第8章 1997〜1998年
ウィンブルドンは永遠に(5)


1997年、僕は5年連続で1年をナンバー1で終えて、ジミー・コナーズの記録と並んだ。来たる年の使命は、ロイ・エマーソンの持つグランドスラム・シングルス・タイトル記録を破る(1997年終了の時点で10個を獲得し、彼との差は2つになっていた)という並行する追求はあったが、6年連続で年末ナンバー1の座に就く唯一の男になるという事だった。残念ながら、僕のスタートはかなりスローになってしまった。

オーストラリアン・オープンでは楽なドローを得て、セットを失わずに準々決勝まで来たが、そこでカロル・クチェラに敗れたのだ。この試合については、すぐにも忘れてしまうのみだった。数週間後、サンノゼの大きな室内大会では、復活したアンドレ・アガシから6ゲームしか取れなかった。冬の終わりには、インディアンウェルズとマイアミで開催される2つの主要な大会で、それぞれトーマス・ムスターとウェイン・フェレイラに敗北を喫した。両方とも早いラウンドでの敗戦だった。ツアーが春のヨーロッパへと移動するまでに、僕が優勝を果たしたのは1回だけだった。それは僕のかつての味方―――フィラデルフィア大会だった。

モンテカルロ大会では、2試合目でファブリス・サントーロに手ひどくやられた。そこで僕はアメリカに戻り、そしてアトランタのグリーンクレーで優勝をすくい取った。グリーンクレー、あるいはハーツルー(HAR - TRU)は、合衆国特有のサーフェスだ。緩いサーフェスの仕上がりは、レッドクレーのレンガ粉より粗くて滑りやすく、プレーは少し速い。その途上で、僕はパラグアイの申し分ないクレーコート・プレーヤー、ラモン・デルガドを2つのタイブレーク・セットで下した。優勝に元気づけられてヨーロッパに戻り、イタリアンオープンでは3回戦に到達したが、マイケル・チャンに敗れた。自分のゲームについては、ローラン・ギャロスへ向けて満足な状態だと感じていた。

僕は相応に自信があった。そしてパリでは良いドローを得て、1回戦では友人のトッド・マーチンと対戦した。試合の展開がどうであろうと、彼と対戦するのは常に心地よいものだった。さらに今回はコンディションも良く、僕は良い体調で2回戦へと進んだ。2回戦の相手はデルガドだった。つい数週間前にアトランタのクレーで、手際よく倒したクレーコートの巧者だった。

試合の最中に、クレーコート・テニスに関して解決しきれていないあらゆる問題が頭の中にちらつき始めた。僕は最初のセットをタイブレークで失い、それから調子を下げて、次の2セットでは7ゲームしか取れなかった。ポールはコートサイドで見守りながら、ショックを受けていた。それは僕が負けた事ではなく、僕の負け方だった―――僕はまるで陸に上がったカッパのようで、センターコートの赤土の上でもがいていたのだ。僕の相手はトップ100に入るか入らないかという男で、シングルスで1回も優勝のないまま、後に ATP コンピュータ・ランキングから消えていった(シングルスでの彼のキャリア勝敗記録は94勝103敗だった)。それでもなお、肩を落とし、気力に欠けていたのは僕の方だった。それは僕のキャリアで最もネガティブな出来の1つだった。

僕は以前に、困難な局面を克服して勝ち残った事もあった。しかし今回、パリにおける僕のチャンスは尽きようとしている事を認識したのだった。僕は気持ちを変えようとするために過去から呼び起こすたくさんの良い結果も持っていたが、それは功を奏さなかった。自分自身を納得させる事も、あざむく事もできなかった。あのデルガド戦は、僕にとってのローラン・ギャロスに関する限り、ラクダの背中への1本のわら(重荷を積んだラクダの背骨を折るのは最後に乗せた1本のわらだ、ということわざから、最後の望みを絶つもの)だった。僕にとっては、ローラン・ギャロスについて考える事は、答えよりも疑問の方が多く浮かぶものでさえあったのだ。

1つ確実に分かっているのは、僕がパリで勝つためにできる限りの事をしようと、実際に大いに努力をした年は失敗に終わったという事だ。1995年、僕はローラン・ギャロスでの成功を目指して、大会出場とトレーニングのスケジュールを調整した。僕がそうしたのは、一部には友人たちや批評家をなだめるためでもあった。彼らは皆、僕が謎を解き明かしたいのなら、その大会に目標を定めなければならないと考えていたのだ。その作戦はただ裏目に出ただけでなく、初戦でギルバート・シャラーに敗れて面目を失う事にもなった。ティムと僕はその年、パリで勝ち進む事を期待していた。だからその敗戦は、クレーコート・プレーヤーとしての自信に長期的な打撃を与えたのだ。

状況は困惑させるものだった。僕は散発的にクレーで若干の素晴らしい戦績を挙げていた(イタリアン・オープンとキッツビューエルで優勝を果たし、1995年にモスクワで行われたデビスカップ決勝では、合衆国を優勝に導いていた)。しかしそれは、だしぬけに巡ってきたようなものだった。ティムは1996年フレンチ・オープンの少し前に亡くなった。その事が僕を奮い立たせ、かの地で最高の結果を出した。だが現実を直視すれば、それは異例の状況だったのだ。冷徹な事実は、1996年の後には、僕はパリで真の有力候補にはならなかったという事だ―――たとえ1回戦か2回戦を勝ち上がったとしても。

