第4章 1992年
献身に対する自問自答(1)


カギとなった試合
1992年7月、ウィンブルドン準決勝
ピート・サンプラス    7(4) 6    4    2
ゴラン・イワニセビッチ  6    7(5) 6    6
1992年9月、USオープン決勝
ピート・サンプラス    6    4    6    2
ステファン・エドバーグ  3    6    7(5) 6
1991年12月、デビスカップ決勝
アメリカ合衆国対スイス
(テキサス州、フォート・ワース)
ピート・サンプラス    6    6    7    6    6
ジョン・マッケンロー
ヤコブ・ラセク      7(5) 7(7) 5    1    2
マルク・ロセ

年度末順位
1992年:3位


大失敗に終わったデビスカップ・デビューの何週間か後に、僕はティム・ガリクソンと本格的に仕事を始めた。ジョー・ブランディは物事を体系立てて、厳しく監督するという点で優れていた。彼は僕を大いに努力させ、早朝のランニング、2人対1人のドリル等をさせた。だが彼は基本を熟知してはいたが、彼の教えてくれた事が1つとして、トッププロとして精通すべき秘訣になったとは思えない。ティムとの場合は大いに違った。

ティムと僕の関係が固まるには数日で充分だった。僕とうち解けるには通常いくらか時間かかるのだが、ティムは素早くその仕事をなした。彼はとても社交的で、陽気で温厚な男だったからだ。ホテルでは別々の部屋に泊まったが、我々はむしろ大学のルームメイトができたような感じだった。ティムはいつも、僕の部屋か彼の部屋で一緒に過ごしたがったのだ。ある時、僕は少しの間ひとりでいたかったので、ティムが僕の部屋までついてきた時に、それとなく伝えようとした。僕は「ティム、僕は電話をかけなければならないんだ。ちょっとプライベートな事で」と言った。

「いいよ」と彼は答えた。

僕は自分の部屋にこもり、ティムは立ち止まってコンシエルジュ(我々は極上のホテルに滞在していて、フロアには専属のコンシエルジュがいた)と話を始めた。ティムはその婦人と話をしていて、僕が2時間後に部屋から顔を出した時、まだ彼女と話をしていた―――フロアから移動さえしていなかったのだ。

1992年に初めて一緒にオーストラリアへ行った時には、毎晩ティムは僕の部屋に来て、我々はルームサービスを頼んだり、話をしたり、テレビを見たりした。彼は仲間といる事が好きだったのだろう。彼には双子の兄弟がいて、いつも一緒に過ごす事に慣れていたから―――ツアーでプレーしていた頃も。さらに、ティムは家族を大切にする人間だった。彼の妻ローズマリーは、ツアーでも最も感じの良い配偶者として知られていた。ツアーでは選手のガールフレンドや妻でさえ競争心を抱く事もあるのだが。たくさんの人間が周囲にいても、彼は普段どおりだった。

ティムは僕と違ってあらゆる事に好奇心を抱き、僕と違ってあらゆる事について自分の意見を持っていた。彼がごく率直に自分の考えを表現する様は、僕には馴染みのない事だった。誰でもそうできるのだと知るのは、僕にとって良い事だった。そしてティムは自説を曲げない人間だったが、心が広く寛容でもあった―――惜しみなく人を援助する人間だった。我々の関係が始まった時から、彼はたくさんの質問を投げかけてきた―――僕のテニス、僕の人生、僕の家族について。後になるまで僕は気づかなかったが、彼は僕の心を開かせ、ゆとりをもたらしてくれた。そもそも心許なく、世慣れていない子供―――自分の居場所を必要としている者、それが僕だったのだ。

コーチとの関係を築くには慎重を要する。特に若い選手にとっては。コーチを雇うという事は、あるレベルで新しい親友―――信頼をおく事にする誰か―――を雇う事だ。だが僕は感情的に関わりすぎる事に用心深かった。もともと境界線を意識し、ある特定のルールをもって振る舞うと常に考えていた―――相互の敬意が第一で、ほかの誰かに自分の問題をすべて委ねる事はしないと考えていたのだ。時には、僕のやり方はティム(そして後にはポール・アナコーン )にとって辛いものだったに違いない。なぜならコーチは腹心の友であると想定され、通常は腹心の友になりたいと望むものだからだ。

