第5章 1993〜1994年
炎の下に秘めた品位(9)


1994年ウィンブルドンの直前、僕はセルジオ・タッキーニとの契約を終わらせ、新しいウェアとシューズの契約をナイキと結んだ。ウィンブルドンは新しいブランドになって初の公式大会だった。そして合衆国に基盤をおく巨大な企業と組んだ事で、僕はかなり張り切っていた。契約金はイタリアもオレゴン州も同じであったかも知れないが、母国の企業と大きな宣伝契約を結ぶのはいつだって望ましい。皆の利益にいっそう効果的に利用されうる自然な結びつきだ。

僕のために、ナイキは感じの良いクラシックなウェアを用意していた。シューズは大ヒットとなった大規模で新しい「エアー」キャンペーンの1シリーズだった。だが残念ながら、シューズは僕の足に合わなかった。そしてウィンブルドンを去る時までには、右足は痛みを感じ、腫れていた。医者に行って MRI 検査を受けると、向こう脛の腱炎と診断された。

僕はワシントン D.C. の大会出場を予定していたが、棄権しなければならなかった。同じくモントリオールとシンシナティの大会も棄権した。USオープンへ向かう夏の準備は台なしになり、ナイキは僕がアメリカのグランドスラム大会で履く事のできるシューズを求め、右往左往していた。僕はオープンで3試合は何とか勝ち残った。だが4回戦の対戦相手は、器用でがっちりしたペルーのハイメ・イサガだった。イサガは優れたタッチと敏捷な足を持つ選手で、僕を走り回らせ、肝心な時に必要なショットを成功させた。彼は不足なくブレークを果たし、暑く湿度の高い午後に、僕を第5セットへと引きずり込んだのだった。

僕のコンディションは低調で、余力はほとんど残っていなかった。だが自分自身と交わした約束を思い出しながら、死にもの狂いで戦った。ニューヨークの観客は力強く僕を後押ししてくれ、そして僕が努力し、長く試合に留まろうとしていた事を認めてくれた。だが気分は悪く、足は明らかに限界となり、僕は第5セット7-5で敗れた。激戦はとても高い質のもので、多くの観客を夢中にさせた。そして、試合が終わる頃には、文字どおり熱狂が渦巻いていた。ハイメと僕は大会全体でも最も観客を釘付けにする試合を演じ、多くの人に忘れがたい時を提供した。

試合が終わるとすぐに、大会役員は大急ぎで僕を審判員室に運び込んだ。その部屋は選手がルイ・アームストロング・スタジアムに入場する短いトンネルのそばにあったのだ。係員が僕のウェアを脱がせ、点滴バッグをつけた。点滴は本当に奇妙な経験だ。点滴バッグには脱水症状を軽減する種々のミネラルを加えた水が入っている。それを静脈内に入れると、効果は瞬間的に現れる。液体が血流に入って数秒後には、ゾンビ寸前の状態から、元気はつらつとなるのだ。点滴が始まって僕が最初に見たのは、親しいビタス・ゲルレイティスの顔だった。

ビタスは僕の状態を見て、最後のボールが打たれるやいなや、解説者席から飛んできてくれたのだ。彼は僕の服やあれこれを取りにロッカールームへ行く(その当時、ロッカールームはルイ・アームストロング・スタジアムから離れた場所にあった)と申し出てくれた。ビタスは戻ってくると、僕が着替えをできる状態に回復するまで待っていてくれた。それから僕のラケットバッグを担ぎ、その場から出るのに手を貸してくれた。我々がオフィスから出た瞬間に、カメラのフラッシュが光り、僕はレポーターが壁に沿って長い列をつくり、僕を待っていた事に気づいた。

休む必要があるからと、僕はいっさいのインタビューを断わった。だがビタスは共通の知り合いである何人かの記者と、少し言葉を交わした。後に「ニューヨーク・デイリー・ニュース」紙の名スポーツ・コラムニスト、マイク・ルピカが、その時の精神を真に捉えた素晴らしい記事をまとめた。それは主としてビタスと僕の絆への賛辞だった。他の記者は試合の詳細を記述し、誰もが勇壮な試合だと認めてくれているようだった。

それは僕が友人のビタスと会った最後の機会となった。数週間後、彼は悲劇的な事故で亡くなったのだ。ニューヨーク州ロングアイランドの高級リゾート地、ハンプトンズにある友人の別荘のプールハウスで寝ている間に、一酸化炭素中毒で死亡したのだった。その知らせを受けてすぐに、僕はビタスの母親に電話をした。皆と同じように、僕は彼女を「ミセスG」と呼んでいた。彼女はビタスの友人たち(友人は無数にいた)に愛される存在で、ビタスやたまたま訪れた彼のどんな友人たちにも、いつでも喜んでご馳走を作ってくれた。電話をした時には、彼女はまだ非常に取り乱した状態で、ほとんど話ができなかった。ひどく悲しかった。テニス界内外の数え切れないほどの人々が、素晴らしい友人の死去を嘆き悲しんだ。

当時は知る由もなかったが、さらに悲劇的な出来事が待ち受けていたのだった。


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