第1章 1971〜1986年
テニス・キッド(2)


パロスヴェルデスに到着し、慎ましやかな1,500平方フィートの自宅に落ち着くと、僕は活動を開始した。長男であるガスは自分の部屋を持ち、僕はマリオンと部屋を共有する事になった――さらに言えば、15〜16歳になるまで僕は自分の部屋を持っていなかった。パロスヴェルデスに到着してすぐに、そこがテニスに恵まれた環境であると分かった。付近のローリング・ヒルズには、(トレイシー・オースチンを含む)多数の素晴らしい選手の育成に貢献してきたジャック・クレーマー・クラブがあった。さらにウエストエンドがあり、僕はそこで史上最高のコーチの1人、ロバート・ランズドープのレッスンを受け始めた。

僕ははにかみ屋で内向的な子供だった。だがランズドープに「目を掛けられる」と、話題の中心となり、多くの人々がチェックしに来るようになった。今となっては奇妙に思えるが、ゲームに取り組み始めるとすぐに、僕は素晴らしいテニス選手になるだろうと言われた。すぐさま人々はエリオット・テルシャーなどの選手と僕を比較して、14歳の僕は天才児エリオットが16歳だった時に匹敵するだろうと言っていた(彼は長年にわたり世界のトップ10選手で、素晴らしいプロキャリアを送った)。

10代になる頃には、僕はウィンブルドンとUSオープンで優勝するつもりになっていた。それは本当に実現した。子供たちの多くは素晴らしいと言われてその言葉を信じ、努力する――だが、やがては道半ばで諦めてしまう。ふさわしい気質、あるいは長期的に見た肉体的資質がないのかも知れない。期待に対処する事ができないのかも知れない。テクニック、やる気、あるいはキャリアへの取り組み方に如何ともしがたい欠点があるのかも知れない。上手くいくと思っていた事が上手くいかない場合もある。それは大体において、微妙な一線なのだ。

だが恐らく、素晴らしい選手になると誰もが示唆してくれた事は、僕が今の自分になるのを助けてくれたのだろう。心の奥深くで、僕は知っていた。僕には自信があった。驚くべき事に、それが妨げられたり、弱まったり、あるいは奪い去られる事はなかったのだ――僕は、その運命感を奪いかねなかった多くの事を経験してきたが。

クレーマー・クラブでプレーを始めて間もなく、父はピート・フィッシャーという名前のメンバーと知り合いになった。彼はニューヨーク出身で、小児科医として成功を収めていた。そしてそれらしく見え、それらしいテニスをしていた。彼は太鼓腹の大柄な男で、見た事もないほどひどいテニスゲームの持ち主だったのだ。だが彼には非常に明敏で、断固としたテニス観があった――本物のテニス狂だった。

フィッシャーは僕の中に何らかの類い希な才能を見いだした。そこで彼は、レッスンの送り迎えをしていた父に力を貸し、最終的には僕のコーチになる事を納得させた。振り返ってみると、「コーチ」という言葉は必ずしも正確ではない。なぜならフィッシャーの最大の長所は、自分が何を知らないかを承知している事だったからだ。彼は僕のテニスの上達を、賢明な方法で立案するのに長けたテニスプレーヤーだった――様々なコーチや専門家の技能を僕の育成に取り入れたのだ。僕のために雄大な、途方もない計画を立てていた。彼はマッド・サイエンティストと総合請負人が組み合わさったような存在――史上最高のグランドスラム・チャンピオンを創り上げる責任者だった。

何よりも、フィッシャーがとった最も賢明な行動は、僕のテニスキャリアを任せるよう父に納得させた事だった。彼は僕たちのアドバイザー、相談相手、テニスの水先案内人になった。後から考えてみると、僕がピートに最も感謝するのは、父と僕の関係のために彼がしてくれた事だ。彼は親子の関係からテニスを切り離してくれた。ピートが主導的立場に就いた。父はゲームについて何も知らないと自認していたが、僕の上達について責任を負う必要がなかった。親とコーチの間にある一線は、決して曖昧にならなかった。僕の成果、もしくは成果の欠如が親子の関係に緊張を引き起こす事はなかった。父は常に僕の上達とキャリアの場に立ち会ってくれていたが、表には出なかった。ロバート・ランズドープは後にこう評した。「彼は防護壁のもう一方にいて、後方で見守っていた」

これは父のような人間にはとても向いた取り組み方だった。父は誰とでもすぐに打ち解けて交際するというタイプの人間ではない。ガスと僕を含めてサンプラス一族の男は概ねそうだが、父は控えめな男だ。人と打ち解けるには少し時間がかかるのだ。そして僕たちはパーティーに出掛けて一座の花形になるよりは、表面に出ないでいるタイプだ。皮肉っぽいところがある。プロテニスツアーでやっていくには、それは理想的な気質とは言えない。ツアーとは常に移動し、新しい人々と出会い、世間話をして、そして名前を覚えようとする場なのだ。だが一方で、生来のシャイで控えめな性質は、争い事から身を遠ざけ、気を散らす物事に巻き込まれないでいる事を容易にする。トップのテニス選手にとっては、それは非常に重要な長所となる。

