第7章 1996年
戦士の時(5)


パリでの敗戦は痛手だったが、常にウィンブルドンがあった。フレンチで負けた数日後、ポールと共にイギリスに到着した時、僕は涼しい気候とあの美しい芝生のコートに感謝した。まるで僕の頭のハードドライブから最近のファイルをすべてデリートし、初めからやり直すような感じだった。僕はパリでのショッキングな挫折の後、自分を立て直す必要があった。1年は半ばまで終わり、たいていの年と同じく、自分がメジャー大会で優勝したかどうかで、1年を成功あるいは不出来と判断するのだ。

スタミナとエネルギーを取り戻せるよう、1996年はウィンブルドンに向けたすべての前哨戦大会をスキップした。大会が始まると、物事はうまく運び始めた。そして1回戦ではデビスカップの仲間、リッチー・レネバーグに1セットを落としたが、間もなくエンジンが全開していった。3回戦ではマーク・フィリポウシスをストレートセットで一方的に負かした。セドリック・ピオリーンに対しては、10ゲームを失っただけで楽に勝利した。準々決勝ではリチャード・クライチェクと対戦する事になった。彼はほっそりした背の高い、強烈なサーブを持つオランダ人で、速いサーフェスでは常に脅威の存在だった。彼はどんな時でもひょいと現れて大会に優勝する事ができ、まるでパンチョ・ゴンザレスの再来かと思わせた。また別の時には、良いサーブを持つ大男の1人にすぎず、毎週毎週勝とうとする自信、あるいは意欲を持ちあわせていないようにも見えた。

鉛色の空の下でウォーミングアップをしながら、リチャードは少し神経質になっていると僕は感じた。だが我々は自分のサーブに集中し、最初の7〜8ゲームを通して、彼は自身のサービスゲームをキープしていた。僕としては、すべてが順調に進んでいた。リターンゲームでは彼を働かせ、セカンドサーブではかなりの手応えを掴んでいた。あちこちでブレークポイントを得て、ものにする事はできなかったとはいえ、その事が僕を勇気づけていた。僕は以前にも、芝生でこのような試合をたくさんしてきたのだ。秘訣は油断せず、集中し、そして自信を保つ事だった。いずれチャンスは来るからだ。僕は彼に手が届いていた。その事をかなり確信していた。後はただ時間の問題だった。

だがセットを終える前に、雨が降り始めた。数時間の中断があり、それは我々の双方に考え、立て直す時間を与えた。コートに戻った時、彼は違うプレーヤーになっていた。彼は突如としてショットを攻撃的に打ち始めた。特にセカンドサーブを。彼が承知していたか否かはともかく、彼は僕を、僕が最も入り込みたくない領域へと運んでいったのだ。僕の記憶ドライブは、最も危険なサーブ&ボレーヤーに対しても、セカンドサーブではチャンスを得られるという心構えで対応するよう要請した。もしそうなれば、彼らを打ち負かす事ができるだろう。その戦術はゴラン・イワニセビッチに対して有効だった。ボリス・ベッカーに対しても、ステファン・エドバーグに対しても有効だった。だが、セカンドサーブで手掛かりを得る事が難しくなるにつれ、連鎖反応が生じてきた。彼のサーブに効力を発揮できないと、その事が僕のサービスゲームにより大きなプレッシャーを加える事になったのだ。リチャードはそれを感じていたのだと思う。さらに、彼自身の見事なサーブは他の部分、特に彼のリターンゲームを楽にした。プレーはほぼ常に、そのように作用するものだ。

クライチェクは僕を1回ブレークして、第1セットを7-5で勝ち取った。その事が彼を大胆にした。そして突然、彼はバックハンド・リターンで僕のサーブを捉えるようになっていた。さらに、パッシングショットも非の打ち所がなかった。僕は第2セットを6-4で失った。そして再び雨がぱらつき始めた時にはホッとした。光が失われつつあったからだ。僕はその日のうちには試合が終わらないと承知していた。そしてとにかく立ち直る必要があったのだ。

だが、明日は新しい日だ、僕は再び軌道に乗るだろう―――彼があんなふうにホットでい続けられる筈がない………と考える代わりに、僕は不吉な予感を抱いていた。試合の流れを心地よく感じていなかった。そして自分が大きい、大きい穴にはまっている事を知っていたのだ。その夜、ポールは倍の時間をかけて僕の気持ちを引き立て、自信を取り戻させようと努めてくれたが、僕を落ち込んだ気分から引き上げる事はできなかった。僕はまだ試合に残ってはいたものの、否定的な気分だった。

翌日、プレーが再開され、我々は中断した場面から続けた。リチャードは爆弾を投下し始め、そして僕はすぐさま落胆し、考えていた。おい、これは芝生で僕が他の選手たちにやる事だよ、と。手短かに言うと、彼は僕をシャットアウトしたのだった。なすべき事をやり遂げたリチャードを称賛しよう。彼は素晴らしい試合をしたのだ。技術的にも、精神的にも。そして彼がそのまま大会で優勝を果たしたのは、僕にとってはなにがしかの慰めとなった―――もし負けるのなら、少なくともすべてに勝ち抜く男に負ける方がましなのだ。僕はその試合をテープで見た事は一度もないが、知りたい気もする―――リチャードのゲームが、雨による遅延の後に変わったと僕が考えているように、本当にそこで変わったのかどうかを。

結局、3つのメジャー大会は終わってしまった。そして僕はまだ1つも勝ち取っていなかった。僕はティムのためにスラム優勝を遂げなければならないと、厳密に考えていた訳ではないが、他の人々はよくその話題を持ち出した。だが僕にとっては、それが主眼ではなかった。単純な事だった。勝とうが負けようが、フレンチ・オープンは「我々の」メジャー大会だった。僕は優勝の栄誉をティムに贈るには及ばなかった。したがって物語は皆が期待したような形では終わらなかった。だがそれが、僕がローラン・ギャロスで経験した神秘的な時、あるいは感情を変える事はなかった。さらに僕がティムについて感じた事、あるいは彼の思い出に敬意を表するふさわしい方法である事にも変わりはなかった。僕が次のメジャーで優勝したら、「ティムのために優勝する」事について、けっこうなスピーチをする事もできただろう。それは皆が聞きたがっているものだった。だが僕はそうするつもりはなかった。それはわざとらしいものだ。その誓いを自分自身に秘めていた。


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