クレーでの僕の問題は、ハードコートでは僕にとても有益な多才さや自信と関係があった。僕はステイバックしても勝つ事ができた―――ベースラインからジム・クーリエやセルジ・ブルゲラといったフレンチ・オープンチャンピオンを打ち負かした。だから、僕が優勝する唯一のチャンスは攻撃する事にある、と考えるポールや他の人たちのアドバイスを聞き入れるのは、気が進まなかったのだ。時には攻撃しなければならないと感じ、その作戦に取り組んで快適だった。他の時には、完全に自信がある訳ではないものの、クレーコートの慣例を砕く一助となる何かを思いつくよう期待しつつ、ベースラインから試合への足がかりを得ようとした。

パリでは、僕は真の進化を遂げる事はなかった。快適なゾーンへ向かって前進する事はなかった。僕は自分のゲームを完全にコントロールしていると感じる事に慣れていた―――それがウィンブルドンとUSオープンでのやり方だった。芝生とハードコートでは、僕はまさにこのメンタリティを持っていたのだ:アクセルを踏め―――ビッグサーブを打ち、攻撃を仕掛け、勝ちを取りに行き、そして相手が勝利を手に入れられるかどうか見ろ、と。しかしクレーでは、攻撃的なテニスをしている時でさえ、少しアクセルを戻さなければならない。好機を待って、より辛抱強くなる必要がある。そのようなやり方でプレーする事を、自分の内部では快適に感じていなかった。僕がクレーで上手くプレーした時は、相応に冷静で、さらに試合で自分のやり方に自信を感じていたからだった―――それは僕がハードコートでプレーする方法と、それほど違っていなかったのだ。

だがプレッシャーは常にあった。そのいくらかは、自らに課した攻撃的なゲームでパリで優勝するという事だった。僕の一部は、ステファン・エドバーグがしたように、常にネットへと詰める事を望んでいた。彼は大胆不敵な攻撃的スタイルで、ある年に決勝戦まで進出したのだ。それは僕がこれまでに挙げた以上の成果だった。しかしすべての適切なサーブの後にネットへと突進すると、すべてがあまりにも速く起こるようで、僕はしばしば心地悪く感じたのだった。僕はクレーで動きがすぐれていたとは思わない。それが僕の苦闘における微妙な要因だった。僕にはサーフェスが少し滑りやすく、足元が不安定に感じられたのだ。だから必要以上に姿勢をまっすぐにしてプレーしていたのだ。少なくともヤニック・ノア(ネットへ詰めて攻撃し、1983年にローラン・ギャロスで優勝したフランス人)のような男と比較すると。ノアはかがみ込むような姿勢から、常に飛びかかる準備のできている大型のネコ科動物のようにプレーした。僕はネットではよく不安になり、さらに身体が起きてしまっていた。

ポールはパリでいつも、僕にネットへ攻撃するよう求めたが、僕は彼のアドバイスに抵抗した。実際、僕がコート後方からジムを打ち負かした年は、他の何よりも僕の言い分の正しさをポールに立証していた。だが現実は、メジャーで優勝するために要求される3ないし4ラウンド連続でトップ選手を負かすほどには、僕が一貫してベースラインから勝つ事はできないという事だった。僕はある年、チップ&チャージの戦略を受け入れると決心した。ポールはそれが有効かも知れないと考えたのだ。しかし僕はアンドレイ・メドベデフによってズタズタにされたのだった。これくらいにしよう。

クレーは僕の対戦相手に、通常よりも有利さを提供した。彼らは高くバウンドするボールを打つ事で、僕のバックハンド―――より弱いショット―――を危機にさらす事ができたのだ。高いバックハンドを打たねばならない事は、片手打ちの選手をぞっとさせるものだ―――ロジャー・フェデラーがクレーでラファエル・ナダルに対して抱えている問題を見れば明らかだろう。ロジャーの場合は、ナダルが左利きであるという事実によって、さらに問題が厄介になっている。また僕のキャリア終盤には、テクノロジーが僕に追いつき始めてもいた。僕は全キャリアを、あの非常に小さなヘッドのラケットでプレーした。進化するラケットによる利点の可能性を僕が無視しただけでなく、ラケット性能の向上は、順応に積極的だった対戦相手たちにとっては、全競技者のレベルを同等にする助けともなったのだった。

僕はクレーコートのゲームプランに馴染む事がなかったため、すべての試合がルービックキューブのようだった。常に第1面からスタートしなければならなかったのだ。告白すると、僕はデルガドに敗れて以降、同じ目でローラン・ギャロスを見る事はなくなった。優勝という結果は予定されていないように思われた。ローラン・ギャロスを投げた訳ではなかった―――それは僕のやり方ではなかったし、パリでの優勝から得るものはあまりに大きかった―――が、あのデルガド戦の後には、自分が手を使い果たすだろうという、胸をさいなむような気分を味わっていた。

結局のところ、恐らく現実が僕を捕らえたのだろう。多分、僕はローラン・ギャロスで優勝するほどには、クレーで秀でてはいなかったのだろう。さらには、自分をチャンピオンの座に就かせたかも知れない連続した幸運、あるいは勢いをつかむ事もなかったのだ。あの決定的な意味を持っていた年でさえ。


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