第6章 1994〜1995年
栄光の門(6)


1995年、僕の3年連続ウィンブルドン・タイトルは、アンドレの驚くべき復活によって間もなく影が薄くなった。そして彼の活躍は、ハードコートシーズンの間にますます勢いを増していった。その夏に彼がテニス界を驚愕させた20連勝を遂げていくなかで、僕は多くの犠牲者の1人だった。アンドレが4大会連続優勝を成し遂げる過程で、カナディアン・オープンで僕を下したのだ。そして彼は優勝候補としてUSオープンに臨んだ。だが同時に、彼には多くのプレッシャーがかかる事になった。もし彼が僕に負けたら、彼が夏の間に挙げた25勝はすべて水の泡となり、ナンバー1であるという事実もほごになってしまうのだ。アンドレは僕と同じく、数字や順位よりも重要な機会、重要な大会のためにプレーしていた。

それはプレッシャーを生み出した。そしてまた、アンドレは僕がフラッシングメドウで非常にタフな相手になるだろう事を承知していると感じた。僕にはゲームが、モチベーションが、そして経験があった。彼の魔法のような疾走をだいなしにするために必要なすべてが、僕には備わっていたのだ。アンドレのプレーは素晴らしいレベルだったが、僕には自信があった。マスコミにとっては、状況は垂涎ものとなっていた。だが僕にとっての基本は、アンドレとの対戦を楽しむという事だった。彼は好調だったが、そして日によってスコアがどうなるかは分からなかったが、もし僕が絶好調なら、彼が僕を快適なゾーンから遠ざけるのは難しかった。

我々は決勝戦へ、必然とメディアの誇大宣伝が打ち鳴らすドラムビートへと勝ち進んでいった。決勝戦の日の天候は見ているだけでは、あるいはルイ・アームストロング・スタジアムに座っていてさえ分からなかったかも知れないが、慎重を要するものだった。少し風があり、そして我々は互いの様子を探りながら試合を始めた。2人のヘビー級ボクサーのような感じだった。これは大いなる機会だと僕は感じ取っていた。超のつく有名人たちが来ていたからだ。ジョン・F・ケネディ・ジュニア、アーノルド・シュワルツェネッガー、その他たくさんの人々がいた。

アンドレと僕はジャブを交わし、ゲームを重ねるごとにボールの感触を掴んでいった。双方ともセットが進むにつれて、どちらかにチャンスが来るだろうと承知していた。5-4で僕にセットポイントが来た。我々は19回のストロークラリーを交わし、その大半はフォアハンド対フォアハンドだったが、それを昨日の事のように覚えている。これまでで最も重要な、そして意味深いポイントの1つだった。僕はそれを角度のついたバックのウィナーで勝ち取ったのだ。

アンドレは彼の得意なパターンに僕を引き込んでいた。そして僕はその罠から逃れただけでなく、セットを勝ち取ったのだ。それはまさに、ボクサーをぐらつかせるフックパンチのようだった。テニスでは、そのような瞬間がそのゲームだけでなく、さらにダメージを与える事もある。恐らくアンドレはそれから立ち直るのに、次のセットを要したのだと思う。僕は押されている、あるいは実際に乱打されていると感じる事もなく、そのセットをごく普通に流したからだ。僕は第2セットを6-3で勝ち取った。

2セットを先取して、自信が高まった。僕は絶対的優位に立ち、イーブンに戻すだけでもアンドレには多大な負担がかかるのだ。それでもなお、僕がゲームを勝ち取るように、アンドレも彼なりのゲームを勝ち取るだろうと予想していた。彼はいいプレーをして第3セットを勝ち取った。だが多くのエネルギーを使い、イーブンの状態にするだけでも未だ長い道のりだった。だが、僕は注意深くあらねばならなかった。もし僕が第4セットでブレークされでもしたら、それはアンドレの衰え気味の精神にとって点滴になるだろう。彼はすぐさま蘇り、アドレナリンと自信を大いにみなぎらせるだろう。僕はそれに備え、なおかつ「余裕を残して」プレーしなければならなかった。

僕の場合、余裕を残すという事は、スピードであれプレースメントであれ、サーブの質を向上させる事から始まった。サービスポイントを素速く勝ち取る最も良い点の1つは、またたく間に自分のサービスゲームを終わらせて、相手のサービスゲームに集中し、ブレークのチャンスをより得られる事だ。逆に、対戦相手はプレッシャーを感じる。サービスをキープする事に手いっぱいで、相手をブレークする事を考えるゆとりが殆どないのだ。これはセット終盤では大きな要因になり得る。そして常に、自分のサーブが巨大な武器ではない選手にとっては、状況をより厳しくする。

第4セットの大半、アンドレと僕は互角にサービスゲームをキープしていった。だが僕はサーブでエースを放ち、第10ゲームを簡単にキープした。僕はプレッシャーがアンドレにかかり始めているかも知れないと感じ取り、そしてカギとなるブレークを果たして6-5とした。その後に、自分のサーブで試合に首尾よく勝利したのだった。

その勝利は僕にとって多くの意味で、門を開くものとなった。それは7つ目のメジャー・タイトルであり、さらに6つのメジャーをもたらす事になる次の4年間の疾走へと発進させたのだ。その試合はまた、アンドレに対して破壊的な影響力を持っていた。その試合は我々のライバル関係で僕を9勝8敗のリードとしたが、さらに重大な事に、アンドレにひどい衝撃を与え、彼は間もなく視界から消え去ってしまったほどだった―――後に彼は、その痛烈な敗戦から立ち直るのに2年を要したと認めた。とても残念な事だった。その試合はアンドレとのライバル関係を確証するものでもあったからだ。アンドレのように僕をプッシュし、僕にベストのテニスをするよう強いる事ができる者は誰もいなかったのだ。そしてもはや誰も、我々のライバル関係をナイキにでっち上げられた誇大宣伝と呼ぶ事はできなかった―――それは本物だったのだ。しばし保留になったとはいえ。


戻る