第2章 1986〜1990年
ニューヨークのおとぎ話(1)


カギとなった試合
1988年3月、インディアンウェルズ2回戦
ピート・サンプラス    7  6
エリオット・テルシャー  5  3
1989年8月、USオープン2回戦
ピート・サンプラス    5  6  1  6  6
マッツ・ビランデル    7  3  6  1  4
1990年9月、USオープン決勝
ピート・サンプラス    6  6  6
アンドレ・アガシ     4  3  2

年度末順位
1988年:97位
1989年:81位
1990年:5位


上達の環境が素晴らしかったおかげで、テニス・スターダムへと登る道のりはかなり順調だった。それでも山や谷はあった。なかでも最も厳しい課題は、粘り屋から攻撃する側へと自分の心構えを変える事だった。僕は違う考え方をし、そしてもっと考える事を学ばなければならなかった。

粘り屋は相手のミスを待つ事ができる。あるいは相手に速くポイントを終わらせるよう焦らせる事ができる。攻撃側はもっと考えなければならない。フラットサーブを打つか、それともキックサーブか? ネットへ詰めるか、それともグラウンドストロークのウィナーを狙うか? 対戦相手は僕のサービスパターン、あるいはショットの選択を読んでいるか? サーブ&ボレーヤーは攻撃する側で、粘り屋は反撃する側だ。攻撃と防御の基本的な相違は、前者が攻撃のプランを必要とするのに対して、後者は反応と優れた防御を必要とする事だ。どちらの場合も、その実行が最も重要となる。

当初、僕はそこそこのサーブで攻撃テニスをしなければならなかった。1989年の後期までは、僕のサーブは固まっていなかったのだ。クリケットの投手がぎくしゃくした大振りのモーションでボールを投げるのを見た事があるだろうか? 誇張した表現だが、僕のサーブは少しそれに似ていた。まずまずのパワーとスピンで的確な地点へボールを打つ事はできたが、ゆったりした鞭を打つようなスイングや、スナップの利かせ方は――身につける途上だった。

だが攻撃的ゲームに取り組んで良かった点は、新たに生まれた僕の才能と性格がそのスタイルに適していた事だった。攻撃する者となるにつれて、運動能力が活かされるようになっていった。結果として、僕のゲームと心構えはすっかり変わった。だが僕は大きな間違いを犯した。生来の運動能力を活かし始めるにつれて、勤勉さが下がっていったのだ。そのいくらかは、大人への成長過程に伴う一般的な通過儀礼と関係があったに違いない。16〜17歳頃には、僕はさらに内向的になっていた。不安定な気分を抱えるようになっていった。その多くは内に秘めていたが、ある意味で僕のテニスにも影響を及ぼした。成熟には長くかかり、テニスの面でもいささか足踏みした。とはいえ相応に順調だった――プロ大会で自分を試し始める程度までに。1988年、16歳の時に、僕はフィラデルフィアのUSプロインドア大会で躍進を果たしたのだ。

テニスシーンに躍り出るにはふさわしい場所だった。プロインドアは、保守的なテニスの主流派に属するエド&マリリン・ファーンバーガーが主催する、素晴らしい伝統を持つ定評ある大会だった。ファーンバーガーは格調高い大会を運営していた。USプロインドア大会はフィラデルフィアにおける冬の運動競技カレンダーに欠かせない存在であり、常にテニスブームの最前線にあった。大会は2月に洞窟のようなスペクトラム・アリーナ(1万7千人収容)で開催されていたが、そこは後に NHL のフライヤーズと NBA の76ersの本拠地となった。

ファーンバーガーの一族は献身的なテニスマニアだった。ロッド・レーバーやケン・ローズウォールなどオーストラリアの伝説的選手を含む最高の選手たちに働きかけ、常に彼らの協力を得ていた。ファーンバーガーは、ゲストとして元チャンピオン達も海外から招待した。どんな夜でも、大会の接待用スウィートルームは午前3〜4時まで開いていた。そして選手、大会役員、マスコミまでが自由に交流し、ドン・バッジ、ビック・セイシャス、ジョン・ニューカムといった大会ゲストとテニスの話をして過ごした。ファーンバーガーは大会に格式を加えるため、定期的にイギリスの記者を招く事もした。

