第1章 1971〜1986年
テニス・キッド(5)


10〜14歳のジュニアプレーヤーだった頃、僕は楽天的な子供であり、激戦のさなか、誰にも劣らぬほど我を忘れる真剣なおチビさんでもあった。僕はラケットを放り投げたりもし、バックハンドは両手打ちで、ベースラインのしこり屋だった。いつも大声を上げていたが、それはフラストレーションからではなく、むしろ喜びと努力からだった。ジュニア時代からのライバルだったマイケル・チャンと対戦し、両手バックハンドで打ちまくり、大声を上げていたのを思い出す。僕はプロになってからよりも、当時の方が感情を露わにしていた。

父はかなり厳格だった。ビョルン・ボルグの伝説的な自制心と物静かで冷静な集中力は、父親が数週間ラケットを取り上げてから身についたものだと聞いた事がある。それまでビョルンはとても反抗的なジュニアだったのだ。僕の父はラケットを取り上げはしなかったが、僕が感情を露わにすると、父やピート・フィッシャーはそれを良しとしていない事が感じ取れた。とても尊敬している人たちの不同意に気づくと、込められたメッセージは強く明確に伝わってきた。

僕の上達における肝要な出来事は、おそらく14歳の時に起こったと言えるだろう。ピート・フィッシャーが、僕は片手バックハンドに切り替えるべきだと父を説得したのだ。説得はフィッシャーにとってかなり骨の折れる仕事だった。なぜなら僕は両手打ちでかなり上手くやっていたからだ。だがフィッシャーは信念の人だった――自負心が強く、僕を次のロッド・レーバーにするという明確なビジョンを持っていたのだ。それはウィンブルドンで優勝する事を意味していた。速い芝生のコートで上手くプレーする事を意味していた――テニス史のその時点では、それは片手バックハンドでプレーする事をも意味していた。

それがいかに困難で危険な戦略かを正しく認識するには、ジュニアテニスの様相を見通さねばならない。競争は熾烈で、社会の承認やメディアの吟味によって規制される事がない。それは闘犬、あるいは子犬同士の闘いだ。野心的な親、過激なコーチ、彼らは必死に策を弄して優位に立とうとし、我が子の順位を上げるためにあらゆる手を使い、注目と悪評を得ている。ある程度までなら、その戦略は上手くいく。ジュニアでの競争相手を脅し、威嚇し、そして唖然とさせる事ができる。だがプロでは通用しない。トップレベルにまで到達する者なら誰でも、たいていの心理ゲームには免疫ができているのだ。

片手バックハンドへの変更には、明らかな障害があった――僕はもがき苦しんだ(僕の場合、移行には2年間かかった)。正気のジュニアプレーヤーは、そして僕の知っている者は誰も、敢えてそれほど重大な危険を冒そうとはしなかった。幼い時には、自我や精神はずっと脆いものだ。勝利するやり方をにわかに止めて滑り落ちていくと、誰もが耳打ち話を始める。そんな囁きが耳に入ってくる――いつもだ。たとえ親が手取り足取りのタイプだとしても、その親が対応する状況にさえ至らないのだ。

片手打ちに切り替える以前、僕とマイケル・チャンは競り合ったライバル関係を築いていた。マイケルの両親、ベティーとジョーは非常に熱心だったが、ジョー・チャンとサム・サンプラスの関係は落ち着いたものだった。我々のライバル関係は熾烈だったが、彼らは上手く付き合っていた。マイケルと初めて対戦した時に僕は3セットで勝ったが、父は僕が1セットを落とした事に満足していなかったのを覚えている。父はまったくもって満足していなかった。父が言った事すべてを正確には覚えていないが、父が用いた言葉は忘れない。お粗末。それ以来ずっと、僕はその言葉を憎んできたのだ。父は僕が失ったセットでのプレーはお粗末だと言った。厳しい言葉だ。だが、僕がそれを受けるに足る時、父はいつもその言葉を使った。「おまえのプレーはお粗末だった」と。

片手打ちに切り替えてから、僕はどこででも、ありとあらゆるプレーヤーに負けるようになった。マイケルを含めて――それが最悪だった。14歳の時には、長期的展望に立つのは難しい。事実は単純だった。マイケルと僕は互角だった。実際のところ、おそらく対戦成績では僕が上回っていただろう――片手打ちに切り替えるまでは。その後は彼が僕を一方的に負かすようになっていった。ひどいものだった。

さらに悪いことに、マイケルは僕と同い年で、自分の年齢グループでプレーしていたが、僕は「背伸び」していた。つまり彼が14歳以下のカテゴリーでプレーしていた時、僕は16歳以下のカテゴリーでプレーしていたのだ。その事で僕を見下す人が大勢いた。ピートはプレッシャーを受けたくないからそうしているのだ。彼は年上の子供と対戦しているから、勝つ事を期待されないし、敗戦を正当化できる。彼は片手バックハンドに切り替えて苦労している。だから本来なら負かすべき相手を避けているのだ。それは逃避だ、と。

年上の相手と対戦する問題については、両論があるだろう。勝って当たり前とされる相手を常に倒すというプレッシャー、それを受け止める事は大切だとされている。それは分かる。それは実際に僕がプロキャリアを通してずっとしてきた事だからだ。だがジュニア時代の僕にとって、努力の原動力は、次のようなフィッシャーの信念によるものだった。すなわち、僕は対等の相手にどう対するかで悩む必要はない。長期的な視野で捉え、将来的に目指すゲームを考えなければならないという事だった。それに関してフィッシャーは非常に厳格だった。そして父は彼を信頼した。