子供の頃、僕は父と顔を合わせる事があまりなかった。父は2つの仕事に従事していたからだ――父は家族を養う事に専心し、母が物心両面で子供に気を配っていた。だが僕がテニスに深く関わるようになるにつれて、ゲームは僕が父と共に過ごす手段となっていった。父は仕事の後にはテニスレッスンの、週末にはジュニア大会の送り迎えをしてくれた。その時でも、父と僕が大いに口を利いた訳ではなかったが。僕が心を許せるのは姉のステラだった。僕は少し年上の姉を尊敬していた。そして姉は、家族の中でもう1人のシリアスプレーヤーだったのだ。時には家族全員でジュニア大会へと旅した事もあった。しばらくの間、僕たち家族はおんぼろのフォルクスワーゲン・ワゴン車であちこちを回ったものだった。

父にはどこか厳めしさがあった。だが父は僕の親友ではなかったとしても、しつけに口やかましい人間でもなかった。僕が悪い言葉を口にした時、父が僕の口に石鹸を突っ込もうとしたのを覚えている。父は子供に体罰を加える人間ではなかった――僕たちは尻を叩かれたりしなかったが、おしおきを喰らうような事もあまりしなかった。パーティー? 気晴らしのドラッグ? 怠慢な態度? 僕たち兄弟は、そういった事は何もしなかった。僕にはとても簡単だった。テニスに集中し切っていたし、その軌道から外れるような事は何も受け入れなかったのだ。

僕たちを育んでくれたのは母のジョージアだった。母は思いやりに溢れた人だった。話を聞いてくれ、話しかけてくれ、そして鬱屈を抱えている時に寄り添ってくれた。目立った影響力という点では見過ごされてきたが、僕の最上の――そして最も頑強な――性質のいくらかは、母譲りのものだろう。母はこの世でいちばん優しい女性だ――僕たちを慈しんでくれ、青春期の痛みを感じ取ってくれた。だが家族への優しさと深い思いやりを備えつつも、母は頑強だった。

母はスパルタ近郊のサラシアという村で生まれ育った。赤貧と言えるほど貧しい生活を送った。母には7人の兄弟がおり、青春期の大半をコンクリートの床で眠って過ごしたのだ。いちばん年かさの兄はカナダへと移住するに際し、兄弟全員を伴っていった。北アメリカに上陸した時には、母は英語の言葉を話す事もできなかった。やがて姉妹(母には年齢の近い5人の姉妹がいる)の数人と、トロント周辺で美容師として働くようになった。

20代に入ると、母は姉妹と共にワシントン D.C. へと移住した。そこは母が父と出会った場所だ――2人は共通の友人から紹介された。父方の祖父は日頃から息子に、ギリシャ人の好ましい娘を見つけて結婚し、家庭を持つよう勧めていた。そしてジョージアはサムにとって唯一の女性となった。彼らは家族生活に重きを置き、子供たちが元気に育つ家庭を作るという考え方で一致していた。

母が比較的新しいアメリカ人であるという事情も手伝い、僕たちはギリシャの影響を強く受けながら成長した。互いに助け合う巨大な一族があり――僕の生活では絆を深める事が難しかったが、従兄弟は30人からいる筈だ。僕たちは毎週ギリシャ正教会に通い、ありとあらゆるギリシャの祭りへ出掛けた――まさに映画「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」のように。母は今でもスパナコピタ(ホウレンソウを使った料理)、ドルマデスといった伝統的ギリシャ料理を作る。そして僕はブズーキの音楽をよく耳にしてきた。だが我々は同化への道のりにいた。ギリシャの伝統的な衣装を身につけた事もなかったし、夕食にはスパゲティ・ボロネーゼをよく食べた。
訳注:スパナコピタ。
http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Spanokopita_cropped.jpg
ドルマデス。ブドウやキャベツの葉で肉と米などのフィリングを包んで蒸し煮にした料理。
http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Greek_dolmades.jpg
ブズーキ。ギリシャの民族楽器。現在でもポップスに広く使われているポピュラーな弦楽器。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%82%BA%E3%83%BC%E3%82%AD
http://www.crane.gr.jp/~tassi/nations_inst/BOUZOUKI/BOUZOUKI.html

母について、そして子供の頃いかに貧しかったかを考える時、母は逆境に強く、精神的に逞しくあらねばならなかったのだと実感する。母は23歳でまったくの異文化に飛び込んだのだ――伝統的な社会出身の女性として。母には助け合う家族がいたが、それでも容易な事ではなかった筈だ。

僕は父から物静かで控えめな性質を受け継いだとしたら、母からは強靭さと一定の頑固さを受け継いだ。母は僕に基本的な価値観を植え付けてくれた――どこを目指そうとも、近道はないという事を教えてくれた。僕の断固とした、務めにひたすら集中する能力もまた、母から受け継いだのかも知れない。キャリアを通じて、僕の心があてもなくさ迷う事は滅多になかった。コート外で何を経験しようとも、気を散らして横道にそれる事はなかった。

