第9章 1999〜2001年
ロイを捕らえる(3)


僕はキャリアのこの段階になると、かつては出るのが嫌だった、男子決勝戦の夜に催されるチャンピオンズ・ボール(男女双方のシングルス優勝者は出席する事になっている晩餐会。彼らがダンスをしたのは遠い昔の事だが)を楽しむようにさえなっていた。当初は、ボールは退屈きわまるものと思えた―――ストレスとウィンブルドン優勝への骨折りの後に、僕が最もしたくなかった事は、タキシードで正装して、オール・イングランド・クラブ(AEC)に属する年配の英国紳士や淑女と歓談する事だったのだ。同じく、何であれスピーチをするのは、子供の頃から大の苦手だった。しかしチャンピオンはスピーチをする事になっていた。僕は何を言うべきか見当もつかず、ただ心からのスピーチをするのではなく、何か特別な事を話さなければならないのだろうかと不安だったのだ。

だが時とともに、チャンピオンズ・ボールに出席するのは、パッケージ全体の一部だと理解するようになった。それは大会への、そして大会に関わる人々への敬意のしるしだった。時を経るにつれて、僕はジョン・カリー(AEC の元会長)と彼の妻や、他のクラブメンバーの何人かとも親しくなっていった。時にはシャンパンやワインの1杯も飲み、1回はジョンと一緒に葉巻きもふかした。やがて、僕はボールを楽しむようになった。出席する事は、クラブへの感謝を表せる方法だったのだ。加うるに、僕は規律正しい、クリーンな生活を送る運動選手だった。決勝戦の後にセンターコートを飛び出して、ロンドンのクラブに行きたがる類の男ではなかった。

チャンピオンズ・ボールに関して奇妙に思えた1つの事は、スピーチの後に、さまざまな高官(国際テニス連盟の各団体の長といった人々)が、必ず写真撮影やサインを求める事だった。妙な感じだった。この場にいるのはお偉方ばかりで、僕の倍の年齢の人もいた。大半が大いに成功を収めた人々だった。その彼らが、大人というよりも、スターに会って感激する子供のように振る舞っていたのだ。ある年、僕は伝説的俳優で、 AEC のメンバーでもあるチャールストン・ヘストンに会うという光栄に浴した。彼が僕の態度とプレースタイルを、力強い心からの言葉で称賛してくれた時には、本当に感動した。ただ葉巻をふかし、そしてオフィスの壁に掛けられるよう、もっぱら僕と一緒に写真を撮りたがるだけの人々もいた。別にかまわなかった。それはチャンピオンの務めの一部なのだ。

1999年にアンドレを下した後、僕はチャンピオンズ・ボールで、聴衆に心からのスピーチをした。その時が唯一、容易に語れたスピーチだった。基本的にこんな事を語ったのだ。あの試合は僕自身へというよりも、ウィンブルドンへの捧げものだ。あの場所が僕を、あのようなテニスをプレーするよう奮い立たせ得たのだ、と。

同じくアンドレとの試合は、僕に対する世間の見方を完全に180度変えたのだった。僕は退屈な、弱い者いじめの野良犬から、この20年におけるグラスコート・テニスの最高峰へと変化していた。だが僕は、これはアンドレが立ち直って潜在能力を発揮し、決勝戦まで勝ち上がってきたからこそだと承知していた。何年間か圧倒的なプレーをしてきた後に、僕はただ力で圧倒するだけではない事を披露できたのだ。ビッグサーブ以外の武器も使って、最高のベースライン・プレーヤーを倒す事ができたのだった。

これが苦々しく聞こえなければ良いのだが。僕はまったく苦さを感じていないのだから。実をいうと、困惑しているのだ。ウィンブルドンにおける僕の「イメージ」の基本は、年月を経ても僕は大して変わらなかったという事であり、僕のゲームもまた然りだった。変化したのは対戦相手(そして彼らがプレーするゲーム)であり、僕と僕のゲームに対する認識だったのだ。このすべての教訓は厳しく、そして快い事ではない。皆さんが子供たちにそれをどう教えるか、あるいは僕が我が子にどう教えるかは、僕もよく分からない。しかし、充分に勝利を収めれば、人々は認めるようになる。

勝つ事、それが、誰もが最終的に理解し、敬意を払う1つの事なのだ。


戻る