僕は予選ラウンドに挑戦するため、2月にフィラデルフィアへと向かった。予選は地元クラブか体育館で行われ、観客はいないに等しかった。出場者は中堅選手、盛りを過ぎたベテラン、伸び盛りの若手などで、本戦出場をかけて戦った。

僕は予選ラウンドをなんとか通過し、本戦入りの選手として練習のためスペクトラムへ行き、大いに感銘を受けた。スタジアムの下にある塗装されたシンダーブロックの廊下には、ブルース・スプリングスティーン(アメリカを代表するロックン・ローラー)、ロッド・レーバー、エルトン・ジョンなどのポスターがずらっと並んでいた。大会は僕の出費――ホテル、食事、送迎に至るまで――を負担してくれ、それは本当に一大事のように思えた。だが陶酔感は短かった。本戦では、僕は1回戦でサミー・ジアマルバに負けたのだ。それでも、トップクラスとはどういうものかを経験した。

数週間後、ガスと僕はインディアン・ウェルズへと向かい、そこでは安モーテルに宿泊した。部屋のドアの真正面に車を駐車させ、一日じゅう人々の往来が聞こえてくる古びた宿屋だった。僕はそこでも予選ラウンドを突破できた。その結果、本戦入り選手として、豪華なハイアット・グランドチャンピオン・ホテルに無料の部屋を提供された。ガスと僕はラスベガスで大当たりした2人組のようだった。部屋の中に入り、ウェルカム・ギフトの果物籠を目にして驚きで大口を開けた。タオルは厚地でふんわりしていた。我々はベッドに飛び乗り、ケーブルテレビやオンデマンド映画を見て、ピスタチオナッツ――無料のピスタチオナッツだ――を食べ、ごろごろした! あれほど幸せだった事はない。

インディアン・ウェルズでは、僕はトップ20選手のエリオット・テルシャーとラメシュ・クリシュナンに勝利した。物事が上手くいき始め、人々は僕に注目していた。大会側は僕にワイルドカードを提供してくれるようになった。ワイルドカードとは大会ディレクターの裁量で選手を本戦入りさせるために用意されていて、元スター、怪我から復帰途上の選手、あるいは地元の有望なジュニアなどに与えられる。調子を落としてランキングの下がった選手に与えられる事もある。グランドスラム大会では、128ドローの中にワイルドカード出場者のスポットが8つある。それより小さい大会では、ワイルドカードも少なくなる。ワイルドカードを得ると、予選ラウンドのストレスやプレッシャーに直面する必要がない。最低でも1回戦の敗者としての賞金が保証され、それは自費で支払った旅行の費用を充分にカバーするのだ。

僕の時代には、ワイルドカードは大会ディレクターが新進スターとの関係を確立するために用いる手段となっていた。ワイルドカードはまるで黄金のようだった。とりわけ上昇中のプロにとっては。それを手にすると、食事からドライバー付き送迎車、豪華な贈り物のバッグまでをもらえた。時には大会ディレクターが選手とその親を食事に招待し、選手が大会への忠誠心を抱き、出場し続ける気にさせるよう努めていた。

僕がインディアン・ウェルズでテルシャー――当時のビッグネーム――を破った頃には、企業のエージェントが僕をチェックしに来るようになっていた。ピート・フィッシャーもまた、栄光に浴するため砂漠へと出向いていた。その時までには、UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)男子テニス部監督のグレン・バセットが失望するだろう事を僕は知っていた―― UCLA であろうが他のどんな大学だろうが、僕が進学する事はあり得なかったのだ。賽はすでに投げられていた。そして今、まさに問題は僕がいつプロに転向するかという事だった。クリシュナンを破った後に、我々はその跳躍をすると決断した。それは僕にとって、まったく新しいライフスタイルを築く事を意味していた。誰が僕と一緒にツアーを回るのか? 何の契約に署名するのか? 次はどこでプレーするのか――さらにその次は? 我々は何も考えていなかった。オーケー、今や僕はプロだ、次はどうなる? という感じだった。