母は4人の子供にかかりきりだった。そして芽を出しかけた僕の才能は、事態をさらに難しくした。ステラと僕、2人の熱心な運動家は、ガスとマリオンを影の薄い存在にしていた。さらに僕はステラをもしだいに影の薄い存在にしていったのだ。この表現は好きではないが、僕は「ゴールデン・チャイルド(才能と運に恵まれた子供)」だったのだろう。多くの事が僕を中心になされた。僕のために多くの金が使われた。時にこの事は小さな憤りに繋がった。

ガスは精力的なサーファーで、行動的な社交生活を送っていた。僕はいつも父といたから、それは望ましい事だった。それでも、弟とはそういうものだが、僕も時にはガスや彼の友人と付き合ってみたかった。だが、面倒な弟の行動がどう作用するかはお分かりだろう。その意味では、テニスをしている事は僕のためになった。ゲームに集中していたので、典型的な兄弟げんかとは無縁でいられた。僕は子供時代にガスと争った事はなかった。4歳という年齢の隔たりは、僕たちが違う世界に暮らしている事を意味していた。だが僕が特別扱いされる事は、時にガスを煩わせていたのだ。兄は僕とステラを車でテニスレッスンに送っていかなければならなかったが、その役目を好きでない事が感じ取れた。それは父に充分かまってもらえない事への反動だったのだと思う。ステラと僕は、特に年齢が上がるにつれて、家族の中で便宜を図ってもらっていたから、兄は無視されているように感じていたのだろう。

ガスはある種の苛立ちを抱えていたのかも知れない。父が兄にギターを買い与えた時の事だ。兄はステラの、または僕たち(僕とマリオン)の部屋に来て、騒々しくギターをかき鳴らし、大声を上げたものだった。うるさかったが、兄は注意を引きたいだけだったのだと思う――兄には僕が甘やかされているように見え、その苛立ちをギターで鬱憤晴らししていたのだろう。

ステラは現在 UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)女子テニス部の監督を務めているが、万事そつがなかった。姉は申し分のない娘だった。外向的で表現力も豊かで、何にでも適性があったからだろう――テニスにも才能があったように。姉とガスがけんかになると、ガスのせいだと両親が考えるのはお定まりの事だった。僕とステラがけんかをする事はほとんどなかった。テニスに対する共通の関心は、僕たちを同盟者にしていたのだ。

ステラの思い出でいちばん印象深いのは、ロバート・ランズドープのレッスンを受けていたある日の出来事だ(驚きかも知れないが、僕とステラはほぼいつもレッスンを分け合っていた――彼女が30分、僕が30分。それが決まりだった)。ある時、姉はネット際で構え、ロバートは姉にボールを打ちつけていた。いかにも彼らしく苛酷で、姉は彼のショットをかわそうとしていた――まるで自分を守るかのように。そのうち呼吸が荒くなってきて、そして泣き始めた。ロバートは不機嫌を装って「なぜ泣くんだ?」とどら声で尋ねた。「カモン、強くなれ」と。するとステラは彼の元から立ち去った。これ以上は彼の強引なやり方を受け入れられなかったのだ。僕は姉に腕を回して歩き、慰めようとしていたのを忘れない。「オーケー、ステラ、大丈夫だよ」と話しかけていた。微笑ましい図だった。12歳のチビな子供が「ああ、心配しないで、大丈夫だよ」と誰かを慰めているのだから。僕は姉にたいそう同情したので、この事件を昨日の事のように覚えている。

妹のマリオンもテニスをしていて、かなり上手だった。だが末っ子の妹は、やや影の薄い存在だった。妹は内向的だったので、それは意外な事ではなかったが、他の兄弟と上手くやっていくのが難しかったのだろう。問題は、ステラと僕はいつもテニスをしていたし、ガスは男でずっと年上だったので、マリオンには行き場がなかったという事だ。彼女にとっては辛い時もあった。

マリオンは成長すると神の存在を見いだし、とても明るくなった。信仰が気詰まりな10代の時をやり過ごす助けとなり、教会を通じて多くの友人ができた。やがて妹はもっと自信に満ち、外向的でおしゃべりになり、そして素晴らしい人間へと成長した。僕も神を信じているが、それほど信仰心が厚い訳ではない。だがマリオンを見て、信仰がいかに人の助けとなるかを知った。

全体的には、僕たちは良い子供で、避けがたい諍いや対立はあったものの、仲が良かった。両親がステラと僕により手を掛けたとしても、それは僕たちがより愛されていたからではなかった――テニスのためだった。そのメッセージは何とか伝わっていたのだと思う。そうであった事を願う。恐らくだからこそ、兄弟の仲が荒れたり険悪にならなかったのだろう。ある意味で、我々は典型的なアメリカ人家族だった。それ以外の何物でもなかった。そして今日に至るまで、家族はとても親しい関係だ。


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