第7章 1996年
戦士の時(4)


ティムの死によって、何か良い事があったとすれば、ポールからついに「仮のコーチ」というラベルが外れ、僕のフルタイムのコーチとして続けていく事だった。ティムの人生が終わろうとしていた頃、我々はその問題について話し合い、彼はその仕事を受け入れてくれたのだ。

ポールは興味深いゲームを持つ、堅実で巧みなプロだった。彼の動きはさほど優れたものではなく、グラウンドストロークには問題があった。練習パートナーを調達しなければならない事について、僕はいつも彼をからかっていた。彼は僕の練習に充分なだけのグラウンドストロークを続ける事ができなかったからだ。だがポールはゲームに対する優れた感覚と、見事なサーブ、素晴らしいボレーを持っていた。

彼はチップ&チャージ・プレーヤーとして「カミカゼ」テニスを得意とし、その才覚を働かせてツアーを生き抜いてきた。相手が良いリターンとパッシングショットを放つよりも、自分がネットに詰めてより多くボレーをできるという事に賭けていたのだ。そのテクニックの実行は簡単ではなかった。運の悪い日には、いわば馬に乗った騎兵隊が戦車大隊に突撃するような、まったくの愚か者にさえ見えうるのだ。彼はそのスタイルの、最後の優れた専門家の1人だった。

チップ&チャージ・テニスが上手くいく時は、注目に値する大胆でエキサイティングなものだった。途轍もないプレッシャーを生み出し、相手を非常に居心地悪くした。どんな大会ででも、ステイバックする動きの良い、あるいは堅実なグラウンドストロークを持つ者に6-3、6-3で打ち負ける事よりも、多大なリスクを冒す男を警戒しなければならなかったのだ。ポールは3つのシングルス・タイトル、1つのダブルス・メジャータイトル(オーストラリアン・オープン、クリスト・ バン・レンズバーグとのペア)を獲得した。そしてシングルで最高12位まで達した。

僕はティムが見守る中で選手として最後の大きな進歩を遂げ、そして少年から大人の男へと成長してきた。僕がポールに求めたのは、仲間でありアドバイザー、僕自身と僕のゲームを理解し、さらに他の選手とその長所・短所を理解する対等な存在だった。ティムが(とりわけ)僕のテクニックに最後のみがきをかけたとすれば、ポールは戦略に焦点を合わせ、僕が自分の武器を効果的に生かし、対戦相手の武器を無力化するベストの方法を見つけ出す手助けをしてくれた。

ポールは僕のコーチとして、それに値する評価を受ける事はなかった。彼がコーチの座に就いた時、すでに僕はかなりのレベルでプレーしていたからだ。ポールがすべき事は僕のラケットをストリンガーに受け渡しし、僕に試合前のウォームアップをさせ、マスコミとの仲介役を務め、夕食や飛行機の予約が予定通りか確認する事だと考える者もいた。だが僕は確かに、それ以上の事を彼に求め―――そして得ていた。まず第一に、彼が自分の役割に対処する方法を始めとして。ポールはメディアとの対応が非常に巧みだった。彼はメディアに対してオープンで、彼らの仕事を理解していた。だが自身の発言にうぬぼれる事はなく、そして常に、僕に対する影響力を控えめに語った。彼は自分の存在感を誇張するタイプの男ではなかったのだ。記者はポールが好きで、尊敬していた。その事は同時に、僕とメディアとの関係をも良好にしてくれた。

ポールは人それぞれ、その人に適したやり方で遇される必要があると承知していた。彼なら僕をコーチする事もできるし、アンドレをコーチする事もできただろう。彼は人の性格や気質を見抜き、僕に何を伝える必要があるか、それをどのように言うべきかを知っていた。それは非常に大きい―――繰り返そう、非常に大きい―――優秀なコーチの資質なのだ。コーチは相手を理解して、相手にとって快適な領域の中で働かなければならない。彼を変える、あるいは自分が望む姿に合わせるという誘惑を退けて―――たとえその変化は有益だと承知していても。彼の「患者の扱い方」は素晴らしかった。

ポールは伝える事をたくさん持っていたが、多くを語る必要はなかった。慎重に言葉を選び、決して物事を過剰に込み入らせる事がなかった。彼は性格を見抜き、僕が自分のテニスについてあれこれ話すのは好まないという事を素早く理解した―――僕はどちらかと言えば、ゲームについて独占欲が強かったのだ。彼はまた、僕は物事を必要以上に大げさに考えるのを好まないという事も承知していた。彼も同意見だったからでもある。

ティムが闘病していた間、ポールが表面に出ないでいる事は難しかった。単純な理由として、メディアはいつも彼を追いかけて話をしたからだ。そしてポールはティムを影の薄い存在にする事を望んでいなかった。彼にとってさらに厳しかったのは、ティムを尊重して、僕のコーチングに躊躇する事だったかも知れない。ポールは僕のゲームについて彼なりの考えを持っていたが、ティムとの対立を避けるよう気を使っていた。彼はティムに対しても、そして僕に対しても、この上なく誠実だった。彼はその信条を貫き通した。

