第7章 1996年
戦士の時(3)


ローマ大会が迫っていたが、僕にはティムを悼む時間が必要だったので棄権した。僕はフレンチ・オープンの前に少し試合経験を積むため、ワールド・チームカップ大会にのみ出場した。そこでは2試合に負けた。1試合はボーダン・ユリラッハに、もう1試合はエフゲニー・カフェルニコフに。したがってその年は、クレーコートの試合で1勝もせずにフレンチ・オープンに臨んだのだった。一方パリにおける僕のライバル達は、バルセロナからモンテカルロ、ローマ、ハンブルグまで、ヨーロッパ・クレーコート・サーキットのすべてで戦っていた。

ローラン・ギャロスのドローが発表されると、僕はそれを見て「うわぁ」と言うしかなかった。それは考えうる最もタフなドローだったのだ。予定通りに進めば、まずは2回戦で2度の優勝者セルジ・ブルゲラから始まって、僕は最近2人のフレンチ・オープン・チャンピオンと対戦する事になっていた。調子を上げるべき時だった。それが、ティムが僕に望んだであろう事だと分かっていた。ブルゲラは優れたディフェンダーであり、どんなボールにも追いついて捕らえる事ができたが、ポールは僕に、攻撃して彼にプレッシャーをかけるよう望んだ。

パリっ子は目の肥えたテニスファンで、鋭い審美眼の持ち主だ。彼らは粋な、大胆な、あるいは派手なプレーヤーが好きだ。彼らはサーブ&ボレー・プレーヤーで、どちらかと言えば滑らかで優雅なゲームをする僕が、究極のクレーコート・タイトル―――そしてその時点で、僕が得ていない唯一のグランドスラム―――を獲得するとしたら、それは大きな偉業になると理解していた。だが重要な事には、彼らは僕がティムを失ったばかりだと承知していた。僕への彼らの同情は明白だった。有名な日刊スポーツ紙「レキップ」を筆頭とするフランスの新聞・雑誌は、いたる所にその話を書きたてていた。ティムは亡くなったばかりだったが、あらゆる広報や果てしない質問のため、彼は病気になる以前よりも、僕の心の中でいっそう生き生きとした存在になっていた。

気遣い、敬意、励ましといった感情の発露に勇気づけられて、僕は第5セット6-3でブルゲラを破った。ティムは僕が攻撃し、プレッシャーをかけ続けたやり方を誇らしく感じてくれただろう。僕は試合の間じゅう堂々と振る舞い、苦しい局面でも自分をプッシュし、ティム―――そしてフランスの観客―――の存在を感じていた。次のラウンドでは、友人でありデビスカップのダブルスパートナー、トッド・マーチンを下した。そして4回戦では少しばかり運を得て、オーストラリアのスコット・ドレーパーと当たった―――オーストラリアの攻撃的選手は、クレーではヨーロッパの粘り強いストローカーのような問題を引き起こさなかったからだ。

だが準々決勝では、ジム・クーリエと対戦する事になった。彼はクレーでのプレーが非常に巧みだったのだ。特にパリのクレーでは。彼はローラン・ギャロスで2度の優勝を遂げており、そこでは5年間にわたって支配的な存在だった。僕は最初の2セットを失った。それは相手の質の高さを考えると、自殺的な事だった。だが僕は奇妙にも自信と冷静さを感じていた。ティムが肩越しに僕を見守り、問題ない、すべては上手く行くよと語りかけていたのだ。そして実際に、僕はボールを上手く打っており、ポイントの主導権を握る立場にいた。僕は彼とバックハンド同士のラリーをしていた。それはジムと対戦する時のカギだった。彼はフォアハンドで主導権を握るのが好きだったからだ。僕は彼にプレーでは優っていると感じていたが、そこここで何本かボレーをミスして、ポイントを上手く決められなかったのだ。

それが第3、第4セットでは変化した。僕は効果的にポイントを終えるようになり、他のすべても上手く運びだした。間もなく、僕は試合を支配するようになっていた。同時に、肉体的なツケも感じ始めてはいたが。だが感情とインスピレーションが僕に難局を切り抜けさせた。試合に勝った後、僕は記者会見で、ティムが見守り僕を助けてくれたように感じるというような事を語った。僕はそれを事実として述べたのだが、進展する物語に加えられる事となった。ジムを下した事により、僕はエフゲニー・カフェルニコフとの準決勝に進出した。そして自分には勝ち目があると感じていた。大いにそう感じていた。

だが準決勝を戦う前の48時間の間に、奇妙な事が起こった。ものすごく―――信じられないほど強く―――脂っこいものが食べたくなったのだ。いわゆるチーズバーガー、大きなピザ、あるいは卵2個の目玉焼きでも何でも、食べたくてたまらなくなったのだ。2晩の間、よく眠れないほどその願望は強かった。本当に奇異な事だった。思い返してみると、唯一の論理的な答えは、僕の食事には何らかの重大なものが欠けていたという事だった―――恐らくは脂肪分が。1週間半にわたって強烈な太陽の下で汗をかき、タフマッチで失っていた何かを補充する必要があったのかも知れない。塩分も不足していたのだろう。僕はウルトラマラソンのランナーで、20マイルの所で立ち止まってハンバーガーやピザをむさぼるように食べる男を知っている。彼は身体が必要としているから、そうするのだと僕に語った。思い返せば、僕はパリでピザハットを探し出して、脂っこいパイを食べるべきだったのだ。