ティムと僕は時に小さな攻防戦をした―――彼は探り、知りたがり、僕は自分が本当はどう感じているか、あるいは何を考えているか明かすのを拒んだ。それはテニスに関してさえ起こった。僕は自分のゲームを理解しようと努めていたが、それでもなお、コーチにさえ自分の懸念を明かすのは気が進まなかったのだ。実際に、僕が弱気を告白し、心の内をコーチに打ち明けたのはキャリアで一度だけで、それは(後の章で述べるように)ずっと後の事だった。僕は自分のテニスについて、脆い、あるいは不安定だという印象を与えたくなかったのだ―――たとえコーチにさえ、どれほど自分が苦しんでいても。ティムが親密な友人、兄のような存在になっても、それについては常に用心していた。恐らく僕はあまりに用心深く、排他的だったのだろう。僕をコーチするには言外の意味を読み取る必要があったが、ティムは多くの優れたコーチと同様に、それに長けていた。芸術家は自分の仕事を論じたがらない事が多いと聞く。もし論じたら、なぜか魔法が解けてしまうかのように。僕は芸術家ではないが、その意味を理解できる。そしてもし僕の沈默がティムに言外の意味を読むよう求めていたのだとしたら、僕のストイックな性質は、恐らく彼の問題のいくらかをより楽にしただろう。我々がテニスについて話をしなかったわけではない―――テニスについて大いに語り合い、ゲームを見て、そして大いにプレーした。しなかったのは、僕のテニスについて気に病む事だった。そして僕はティムに心理療法士の役割を求めた事はなかった。

僕は生来、感情的に人の助けを必要としない。だから自分の生活の奥深くに多くの人々を入り込ませない傾向があった。彼らに過度の影響力を持たせたり、僕をコントロールさせなかった―――だから彼らのコントロールに抵抗する必要がなかった。それはコーチとの関係でよく起こる事なのだ。僕はもっと独立独歩のタイプだった。必要に応じて自分のゲームへの助力とサポートを求め、それ以外は常に健全な感情の距離を保った。ティムと僕が共に働き、大会に備えていた頃でも、自分の感情を内に秘めていた。すべてが常に僕中心である事を要求する代わりに、ティムにも彼のスペースを与えた。常に人の支えを必要とする選手と付き合うのは、心身を疲れさせる仕事に違いない。

最高のコーチは職務を果たすための秘訣を身につけている。駆け引きのいくつかは、自分の子供に使う事もありそうな作戦だ。例えば、偉大な選手に対して彼のゲームに何らかの変更をさせるための一般的なテクニックは、会話の中でそのアイディアの種子をまき、次に選手自身がそのアイディアの持ち主となるように話し合いをもっていくのだ―――コーチのアイディアではなく、選手のアイディアであるかのように。見え透いているようだが、効果がある。ティムは僕に対してそういった手段に訴える必要はなかった。だが何を言うべきか、いつ、どのように言うべきかを知る必要は確かにあった。恐らくどんなコーチにとっても、その部分は肝要だ。トップ選手というものは、より良くなるためには何をする事もいとわない中堅選手とは違うからだ。トップ選手はすでに、優れたゲームと大いなるプライドを持っている。感受性はその一部である事がしばしばなのだ。

その後1〜2年で、僕はティムの戦いの物語をすべて知るようになった―――いかに彼と双子のトムが、テニス辺境の地とも言えるウィスコンシン州オナラスカから、一流への道を目指したか。彼らは中西部のクラブでしばらくの間ゲームを教え、ツアーに挑戦する元手を貯めた。僕はティムがプロになってからの大試合すべてを記憶した、間違いなく。実際にティムの最大の勝利、ウィンブルドンの悪名高い墓場のコート(ナンバー2コート)でジョン・マッケンローから挙げた番狂わせの勝利について、ポイントごとの展開をそらで語る事ができた。もし他の人々と一緒に夕食に出掛けたら、僕は無知を装って無邪気に、すでに数百回も僕に話したと彼がよく承知している試合について尋ね、彼を慌てさせ、決まり悪がらせる事もできた。そして僕は深く座り、にやりと笑うのだ。

だがティムはテニスに関するお喋りで、自画自賛していたのではない―――彼は真にゲームを学ぶ者で、高いレベルでプレーし(ツアーで3つのシングルス・タイトル、15のダブルス・タイトルを獲得し、シングルスでは最高15位まで到達した)、なおかつ純粋にテニスを愛し、熱烈なファンでもあるという稀な男だった。

個々のやり方についていうと、まずティムがしたのは、僕の練習セッションを短縮する事だった。これはティムがジミー・コナーズから学んだ事だった。彼の練習は―――時間的に―――どんなトップ選手よりも短かったかも知れない。ジミーの練習は、短いが真剣な事で有名だった。時にはわずか45分間しか練習しなかったが、常に集中し、意図がはっきりしていた。彼はすべてのボールを追いかけ、最高のショットを打ち、そしてプレッシャーをかけ続けた。彼は2時間の練習に慣れている男を、その半分以下の時間で参らせる事ができた。ジミーとの練習では、2ポイントをプレーして休み、ゲータレードを飲んだり世間話をする事はなかった。