ポールは素晴らしい戦略家だった。もっとも、僕はしばしば彼の強調する攻撃的テニスに抵抗したが。それは僕が自分のオールコート技能に多大な矜持を持っていたからだ。ポールは常に、僕がどのようにポイントを失うか意識するよう望んだ―――試合の後だけでなく、試合中も(戦いの最中にそれをするのは、とても難しい事もある)。彼はその自覚が、僕にいっそう効果的で攻撃的なプレーをするよう仕向けるだろうと考えていたのだと思う。

ティムは僕のゲームについて卓見を持っていた。ポールは僕が倒さねばならない男のゲームについて、卓見を持っていた。様々な選手が提出する問題に対して、彼の戦略的な解決法は洞察の宝庫だった。シンプルかつ巧妙な、注目すべきコンビネーションだった。彼が示唆する、あるいは言う事は、自分の額をピシャリと打って、なぜ僕はそれを考えつかなかったのか?と思わせるようなものだった。

例えばアンドレ・アガシに対しては、ポールは僕がアンドレのフォアハンド側にプレーすべきだと感じていた―――バックハンド側を空けるためにフォアハンドを攻めるのだ。実際、それはアンドレを倒すための鍵だった。だが彼のフォアハンドに働きかけるためには、彼のバックハンドを威嚇しなければならなかった―――そちらの側を弱めなければならなかった。したがってポールは常に、僕がバックのアドサイドにワイドのサーブを打って試合を始めるよう望んだ。そうすればアンドレに、そちら側の守備について考えさせ、センターへのサーブに対して空きが出来るだろう。何よりも重要なのは、アンドレに得意な戦略―――威圧的なリターンを叩き込む事でコートの中央近くに陣取り、フォアハンドで主導権を握る―――を使わせない事だった。

ポールはまた、僕にチップ&チャージをもっと使わせようとした。4オールの場面だけでなく、1オールの場面でも。アンドレの凄まじいパッシングショットに対してさえも。質の高いパサーに対して、ビッグポイントでチップ&チャージを敢行するのは無駄だとポールは考えていた。しかしアンドレの頭にその種を植えつけ、僕は時を選ばず攻撃してくるかも知れないと彼に思わせる事を望んだのだ。これは誰と対戦するかに関わらず、繰り返しテーマとなった。彼は基本的に「相手に君はピート・サンプラスだ、そして思うままに攻撃できるぞという事を見せつけてやれ」と言ったのだ。

僕は相手の得意とするゲームで、その相手を打ち負かす事にいささかの喜びを感じていた―――バックコートから、ベースラインの粘り屋を圧倒するといった類の事だ。時にそれはポールを怒り狂わせた。そうする事で、僕自身の状況が必要以上に厳しくなる時もあったからだ。僕がそういった長いラリーにはまり込み、試合に負けたような時、後でポールは言ったものだった。「いいかい、君はきわめて調子良さそうに―――負けた」

それは僕が「お粗末な」プレーをした、という父の物言いと正確に同じではなかったが、僕はそのコメントに非難が込められているのを感じた。僕は調子良さそうに………負けた。鍵は「調子良さそう」ではなく、「負けた」だった。彼はその言葉を意図的に使った。コーチング関係の早期に、僕はポールに告げてあったのだ。「口当たりの良い物言いをしないでくれ。僕に対して正直であらねばならないよ」と。彼はそうした。だが彼ならではの方法で。それは常に、僕の気分を悪くするよりも、僕に考えさせる事を意図してのものだった。

ポールはすべての対戦相手に対して、僕が明快な「ビッグゲーム」を確立するよう激励したが、なおかつ僕が予測可能なプレーヤーにならないでいる事を断固として主張した。したがって時には、機械的にサーブ&ボレーをプレーする事と、戦術を取り混ぜる事の間に、適切なラインを見つける事が必要だった。ポールは僕に、タフで低い確率のショット、例えばバックハンド・ダウン・ザ・ラインを確固たるものにするよう望んだ(クロスコートを狙う方がより安全で容易だ。中央はネットが低いからでもある)。僕なら技術的には充分できる筈だと彼は考えていたのだ。彼はまたセカンドサーブの質からいって、僕にセカンドサーブでももっとサーブ&ボレーをするよう望んだ。

芝生のコートでは、僕の勝利の鍵はセカンドサーブのリターンにあるとポールは考えていた。ゴラン・イワニセビッチ、あるいはリチャード・クライチェクのような男に対しては、特にその事を強調した。彼はよく言ったものだった。「もし君が彼のセカンドサーブを上手くリターンすれば、彼が何本エースを打とうが、君は彼を打ち負かすだろう。彼を徐々に疲れさせるのだ。もしゴランが1ゲームで3連続エースを打つなら、それでいい。それは忘れて、前進あるのみだ。落胆しないで、ただセカンドサーブを待ち続けるんだ。それは必ずやって来て、君にチャンスの芽をくれるから」

ポールは僕にその事を非常に強く印象づけたため、しばらくすると、僕はウィンブルドンでセカンドサーブを見ると、 ウァオ、これだ―――と、宝くじの当たり券を見ているような気持ちになった。そしてセカンドサーブを攻撃し、しばしば素晴らしい結果を得たのだった。僕は安全にプレーしたいという誘惑を克服した。それは同じく、大きなチャンスをフイにするかも知れないという恐れをも克服した事を意味するのだ。

