第7章 1996年
戦士の時(8)


グランドスラム・シーズンは紆余曲折の末に終わったが、1996年にはさらにもう1つ、最後の見せ場があった:1年を締めくくる大会、 ATP 世界選手権の決勝戦におけるボリス・ベッカーとの対戦だった。その時までに、ボリスと僕の間には多くの歴史があり、互いに敬意を抱いていた。さて、僕は室内で、しかもドイツのハノーバーで、彼を敬愛するドイツの大群衆を前にして、彼と対戦しなければならなかった。この情況はボリスを鼓舞するだろう、僕はそれを承知していた。我々のゲームは似通っていて、僕の方がほんの少しだけ上回っていると感じていたが、同時に、もし彼がホームコートで調子の波に乗れば、僕を打ち負かす事ができるとも承知していた。

その夜のハノーバーの雰囲気は、電気が走るような緊迫感があった。外はひどく寒かったが、競技場内は煌々と照明が輝き、暖かかった。会場には満員のファンがつめかけ、期待でざわめいていた。その大会と会場の特色で楽しかったのは、選手を紹介する方法だった。大半の大会のように直接トンネルからコートへと登場するのではなく、我々は一緒にアリーナのいちばん高い所(1階)から、掘り下げたコートへと降りていった。チケットを持つ観客がコートサイド席へ向かうように、同じ階段を降りていったのだ。

会場全体は暗く、我々だけにスポットライトが当てられていた。ボリスと僕がコートへと降りていく間じゅう、両側のファンは金切り声を上げていた。群衆のどよめきは耳をつんざくようだった。僕はその場を支配する熱狂に、鳥肌が立つほどだった。これはまさに、2人のヘビー級ボクサーが群衆をかき分けてリングへと向かい、タイトルマッチを闘うかのようだと考えていた。至るところでカメラのフラッシュが焚かれ、群衆は押し合いへし合いしていた。

ボリスは初めからリターンが冴えていた。それは彼にとって、常に重大なファクターだったのだ。そしてサーブにはキレがあった。僕はすぐに、今夜は非常にタフな、長い夜になるだろうと知った。だが僕のサーブも好調だった。速い室内カーペットがボリスにとって理想的だとすれば(ほら、我々はドイツにいたのだ)、それは僕にも同じく適していた。ボリスは僕をブレークして第1セットをものにした。タイブレークでとはいえ、僕は次の2セットを取って、かろうじて大惨事をまぬがれた。その事は、彼の士気をくじいていたに違いない。彼は僕のサービスゲームをブレークし、僕は彼のサービスゲームをブレークしていなかったのに、それでもなお彼は1セットダウンだったのだから。

同じ理由で、1セットのリードは僕にとって大きな意味を持つとは言いがたかった。はたして彼をブレークできるのだろうか?と考えていたのだ。もしタイブレークでの幸運が向こうへ行ったら? だが第4セットが進むにつれて、僕にチャンスの芽が見えてきた。試合のカギはまさにそこ、僕の手元にあるという感じを得ていた。何本か良いショットが重なれば、ブレークできるだろう。だがボリスは僕を寄せつけず、第4セットのタイブレークに突入するまで、断固としてサービスゲームをキープしていった。そして彼がタイブレークを取って第5セットに持ち込むと、会場は沸き返った。まるで火山のように、猛烈なガラガラ声の声援がどっと噴出していた:ボーリス、ボーリス、ボーリス………と。

我々は第5セットに入った。そして状況は、精神的に僕を追いつめ始めていた。僕はまだサービスブレークを果たしておらず、今やスコアは互角だったのだ。我々は前と同じように続けていた―――双方とも4-4までサービスをキープし合っていた。その時点で、僕の側にほんの毛すじほどドアが開いた。僕は彼のサーブでブレークポイントを掴み、そして彼はビッグショットで応えた―――僕のバックハンドに強烈なサーブを放ったのだ。だが僕は完璧にそれを捕らえ、ライン沿いに打ち返し、そしてウィナーとなった―――初のブレークだった。次のゲームでマッチポイントに達し、我々は素晴らしい、長いポイントを戦った。アンドレとの1995年USオープン決勝戦を思い出させるようなポイントだった。最後にボリスがバックハンドをミスして、そして試合も終わったのだった。

我々はネット際で長い抱擁を交わし、短いねぎらいの言葉を交わした。その時点では、2人とも呼吸はまだ荒く、息を切らしていた。肉体的に言って、これまででも最も苛酷できつい試合の1つだった。それがボリスとの戦いだった―――彼は常に手荒く攻め、たいていの選手は肉体的に持ち堪えられなかったのだ。ドイツのファンは素晴らしかった―――試合を気に入ってくれたのだと思う。彼らは1990年代を支配した偉大な選手の2人が同時に、盛り上がった雰囲気の中で非常に高いレベルのパワーテニスをするところを見たのだ。そして、(ボリスが負けたために)少しばかり期待はずれの結果だったとはいえ、卓越した試合を見たのだ。

僕は数年後に DVD でその試合を見たが、記憶していた通りに優れた、そしてエキサイティングな対戦だと感じた。それは叙事詩的な戦いであり、スポーツマンシップと、僕が思うにゲームに対する敬意の魅力的な輝きに満ちた、激しく大胆な戦いだった。僕のキャリアにおけるピークの瞬間だった。ドイツと合衆国の人々は、今でもその試合について僕に話しかけたり、会話の中で言及する。僕がこれまでプレーしてきた中で、最高の試合に最も近いものだったのかも知れない―――出来ばえという点だけでなく、並はずれたテニスの場面という例としても。

試合が終わると、僕は特別な楽しみを味わう事にした。ポール・アナコーンを誘ってプライベート・ジェットでハノーバーからロンドンまで飛び、次にコンコルドで JFK 空港へと向かったのだ。その当時、僕はプライベート・ジェットの共同利用契約をしており、自分用の飛行機がニューヨークで待機していた。それが僕を直接タンパまで運んでくれた。僕への褒美は素早く、そして快適に帰宅する事だったのだ。


戻る