父とピート・フィッシャーはあらゆる事柄に対処し始めた。すべては素早く進行していた。その当時、僕はよく自分に言い聞かせたものだった。ヘイ、すべてが学習すべき経験なのだ、と。……それはプレッシャーを感じる事に対する防御だった。なぜなら僕はすでに深みへと投じられていたのだから。ほんの少し前には、僕はまずまずのアマチュアで、ゆっくりと進歩しているだけだった。次の瞬間には、僕は戦闘を経験したプロで、ベルトには戦利品である2つの頭皮がぶら下がり、心には期待が重くのしかかる状態になっているようだった。僕はかなり優秀だったが、充分ではなかった。欠点のないゲームでプロツアーに躍り出たわけではなかった。まだ僕のゲームにはたくさんの穴があり、いわば呪文を唱えながらそれらの穴を埋めていこうとしていた。すべては学習すべき経験なのだ、と。

1988年の夏、僕は高校でのジュニア時代を終え、ツアーを回り始めた。どこでプレーしたかはよく覚えていないが、ジム・クーリエと組んでダブルスをするようになった。我々はそれなりの成果を上げた。初めてジムと出会ったのは、16歳の時にジュニア・デビスカップチームでだった。そして2人とも同じエージェンシー、国際マネージメント・グループ( IMG )を選んだ。 若いギャビン・フォーブスが我々2人のマネージメントを担当した。彼の父親ゴードンはかつて選手だった(彼はまた、アマチュア時代のテニス選手に関する名著:A Handful of Summers を執筆した)。

ギャビンはジムと僕が友情を活かせると判断した。僕は独力でやっていくにはあまりに内気だったのだ。そこで彼は、僕がフロリダに行って、ジムと一緒にトレーニングをするよう手筈を整えてくれた。僕に比べて、ジムは世間を知っていて経験豊かだった。高名なニック・ボロテリー・テニスアカデミー( NBTA )で修業を積み、道を切りひらいてきた――初期にはアンドレ・アガシが彼を出し抜いていたとはいえ。そして、最も重要なのは、彼には才能があり、野心的で、努力への大いなる意欲に恵まれている事だった。

すぐにジムと僕は一緒にヒッティングをするようになった。そして彼は僕に、自分のゲームとフィットネスを満足なレベルに保つためには、どれほど一生懸命に努力する必要があるかを教えてくれた。我々は1日に3〜4時間ボールを打ち、トラックで脚力とスピードを鍛え、ウェイトルームで体力増強に取り組んだ。僕にはすべてが新しい事だった。ジムと僕は親しくなり、NBTA で一緒に暮らした。そして彼の紹介で、プロコーチのジョー・ブランディと出会った。僕は非公式にジョーと組んで活動を始めた。ピート・フィッシャーにはまだ医者としての仕事があったからだ。

2年間にわたる過渡期に、僕は様々な人からの助力を受けた。その頃までには、僕は自国のテニス連盟である合衆国テニス連盟( USTA )から注目されるようになっていたのだ。連盟の職務の1つはジュニアの才能を伸ばす事で、僕を何人ものコーチと1人ずつ引き合わせてくれた。パーム・スプリングスではクレーコートの専門家、ホセ・ヒゲラスと会った(後にホセはジム・クーリエのコーチになり、彼をフレンチ・オープン優勝へと導いた)。同じくフロリダ州ジャクソンビルでは、ブライアン・ゴットフリートの指導を受けた。彼のゲームは僕のゲームに似通っていた。彼は旧いタイプのサーブ&ボレーヤーで、攻撃的ゲームの様々な面について働きかけてくれた。午前には90分間のドリルをし、午後には試合をした。

1日の練習を終えると、午後4時には僕が滞在しているコンドミニアムまで送ってくれ、それを3週間にわたって行った。クレーマー・クラブでの日々とは異なっていた――クラブではもっと楽だったのだ。そして、僕は以前よりも孤独だった。


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