自分自身のサービスゲームでは、ポールは僕にできる限り激しく、できる限り頻繁にサーブを叩きつけるよう望んだ。これはティムの遺産の1つ、例の「グリーンベイ・パッカーズ・パワースウィープ」論だったと思う。40 - 0でのサーブでは、1ポイントを落としても差し支えない。だがポールはラブゲームで勝つ事を強調した。サーブが良ければ良いほど、相手にいっそうのプレッシャーを掛ける事になる、と彼は理を説いたのだ。多少のエラーをしても余裕がある状況でさえ、彼は僕がずさんなダブルフォールトや打ちそこないのボレーを排除するよう強く望んだ。そして彼は正しかったのだ。ゴラン、クライチェク、あるいはミハエル・シュティッヒが40 - 0として、そこから簡単にサービスゲームをキープすると、僕はこう思うだろうからだ。ちぇっ、この男はタフだ。僕はあのサービスゲームで手掛かりさえ得られず、あっという間に終わってしまった。僕もサービスゲームをしっかりキープしなければ、と

我々は大会中に、予想される対戦相手について型どおりの分析をする事はめったになかった。1回だけ、実際に試合のテープを見た事を覚えている―――それは2000年のウィンブルドンで、予想外の準決勝進出を果たしたウラジミール・ボルチコフと対戦する前の事だった。我々のどちらも、相手のゲームがどんなものかは言うまでもなく、その男が左利きなのか右利きなのかさえ知らなかったからだ。我々は、いわゆる戦略会議といったものは行わなかった。僕はもし何か頭にあったら、夕食の席か練習セッションの後にそれを持ち出した。ポールがどんな事を言うか知るためだった。対戦相手が僕に対して何をしてくると思うか、時にはポールに尋ねる事もあった。そして彼は、そういった予測にとても長けていた。

ティム・ガリクソンは常に、僕が毅然として、対戦相手に弱みを見せないよう望んだ。だがポールはさらに一歩それを進めて、僕が少しばかり尊大である事を好んだ―――つまり、僕はピート・サンプラスで、君は違うという態度をとる事だ。彼は僕が控えめすぎ、大人しすぎると感じていたのだ。彼は「相手の男たちは君を恐れている。だから君はその事を承知して、それを利用する必要がある」とよく言った。彼は正しかった。僕はコートへ出るに際して、決して誰も恐れなかった。だが同時に、自分の評判や存在感をいつもフルに利用するわけでもなかった。

その問題に関しては、どちらの方法をとる事もできた。押しが強いというのは、自分らしくなかった。そして意識的に自分のイメージを強めようとするのは、心地よくなかった。自分自身を誤って伝えるのは気が進まなかった。傲慢だと受け止められるのも望まなかった。同じく、控えめでいる事には明らかな価値があるとも感じていた。対戦相手を神経質にし、彼らが僕を見て、何を考えているのだろうと思わせる事ができる、と。ボリス・ベッカーのような男が、生来の支配者然とした雰囲気でコートをゆったり歩くと、おそらく相手に彼を倒そうとするモチベーションを与えただろう。相手を脅しつけるのは気が進まなかったが、僕の考えでは、彼らを神経質にするのも同じくらい価値がある筈だった。

加うるに、もし僕が世界を支配しているように振る舞わなければ、それだけ僕は自分が世界を支配しているとは考えないだろう。それは僕にとって重要な事だった。というのは、ポールがフルタイム・コーチとなる頃までには、新聞・雑誌の記事で自分を慢心させる事が、大いに警戒すべき事の1つとなっていたからだ。僕は毎週毎週、出場するどんな大会ででも、特別な待遇を受けていた。まるでそれが本当に重要な事であるかのように。僕は何事をも、当然だとは受け止めなかった。自分自身を証明しなければならないのだと感じていた。実際にそれを楽しみはした。恐らくそれが、勝利した時に何らかのポジティブな気分を増強する事になったからだろう。僕とて、誰かを倒した後に何も感じなかった訳ではないのだ。

もちろん、典型的なプロの日常に少し疲れたり、うんざりする時期もあった。だからポールに、もし僕がなまけていると思ったら、厳しい態度をとるよう望んだ。キャリアの中で僕は何回か停滞期に達して、安直な方法をとり始める事があった。そういう事はどうしても起こるのだ。時には惰性で進む必要もある。ポールはそういった状態の時を見極めて、僕に注意を促してくれた。チャンピオンの精神を知る事は、必ずしも容易ではないが、彼は僕の心を知っていたのだ。

先ほども言ったように、ポールは正当な評価を受ける事がなかった。だがつまるところ、彼が僕のために何をしてくれたかを僕は知っている。僕は14のグランドスラム・タイトルのうち10を、彼と共に獲得したのだ(訳注:9ではないか?)。そして僕のキャリアで最も辛く困難ないくつかの時期に、彼は揺るぎない援助の手を差しのべて、僕を導いてくれたのだった。


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