第5章 1993〜1994年
炎の下に秘めた品位(1)


カギとなった試合
1993年7月、ウィンブルドン決勝
ピート・サンプラス    7(3) 7(6) 3   6
ジム・クーリエ      6    6    6   3
1993年9月、USオープン決勝
ピート・サンプラス    6    6    6
セドリック・ピオリーン  4    4    3
1994年1月、オーストラリアン・オープン決勝
ピート・サンプラス    7(4) 6    6
トッド・マーチン     6    4    4
1994年7月、ウィンブルドン決勝
ピート・サンプラス    7(4) 7(5) 6
ゴラン・イバニセビッチ  6    6    0
1994年8月、USオープン、4回戦
ピート・サンプラス    6    3    6    6    5
ハイメ・イサガ      3    6    4    7(4) 7

年度末順位
1993、1994年:1位


僕は二度と試合で諦めないと決意して1993年に臨んだ。何が起ころうとも、決してもう1つの闘いには負けないと―――特にグランドスラム決勝戦、あるいは同等の大きな機会では。僕には最後まで戦い抜き、力を使い果たしてコートから歩み去るという心意気がなかったからだ。僕は献身との自問自答をした。今はただ、コート上で自分の誓いを証拠だてる時だった。

年が進むにつれて、僕は自分がトップ選手の一団にいて、今まででいちばんゲームを楽しんでいると感じていた。オーストラリアン・オープンでは準決勝でエドバーグに敗れた。あそこでは彼はいつも良いプレーをし、僕はそうではなかったのだ。僕はフィラデルフィア、マイアミ、東京、香港で優勝し、キャリアで初めてコンピュータ上のナンバー1の座に就いた。それは物議をかもした。僕はナンバー1になったが、スラム大会では優勝していなかったからだ。それでも、ATP コンピュータのポイントシステムを責める気にはならなかった。僕は明らかに、その年前半で最も堅実な結果を出してきた選手だったのだ。

いまだ2回目のメジャー優勝を遂げていない事は、僕の心を苦しめた。一方ジム・クーリエは、その時までに4回優勝(ローラン・ギャロス2回、オーストラリアン・オープン2回)という素晴らしい戦績だった。彼は我々の世代(マイケル、アンドレ、僕はそれぞれ1回ずつメジャー優勝を遂げていた)を率いていた。そして僕は序列の頂点というポジションを取り戻そうと決意していた。それはコンピュータの順位表よりも、僕には重要な事だった。

僕は順調にクレーコート・シーズンを迎え、アレックス・コレチャ、アンドレイ・チェルカソフ、ギレルモ・ペレス - ロルダン、さらに何人かのクレーコート専門家から勝利を挙げた。ローラン・ギャロスでは、最終的にチャンピオンとなったセルジ・ブルゲラに準々決勝で敗れた。そして芝生へと移った。僕はクウィーンズ・クラブへと向かい、1回戦で南アフリカの熟練したグラスコート・プレーヤー、グラント・スタフォードに負けた。だがそれほど悪い事でもなかった。フレンチ・オープンで勝ち進んだ年には、クウィーンズで好調だったためしがなかったからだ。これはクレーから芝生への移行とはあまり関係がなかった。むしろ、グランドスラムで優勝するチャンスを逃した後にいつも感じる失望感の方が大きかった。メジャー・タイトルへの挑戦から、感情的にも、精神的にも、回復する時間が必要だったのだ―――とりわけ、不首尾に終わった後には。


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