ティムは僕のゲームにいくつかのテクニック的な調整も加えた。シンプルな調整だったが、重要なものだった―――対戦相手に僕が強烈なフォアハンドを打とうとしていると思わせるために、バックハンドの守りを大げさに強調すべきだ、といった彼の理論がその一例だ。それによって、相手にバックハンド側の非常に狭い場所へボールを打たせるようにしたのだ。とても単純な事のようだが、リターンの時にほんの数フィート動く事で、相手がポイントに取り組み、プレーする方法にとても大きな影響を与えられる―――自分にそれをバックアップするリターンがあれば。

その戦術は僕のキャリアを通じて効果があったようだ。特にアンドレとの試合では。恐らく彼はファーストサーブで少し無理をして、僕のバックハンド側を狙って回転をかけすぎたり、あるいはアドコートでセンターを狙ってフォアハンドの脇をすり抜けさせようとしただろう。それによって僕はさらにセカンドサーブを得られ、それはフォアハンドで捕らえるのがより簡単だった。その戦術はマイケル・チャンに対しても効果があった。マイケルのサーブは比較的弱くて、強烈なフォアハンド・リターンで攻撃する事が容易だったからだ。

コーチング関係のスタート時、僕は少し「手打ち」になっているとティムは考えていた―――テクニック的な鍛錬の不足を埋め合わせるために、手をいい加減に使う傾向があったのだ。言い換えると、僕は少し無精だった。手と手首はほぼすべてのショットで重要な役割を果たすが、力強く鋭いショットを打つとなると、本来は腕、脚、体幹を使う仕事の肩代わりをさせるべきではない。優れたタッチを持つプレーヤーは、とりわけ手打ちをしたがる傾向があるが、ショットに重さと鋭さが不足するという代償がつきまとうのだ。

ティムは僕のバックハンド・ボレー、スライス、あるいはアンダースピンなどのショットを安定させた。バックハンド・スライスのモーションを小さくして、スピン量は減少するとしても、ショットにより重さを加えるようにさせた―――ケン・ローズウォールのように。彼の高名なスライスは驚くほど力強く、そして重かったのだ。間もなく僕のバックハンドからは「浮き球」が減った。鋭さが増し、より速くコートを通過した。それは相手の攻撃をより難しくした。

バックハンド・ボレーに関しては、ボールを捕らえる際に身体全体を低くする事に集中した。ラケットヘッドを下げると、ショットからペースを奪ってしまうが、それは 手打ちの人間がよくやる事の1つだ。力強いボレーはより決定的なショットとなり、重さが加わる。それには少しポジショニング、つまり努力が要求される。しかし成果があった。これらの調整はすべて役立ち、リターン時のバックスウィングを短くする事は、優れたグラスコート・プレーヤーへの変身に非常な重要だった。

だがティムが最も気にかけた分野は、コート上での僕の心構えだった。僕にはうなだれ、前屈みになる傾向があった。特に事が自分に上手く運んでいない時には。エンジン全開の時には、誰でも素晴らしいテニスをする事ができる。難題は、ベストの状態でない時にも、それなりに良いプレーをする事だ。我々はみんな、冷笑する内なる審判者を抱えている。そして成功を収める大きな要素は、それを無視する事だ。時には大きな大会においてさえ、無気力と疲労を感じつつ戦い抜かなければならない。おまえはお粗末だ、止めるべきだ、おまえは疲れているし、次の機会もあるのだから、と内なる審判者が言う時、その声に耳を傾ける代わりに―――その声を飲み込み、ひとかどの男らしく行動すべき時だ―――踏みとどまり、戦い続け、チャンピオンの矜持を示すのだ。

ティムは僕が競技者として充分に進化していない事を理解していた。僕は少し柔弱だった。彼は僕に、最後のポイント、あるいはその前のポイントで起こった事を悔やむな、と常に言い聞かせた。ゲームだけでなく、物腰でも対戦相手を威嚇するよう望んだ。そして僕がうつむいていると怒り狂った。だが僕は肩幅のかなり広い、ひょろっとした男だ。うなだれた姿は人を惑わせた。僕の「しょんぼりした」様子は、百万回も新聞などに書かれた。だが「若い不幸者」と「老いた不幸者」の間には大きな違いがあった。キャリアの早期には、僕はうなだれ、落胆を露わにする苦い表情を浮かべていた。後には、厳しい顔つきは断固とした集中の表れで、うなだれた姿勢は嵐の到来を暗示していた。僕をサンドバガー(凶器の砂袋で旅人などを打ち倒す強盗)だとさえ示唆する者もいた―――見た目とプレーが別物だ、と。

労働者タイプの選手だったティムは、努力を最も重んじた。僕のゲームから可能性のすべてをしぼり出す事を旨とした。それは彼と双子の兄弟トムが、プロツアーで成功するためにしてきた事だ。ティムは僕を奔放で自信に満ちた、来るなら来いというタイプの男に変えようとした。それは厳しい課題だった。そして結果は、明らかに善し悪しだった。つまるところ僕はティムとは違った人間で、「三つ子の魂百まで」なのだから。


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