悪いタイミングの見本で、批評家は間違っていると彼がまさに証明していた時に、僕はエドバーグに当たったのだ。前の年、彼は完璧で芸術的なプレーを披露してクーリエをストレートセットで片付け、僕のUSオープン・タイトルを奪っていた。その躍進は「内なる炎」問題を休止させた。その種のモチベーションなくしてUSオープン優勝などあり得ないからだ―――大会はただもう厳しく、非常に疲れるものなのだ。USオープンでは、とりわけヨーロッパの選手にとって言える事だった。彼らの多くは、コンディションを心地よく感じる事がなかった。それには息苦しいような湿気と暑さ、じりじりと熱いハードコート、混沌とした平等主義的なニューヨークの雰囲気も含まれていた。

いまだ懐疑の念を抱いていた者でも、エドバーグが1992年にフラッシング・メドウでUSオープン・タイトルを防衛していった勇壮な道のりには納得させられた。決勝に至る最後の3試合で、彼は質の高い対戦相手に対して第5、最終セットで先にブレークされていたのだ。リチャード・クライチェク、イワン・レンドル、マイケル・チャンに。マイケルとの準決勝は、史上最高の試合の1つに数えられている。プレーの質ではないとしても、奮闘という点で。5時間26分という試合時間は、USオープン史上の最長試合として新記録を作った。

ほっそりした長身のエドバーグは、動きが素晴らしかった。彼はキックサーブが生命線で、その後にネットへ詰める事を好んだ。そして見事なボレーによって、最も鋭いリターン以外のすべてを断ち切る事ができた。ステファンのゲームプランは単純明快だった。ネットに着く事だ。彼は果敢にチップ&チャージの戦術を用いて、相手を驚かせた―――鋭いスライスかドロップショットのリターンを打って、前進してネットをとり、サーバーにパッシング・ショットを打たせるよう挑むのだ。閉ざす―――ひと言で言えば、それが彼のゲームだった。

取り合わせは単純だった。我々は共に攻撃を望むという事だった。パワーの点では、特にサービスでは僕が優勢だと考えていたが、守備の面では、彼の弱い側、フォアハンドにも及んでいなかった。僕はサービスリターンを低く保たなければならないと承知しつつ試合に入った。キックサーブをなんとか捕らえ、低くフラットなリターンを返す練習をしたのだ。ステファンのような男と対戦すると、僕には正確にどこへリターンを打つべきか考える余裕があまりなかった。もし彼のゲームが好調だと、リターンを低く沈めて彼のボレーを浮かせ、パッシングショットを打つチャンスを見つけるのも難しくなる。また、僕はステファンのフォアハンドを攻撃し、彼にチップ&チャージする機会を与えるようなプレッシャーのかかる状態に陥らないため、上手くサーブを打ちたいと望んでいた。そして訪れる小さなチャンスを待ち、それをものにできたら、試合を有利に運べるだろう。

決勝戦の朝に目覚めた時、僕は素晴らしい気分だった。僕は多くを成し遂げて、USオープンの決勝に到達したのだ。僕はかなり満足していた。それが、まったく不安を感じなかった理由かも知れない。僕は決勝に進出した事で喜んでいた。その日は風が強く、すり鉢状のアームストロング・スタジアムでは、いつも以上に風が渦を巻いていた。試合が始まった時、情状酌量的な要素が1つあった。僕は食中毒から来る腹痛と脱水症状を抱えていたのだ。僕はそれを軽視していた。オーストラリア人のモットーを尊重していたからだ。もし試合を始められる体調であるなら、なぜ負けたかを弁解すべきではない、と。そして究極的には、試合での僕のプレーぶりは体調の問題ではなく、精神的なもの、危機に至らせたのは情緒的な問題だったのだ。

僕は力強いスタートを切り、第1セットを勝ち取った。だがそれ以降は、最悪の苦闘となった。「新しい」ステファン・エドバーグは、すべてを発揮した。感情を露わにし、拳を振り上げ、叫び、彼の内なる炎を示すためにあらゆる事をした。彼は第2セットを勝ち取った。試合の重大な分岐点―――第3セットのタイブレーク―――では、僕はまずい時機にダブルフォールトを犯してエドバーグに6-4のリード、そして2つのセットポイントをを与えてしまった。ステファンはその好機をものにして第3セットも勝ち取り、1セットアップとした。そしてさらに、僕は第4セットの第1ゲームでもダブルフォールトを犯し、そのゲームを失った。あっという間にエドバーグの3-0となった。それから先は、僕のプレーはおざなりになった。降参してしまったのだ。その後、僕はマスコミに語った。「試合が進行するにつれて、僕はエネルギーを使い果たしてしまった。とても、とても疲れていた。恐らく肉体的によりも精神的に。精神的に、僕の身体はこれ以上できないと自分自身に語りかけ、結果として頑張りきれなかった」

いま一度、僕は本心を話していたが、語った事は真実と逃げ口上が妙な形で混じり合ったものだった。例えば、僕の肉体的問題は疲労と脱水症状だったが、それでも僕は自分が「精神的に」より疲れていたと認めた。それは論理的でさえないが、誰もそれを取り上げなかった。僕の心は、疼く身体に僕はできると言い聞かせるべきだった時に、もうできないと語りかけていたと認めた。要するに、頑張りきる事についての自分の無能ぶりとやる気のなさを釈明していたのだ。僕は「お粗末な」プレーをしただけではなかった。心の込もらないプレーをしたのだ。それはさらに大きな罪だった。

その結果として、僕は愕然とし、途方に暮れていた。それからの数週間、僕は長かった夏のハードコート・シーズンから回復する一方で、痛みを伴う真実は心の中でゆっくりと結晶化していったのだった。


戻る