第1章 1971〜1986年
テニス・キッド(1)


自分が何者なのか、何を求めているのか、テニス選手になるのにそれを最初から知る必要があるのかはよく分からない。選手は各々のやり方でその目的に到達してきた。だが僕、僕は知っていた。ほぼ最初の日から、自分がテニスをするために生まれてきたのだと分かった。必須条件ではないかも知れないが、自分が何者か、そして何を求めているのか――コンサートホールでバイオリンを弾く事であれ、あるいは素晴らしい超高層ビルを建てる事であれ――を知っていると、目標へ向かって早いスタートを切る事ができる。

僕は1971年8月12日にメリーランド州ポトマックで生まれた。4人兄弟の3番目だった。兄のガスは4歳上、姉のステラ――兄弟の中でもう1人のシリアス・テニスプレーヤー――は2歳上で、末っ子が妹のマリオンだ。

父のサムはギリシャ系だ。僕が生まれた頃、父は国防省の機械エンジニアとしてワシントン D.C. で働いていた。妻のジョージア、4人の子供を抱えて、バージニア州マクリーン郊外にあるマクリーン・レストラン&デリカテッセンの共同経営者――3人の義兄弟と共に――でもあった。本格的ギリシャ料理店ではなかったが、僕の一族はギリシャ風のセンスと食物を提供し、経営はとても順調だった。

僕はポトマックでの暮らしをほとんど覚えていないが、古いテニスラケットを手に入れて、最高のおもちゃか何かのように夢中になったのは覚えている。硬いものなら何にでも、ボールを打ち込んでいた。たいていは近くにあるコインランドリーのコンクリート製外壁だった。やがて僕はコートが何面かある地元の公園へ行くようになり、1〜2回レッスンを受けた。僕はただもう虜になった。だが僕がテニスに惹かれたのには理由があったと思う。タイガー・ウッズがゴルフクラブを手に取り、ウェイン・グレツキーがホッケー・スティックを手にしたのと同じように。

父はポトマックの公園で見知らぬ人から「あなたの息子さん――彼はテニスにとても向いているようだ」と言われたそうだ。父はそれを真面目に受け止めたのだろう。父は大のスポーツファンという訳ではなく、一族にもテニスとの関わりはなかったのだが。僕たちはギリシャ系アメリカ人で、いろいろな意味で祖国と深く結びついていた。西洋にはクロアチアやスウェーデンのように、テニスの伝統に恵まれた小国が幾つか存在する。だがギリシャはそういった国ではない。文化的にテニスは全くもって無縁だった。

父はテニスについて何も知らなかった。だから僕が興味を示すまで、テニスをさせようとは考えていなかった。父はテニスの現場にもまったく通じていなかった。それは限られた世界で、おおむねは何世代にもわたってゲームに関わってきた一族の人々で構成されている。だが父は僕に顕著な運動の素質があると気付いた。よちよち歩きの頃から、僕はボールを上手に蹴り、まっすぐに投げる事ができた。僕にはその素質がごく自然に備わっていた。

僕が7歳になった時、父は航空宇宙と防衛産業の中心地であるロサンゼルス地域へと移動する機会を得た。テニスの事は、父の心には浮かびもしなかっただろう。僕たち家族は知らなかったが、とても、とても幸いな事に、南カリフォルニアは合衆国テニス文化の中心地――なかでも庶民に開かれた場――でもあるのだ。合衆国のテニスには常に2つの側面があった。テニスは裕福な人々が好むスポーツで、とりわけボストン、ニューポート、ニューヨーク、フィラデルフィアといった北東部ではその傾向が強く、USオープンを含む主要な大会の大部分を古くから主催していた。そこではゲームは伝統に満ちたもので、僕が生まれる少し前までは、芝生が主要なサーフェスだった。カリフォルニアではまったく事情が違った。

太陽に恵まれた西海岸の気候は、テニスを一年中できる屋外のゲームとし、誰もがわずかな費用でプレーできた。そして社交上の堅苦しい慣習もなかった。広大な土地があり、従って公共のコートがそこらじゅうに存在していた。コートの大部分はコンクリート製だった。造るのも安価で、メンテナンスも容易だったからだ。カリフォルニアは主要なテニスの場として発展していた。早期に西海岸から現れた偉大な選手には、すさまじいサーブが今でも伝説的なエルズワース・ヴァインズをはじめ、ジャック・クレーマー、パンチョ・ゴンザレス、スタン・スミス、ビリー・ジーン・キング、トレイシー・オースチン等がいる。

