第8章 1997〜1998年
ウィンブルドンは永遠に(1)


カギとなった試合
1997年1月、オーストラリアン・オープン決勝
ピート・サンプラス    6    6    6
カルロス・モヤ      2    3    3
1997年7月、ウィンブルドン決勝
ピート・サンプラス    6    6    6
セドリック・ピオリーン  4    2    4
1997年8月、USオープン4回戦
ピート・サンプラス    7(4) 5    6    6    6
ペトル・コルダ      6    7    7(2) 3    7(3)
1998年7月、ウィンブルドン決勝
ピート・サンプラス    6    7(11) 6    3    6  
ゴラン・イワニセビッチ  7(2) 6    7(2) 6    2
1998年9月、USオープン準決勝
ピート・サンプラス    7(10) 4    6    4    3
パトリック・ラフター   6     6    2    6    6

年度末順位
1997、1998年:1位


僕はオーストラリアン・オープンで優勝して1997年を始動させた。大会について感じていた事からすれば、嬉しい驚きだった。2つの理由から、その優勝にはさらなる誇りを感じた。4回戦ではドミニク・ハバティとフルセットの激戦を演じた末に、6-4で勝利したのだ。コート上の気温は華氏135度(摂氏57.2度)にも達した。現在なら「極端な熱さ」への対策として、試合が中断されるか、ロッド・レーバー・アリーナの屋根が閉じられただろう。つい数カ月前のUSオープン、アレックス・コレチャ戦で起きた事を考えると、オーストラリアの地獄のような熱気の下で、スタミナの試練に耐え抜けたのが嬉しかった。

オーストラリアのメジャーはハードコートの大会ではあるものの、97年は遅いコートの得意な選手たちが優位を占めていた。その事も僕を勇気づけた。ハバティの後には、アルベルト・コスタ、トーマス・ムスター、カルロス・モヤを打ち負かしてタイトルを獲得したのだ。彼ら3人は皆、優勝していた―――あるいは後に優勝した―――のだ、ローラン・ギャロスで。その事実は僕に望みを与えてくれた―――恐らくローラン・ギャロスにおける僕の運命は、僕を拒み続けてきたスラム大会は、まだ完全に封じられた訳ではないと。

オーストラリアで成功を収めた後に、アメリカで2つの大会優勝を加えて、かなり良い調子の波に乗れたが、インディアンウェルズでは1回戦で敗退した。それはオーストラリアン・オープンと同じく、はた目ほどにはコンディションの相性が良くないもう1つの大会だった。僕はその大会で2回優勝し、地理的にもインディアンウェルズは「ホーム」大会と言えたが、南カリフォルニアの砂漠に特有の風と乾いた空気、ボール圧の組み合わせが、好きになれなかったのだ。すべてが僕に飛びかかってくるように感じられて、上手くコントロールができなかった。僕はマイアミの方が好きだった。高い湿度が空気を濃密にしたが、コントロールがより上手くできるように感じていたのだ。

僕はかなり良い体調でヨーロッパへと旅立ったが、フレンチ・オープンに向けての3つの試みで、1試合も勝てなかった。さらに悪いことに、ローマで姉のステラからかかってきた電話が、僕を完全にうちのめした。ピート・フィッシャー、僕の上達を形成・計画してきたコーチが逮捕され、子供への性的虐待のかどで告訴されていたのだ。彼の元患者の1人(覚えているだろうか。ピートは内分泌学者で、カイザー・パーマネントと共に、幼い少年の成長に関わる問題を専門に扱っていた)が出頭し、彼を告発していた。その知らせは僕をぞっとさせた。僕は短い期間にビタス・ゲルレイティスとティム・ガリクソンを喪った。そして今、最初のコーチは不名誉な状態に陥っていたのだ。それは不快な告発で、僕はどう考えるべきか分からなかった。そんな事がいったい真実であり得るのか? 寝耳に水の事件が心に重くのしかかった状態で、僕はクレーで1試合も勝てないままローラン・ギャロスに臨み、 2ラウンドは勝ち残ったものの、マグナス・ノーマンに敗れた。

ピート・フィッシャーに対する告訴は、僕を本当に困惑させた。ピートは独身ではあったが、たいていガールフレンドがいて、よくその話をしていた。逮捕された当時は、実際に婚約もしていた。ピートの生活や習癖は、彼が典型的な男であるという事以外、何も物語っていなかったのだ。彼はロッカールームでも上手くやっていた。聡明で、懸命に働き、とても規律正しい、品行方正といった生活を送っていたのだ。僕は彼が柄にない、あるいは見た目とは違う人間である事を暗示するような振る舞いをするところを一度も見た事がなかった。たしかに、彼は尊大だったが、それは問題が違った。

僕は子供の頃、たいていは兄のガスと一緒に、ピートの家で多くの時間を過ごしてきた。彼にこの種の犯罪を犯しそうな気配など、感じた事もなかった。だが、様々な事について考え、そして僕の幼年時代の経験を再検討してみると、何らかの危険信号が見えてきた。ピートは常に少年たちに囲まれていた。仕事場でも、 クレーマー・クラブでも、あるいは彼の自宅でも。彼は時々、マンモス・マウンテンへのスキー・ツアーを実施した。僕は一度そのツアーに参加したが、全員が少年だった。だが同時に、それは年長の少年たちも一緒の好ましい構成だった―――彼らは性的な略奪者に対する守護者となっていたのだ。