我々にとっては、適切な方法でプレーする事、キャリアを通して通用するゲームを身につけていく事が最重要だった。それは計算ずくのリスクだった。もし上手くいかなかったら、それは僕が力不足、あるいは心得違いだったという事になっただろう。一方で、ジュニアの中には貪欲で、美味しいものなら何でも食べたがるような者もいた。彼らは長期的展望を持たず、日々の結果に一喜一憂していた。ジュニアでは有効な事(例えばゆるい、山なりの果てしないラリーショット)が、プロツアーでは必ずしも通用しないという事実を無視していた。

この論議にはもう1つの要素がある。ジュニアテニスにおける重要な課題はプレッシャーを避ける事だ。それは巨大な、度し難いほどにもなり得るからだ――特に全国レベル(ジュニア大会の中で最も重要なもので、様々な地域の USTA セクションに属する子供全員に開かれていた)の大会では。僕は優れたゲームを身につけるよう自分自身にプレッシャーを掛ける事で、勝つ事へのプレッシャーは小さくなった。良いプレーをする事、「適切な」方法でプレーする事がすべてだった。その取り組み方は、僕がゲームを楽しみ、自分のゲームを最大限に伸ばす事に役立った。

移行期間をプレーしているさなか、ある子供たちは勝つというプレッシャーをいかに強く自分に課すか、それが彼らの競技能力にどんな影響を及ぼすかを目にした。僕の場合、父やピートからのプレッシャーを感じる事はなかったと率直に言える。「オーケイ、おまえはこの試合に勝たねばならない」といったプレッシャーはなかった。

年上の相手と対戦し、テクニックの徹底的な変更をするもう1つの貴重な副次効果は、負ける事を学んだ事だった。チャンピオンは負ける事を憎むとされているが、僕はその思想に取り憑かれはしなかった。僕は気力や自信をくじく事なく、負ける事に対処するすべを学んだ。それは長きにわたって大いに僕を助けてくれた。全体的にも、窮地に陥った特定の試合においてさえも。負ける事への恐れはひどいものだ。

その事は、僕のキャリアを通して上手く作用してきた特性の説明となるだろうが、注目した人はほとんどいなかった(恐らくそれは、僕が何をしたかではなく、何をしなかったかに大いに関係があったからだろう)。僕は緊張ですくみ上がる事がなかった。思い出せる限りでは。誤解しないでほしいが、上手くいかない日、圧倒されて動けなくなったりゲームが纏まらない試合はあった。決意に欠けて負ける日もあった。だが緊張で怯む事は別の問題だ。緊張で怯むとは、勝つ立場にいながら、度胸や精神面でなんらかの重大な失敗を経験する事だ。僕にはそれがなかった。それは僕が負ける事を恐れていなかったからだとしか言いようがない。

激戦の真っ最中に闘争心を燃やし、自分に活を入れるという主義をそこなう事はなかったが、僕は基本的にあくせくせず、敗戦にくじける事はなかった。その証拠に、 クレーマークラブでの僕のあだ名は「笑顔」だった。スタンフォード大学の元選手で堅実なプロキャリアを送ったマーチン・ブラックマンは、2年連続で同じ大会のコンソレーション・ラウンド決勝戦で僕と対戦した。最初の年、まだ両手打ちバックハンドだった時は、僕が彼を負かした。片手打ちに移行していた2年目には、彼が僕をこてんぱんにやっつけた。だが彼が覚えているのは、どちらの年も僕が同じまぬけな笑顔を浮かべ、試合後の握手をしにネットまで駆け寄ってきた事だった。結果は僕にとって重要でなかったとは言わない。僕はただ指導者を信頼し、敗戦を苦もなく乗り越えていたのだ。

見落としがちだが、人はそれぞれという事を常に心得ているべきだ。発達に万能の方策はない。もしあったら、1ダース以上もの選手が各自きっかり2つのグランドスラム・タイトルを獲得して、記録のトップに並んでいるだろう。例えば、片手バックハンドへの変更はマイケル・チャンのためになっただろう、あるいは彼がそうしていたらウィンブルドンで優勝しただろうと言っているのではない。それにはもっと多くの事柄が関わってくるものだ。

僕が言っているのは、自分のゲームを知り、長期的展望に立つべきだという事だ――持って生まれた運動選手としての性向は、5、10、15年にわたってどこへ自分を導き得るか? マイケルの体格と敏捷性を考えれば、彼がパワフルなサーブ&ボレー・ゲームを構築しようとするのは愚かと言えるだろう。彼がカウンターパンチャーのベースライン・プレーヤーとして最も威力を発揮するのは自明の理だった。

感情的、精神的にも人はそれぞれ違う。順応性があるか、それとも頑固か? 辛抱強いか、それともリスクを冒すのが好きか? 注目や賛辞を求めるか、それとも努力し、人目を引かず、勝つだけで満足するか? 敗戦に対処する気持ちの強さがあるか、それとも日々の勝利が提供しうる自信のカンフル剤を必要とするか? 名誉の殿堂入りに繋がる可能性を秘めたすべての特質を備えているか? ――それらの特質は、ボールの打ち方やグリップの種類とは必ずしも関係がないのだ。


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