ビッグサーブと攻撃的なプレースタイルは「カリフォルニア・ゲーム」の土台だった。テクニック的に、テニスは地域やサーフェスの違いによって、プレーの仕方も少し異なる。その違いは発音にはっきりと表れている。テニスで最も一般的に用いられるグリップ――コンチネンタル(ヨーロッパ)、イースタン、ウェスタン――はすべて、そのグリップがポピュラーかつ使用されるコートに適した地域の名をとって命名されているのだ。

僕が遺した重要部分――あるいは、とりあえずそう語られている――は、僕が模範的なオールラウンド・プレーヤーに近い存在だったという事だ。僕はビッグサーブと攻撃的なベースライン・ゲームを持っていたが、それはカリフォルニア・スタイルそのものだった。だが、やがてサーブ&ボレー・テニスに取り組み、異国の地、世界最大の――そして最高位の――大会で大きな威力を発揮して、ウィンブルドンで7つの男子シングルス・タイトルを獲得するに至った。僕が最後までマスターし切れなかった唯一のサーフェスは、ヨーロッパの遅いクレーで、クレー最大の大会であるフレンチ・オープンで優勝する事はなかった。

プレースタイルと成果ゆえに、僕は世界ナンバー1選手として先達よりも大幅に地域、そして国内の範囲をも越えた。同国人のジミー・コナーズを例にあげよう。彼はイリノイ州出身だったが、早い時期にカリフォルニアに移住し、ハードコートで自分のゲームを完成させた。彼は自身のオールコート・スタイルを変えず、ウィンブルドンでは2回「しか」優勝しなかったが、そのゲームは彼に5つのUSオープン・タイトルをもたらし、そのうちの3回は最愛のハードコートでだった。

カリフォルニアについて最も価値ある事は、深く根付いた揺るぎない多様なテニス文化が提供する機会だった。僕たち一家にはテニスとの繋がりがなかったので、手探りでプレーし、試行錯誤しながら補っていかなければならない筈だった。ありがたい事に、我々は1968年に始まったオープン時代のまっただ中にいた。プロ選手がついに4つの「メジャー大会」、あるいはグランドスラム大会(オーストラリアン、フレンチ、USオープン、ウィンブルドン)でアマチュアと競えるよう門戸が開かれたのだ。テニスのオープン化は、世界中の優れた選手全員が同じ大会で競い合い、従って正真正銘のチャンピオンが誕生する事を保証した。そしてテニスブームが起こり、何百万という新しいプレーヤーやプロになる可能性のある者がゲームに参加してきた。

僕がカリフォルニアに移住する頃までに、合衆国には世界的な選手やその有力候補が多数輩出していた。そして育成やトレーニング、プレーする機会を提供していた。それはショッキングだった――あるいはショッキングだっただろう、その事に気づいていれば。だが僕の一家は気づいていなかった。

ともあれ、父はデリカテッセンの事業を現金に換えた。義兄弟との事業は、父にとっては変わりばえのしないものになっていたのだ。これまで順調にやってきたが、父は休息を必要としていた。新たにアメリカ人となった多くの人々や移民の先例もあり、思い切って行動しても大丈夫だと思えるようになった。カリフォルニアへ向かうアメリカン・ドリームに倣って、父は西部へ行く事にした。何回か西海岸へ旅してパロスヴェルデスに自宅を定めた後、父はポトマックに戻って家族を集合させた。

1978年、天気の良いある朝の事だった。父は家族全員を車に詰め込んだ。我が家には小型の青いフォード・ピント、貧弱な低価格車(ピントは後に、追突時に炎上した事で有名になった)があったのだ。家族6人はすし詰め状態でピントに乗り込み、西を目指した。おっと、7に訂正だ。ペットのオウム、ホセも連れて行ったからだ。チェビー・チェイス主演の旧い映画「ナショナル・ランプーン/ホリデーロード4000キロ」を見た事があれば、僕たちの情況は想像がつくだろう。


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