僕の両親はピートを信頼していた。そして金銭の問題で袂を分かつまで、彼との関係を傷つけるような不穏当な事は、何も起こらなかった。1つの事は確かだった―――僕は常に、ピートにとって特別の存在だったのだ。彼は僕を、他の子供とは違う目で見ていたのだと思う。そして多分それが、彼が持っていたかも知れない衝動を抑えていたのだろう。同じく、僕の父がいた。父はテニスのコーチではないにしても、親としての分別があり、いつもそばにいた。フィッシャーが不穏当な事を試みるには、非常に危険だっただろう。

フィッシャーが逮捕された頃には、彼は僕の生活から離れて久しかった。彼に電話をかける義務があるとは感じなかった。そしてヨーロッパから戻るまで、彼には会わなかった。だが父は時おりピートと話をし、彼を味方した。それはフィッシャーが我々の家族に、そして僕のキャリアに果たしてきた役割に対する、純粋な誠意ゆえだと思う。父はそれを本当に感謝していたのだ。さらに、スキャンダルが発覚した時、ピートは僕の家族に支えを求めた。彼は断固として無実を主張した。そして父は彼の有罪が立証されるまで、無実であるとして対応した。

アメリカに戻ると、家族は僕に、フィッシャーが僕と会って状況を説明したがっていると告げた。僕は気が進まないながらも承諾して、トーランスの「ミミのカフェ」で昼食を共にしようとピートに提案した。会合は居心地が悪かった。僕は告訴を信じたくなかったが、同じく彼の目を直視して、真実を話すよう要求する勇気もなかった。彼の話す事はすべて、告訴が虚偽であるとほのめかしていた。だがランチの間、彼の振る舞いには違和感があった。

彼はくつろいでくると、最近マンモスへドライブしていた時に「聖母マリア」を感じたと語った―――新約聖書のマリア、イエスの母親を意味していたのだろう。これは妙な事だった。ピートはユダヤ人であり、明白な無神論者でもあったからだ―――彼ほど合理主義で、白黒をはっきりさせる男はいないだろう。同じくらい注意を引いたのは、彼が気持ちを打ち明けている事だった。以前には決してなかった事だったのだ。このすべてに関して、僕はどう対応すべきか分からなかった。

ピートが今でも僕の生活に関わっていたら、僕は彼が無罪であるというもっと明確な保証を必要としただろう。だが、僕は彼に一定の援助をする責任があるとは感じたが、それは過去の関係からくるものでしかなかった。僕は友人として彼を援助した。若干の金を貸す事もした(後になって彼は返済したが)。彼は裁判の前に数回、我々の家を訪れて夕食を共にした。だがその頃には、僕はロードに戻って大会に出場していた。だから僕の家族が、状況の矢おもてに立たなければならなかった。ありがたい事に、マスコミはスキャンダルを大きく取り上げなかった。僕はその件にまったく関係していなかったし、どんな類であれフィッシャーと関わりのあった時代からは、長い年月が経っていたのだ。

これだけは確かだった。ピートの人生は破滅し、多くの友人を失ったのだった。僕の両親も兄弟も、事件についてほとんど話をしなかった。裁判が近づき、彼の運命がきわどい瀬戸ぎわにある暗い時期を通して、我々は言わばただピートを支えていた。告訴のショックが薄らいでくると、フィッシャーならではの尊大さが戻りつつあった。裁判が始まると、父は何日か傍聴しに行った。僕は父の態度に敬服していた。父はフィッシャーと縁を切り、成り行きに任せる事もできた筈だからだ。

裁判は刑期を6年に減じるという司法取引をピートが受け入れて終了した。その後、4年の刑期を勤めた時点で彼は釈放された。フィッシャーは父に、「ノーウォーク(裁判が行われたカリフォルニア州の場所)の12人の陪審員」に自分の運命を委ねたくなかったから、司法取引に応じたのだと語った。そんな保守的な土地で公正な裁判を受けられるとは思わない、と言いたかったのだろう。自分は無実だと主張し、有罪が決定した場合は失うものが非常に多い男がとるにしては、妙な手段だった。厳しい刑期を送る事に加えて、彼は医師の開業資格を失い、市民の告訴を受け入れた事になるのだ。有罪の訴えは有罪判決とまさに同じくらい、彼が築いてきた人生を事実上破壊した。唯一の違いは、勤める刑期の長さだけだった。

フィッシャーは刑務所に入る直前、我々の家で少し時を過ごした。彼の婚約者はまだ関わっていたが、やがて縁を切る事となった。彼は刑務所について、むしろ嬉々とした様子で語った。フランス語を学ぶつもりだとか、視野を広げる事に時間を使うとか、馬鹿げた事を話していた。一方で我々は考えていた。ピート、真実が何であれ、あなたは刑務所に入るのだ。あなたの人生は破滅だ。恐ろしい事になろうとしている。どうしてそんな態度を取れるんだ? 

フィッシャーは刑務所に入ってから、僕に手紙を書くようになった。長くて散漫な文書の筆跡は、ほとんど読み取れなかった。手紙は僕の試合を見た後に、よく書かれた。僕はその何通か、あるいは一部を読んだ。彼はお愛想を書き連ねていた。僕は人々にレーバーの存在を忘れさせるだろうと繰り返し、かつて彼が言っていたのと同じ事を書いていたのだった。


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