だが、規律正しい僕としては、我慢してしまったのだ。僕はコーヒーも1杯に制限するまでの、プレーに適した典型的で健康に良い食事を守っていた。それから大会会場へ行き、練習をした。試合が午後の遅くに組まれていたら、サンドウィッチ(通常は七面鳥)を食べ、恐らくバナナも食べていただろう。日中はそれが通常の食事で、夕食には軽いパスタと、チキンを添える事もあった。

金曜日が巡ってきて、僕は準決勝の第1試合に予定されていた。パリで準決勝の第1試合を戦うのはやりにくいものだ。パリの観客は出足が遅いのだ。特に、企業が押さえている特別席の観客は。フランス人は、通常少なくとも6時間のセンターコート・プログラムのうち、最初の1〜2時間をも見そこねないようにと、企業がもてなす長い、豪華なランチを放棄したりはしない。したがってパリでは、グランドスラムの準決勝を戦っていても、インディアナポリスかリヨンで2回戦のデイマッチをしているような雰囲気なのだ。そのような状況でグランドスラム決勝戦進出を懸けて戦うのは、意気阻喪するものだ。

スケジュールの結果は、僕が困難を切り抜けるだけの盛大な雰囲気がなかったという事だった。企業に招待された観客が関心を持ち始める(通常は準々決勝から)頃には、早いラウンドを観戦しにきていた真剣な、そして情熱的なファンは少なくなっている。盛り上がりに欠ける雰囲気は、僕を面食らわせた。そしてコンディションもまた。暑かったのだ。太陽は雲一つない空で燃え上がり、そよとの微風もなかった。もちろん、速い、日光で焼けたコートは僕のゲームにプラスとなるだろう。だが熱気はまた、長いクレーコートの難行で僕を消耗させる事もあり得た。

結局のところ、僕はスタミナの心配をする必要もなかった。スタート時、僕はサーブの調子も良く、攻撃の端緒を選び、フォアハンドを上手く利用して行動を起こした。カフェルニコフは僕を苦にする事もなく、試合に踏み止まっていた。最初のセットはタイブレークまで行き、競り合いはしたが僕はそれを失った―――理論的には、大した問題ではなかった。それから、すべてが崩壊した。次のセットで僕は1ゲームも取れず、第3セットも2ゲーム取れただけだった。飛び抜けて最も当惑する、そして嘆かわしいグランドスラムの敗戦だった。しかもそれは大試合で硬くなりがち―――とりわけ僕に対して―――な男に対してだったのだ。

なぜこんな事になったのか、今でも僕はきちんと説明する事ができない。ただもう予想もつかなかった肉体的・精神的な疲れのピークに達していたのだ。僕にはもっと良いプレーをする力がなかった。それは食事と関係があったのだと思う。そう考えれば、脂っこい食べ物への奇妙な渇望―――と抑制―――を説明する一助となるだろう。理由が何であれ、僕には何も残っていなかった。そしてゲームが脇を転がるように過ぎていくにつれ、僕はその事を知った。それは本当にひどい気分だった。特に2万人からの人々にライブで見られ、さらに何百万もの人々がテレビで見ていたのだから。ことに、口にはしなかったが、進行中の物語では、ティムのために勝つという僕の真剣な願いが、構想の重要な部分だったのだから。僕は足にも、頭にも、どこにも何も残っていなかった。そして安楽死がついに終わった時には、さらにひどい気分になっただけだった。僕はかつてないほど空っぽだった。まったくもって消耗し尽くしたように感じていた。

僕はただ呆然としていた。心の奥底で、今年のフレンチ・オープンは僕の番だと感じていた。その思いはティムを喪った事と強く結びついていた。そうなる筈だと考えていた。特に、2人の錚々たる元チャンピオンを破った後には。大会の間じゅう、僕はティムがまだ生きているように感じていた。ティムと僕とでフレンチに優勝するつもりでいた―――難関を乗り越えてウィンブルドンで優勝したように、チームとしてのさらなる成果にするつもりだった。ローラン・ギャロスの試合中に、頭の中で彼とこういった会話を交わす事さえしていたのだ。それは僕が試合を切り抜ける助けとなった。

だが、カフェルニコフ戦の最中には、徹底的な、深い静寂以外は何もなかった。試合中は考えなかったが、恐らくティムを離すまいとする僕の試み、彼を生かし続ける事ができるという僕の夢想は期限が切れ、だから静寂しか存在しなかったのだと思う。ティムの葬儀に参列したにも関わらず、彼がいなくなったという事実に、僕は本当の意味で立ち向かっていなかった、あるいは受け入れていなかったのだ。2つの試合はあまりにも間近く、僕は衝撃的に現実を認識した。

カフェルニコフ戦で疲労のピークに達した時、そして僕の夢―――我々の夢―――が完全に破れて面目を失ったと感じた時、その事が深く胸にしみ込んだ。ティムは死んでしまった。我々の夢は過ぎ去ってしまったのだ。永遠に、と。


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