第7章 1996年
戦士の時(7)


引き続き、僕は1996年のUSオープンで優勝(8回目のメジャー・タイトル)した。だが、コート上でいかに具合が悪くなったか、自分がいかに弱く不調に感じられたか、その事が僕を悩ませていた。以前に診断され、そのままになっていたカイヨウの事を思い返した。そして他に何か悪いところがあるのだろうかと考えた。これは身体の問題なのか、あるいはテニスで大きな目標を達成しようと決意し、自分自身にかけてきたストレスと関係のある精神的な問題なのか?

スラム・タイトルを手に入れるまで、オープンの間じゅう不安に怯えていた。僕はこれまで自分自身に高い目標を課してきた。それを下げる事は望まない―――自分が同じ地位に留まるか、あるいはより高みを望むものだ。きっと僕は少し強迫観念に取り憑かれ、非現実的になっていたのだろう。避けがたい失墜に備えていたのかも知れない。だが自分ではどうする事もできなかった。僕は4年連続ナンバー1でその年を終え、ジミー・コナーズの記録である5年まで、あと1つに迫るだろう。コナーズの記録を破りたいとは思っていたが、例えばウィンブルドンやデビスカップの優勝を望むのとは違って、さらに2年もの奮闘を意味するのだと充分に理解していた。もう2年、それはまず第一に、記録を追い続けるのに充分な数の大会に出場する事を意味していた。

このすべてについて、ポールとよく話し合った。僕は彼に、自分が何を達成したいか伝えた。僕は少し後戻りして、ゲームへの精神的・肉体的アプローチについてよく考える必要があると、我々は決断を下した。意欲あるいは熾烈さを失わずに、自分に合ったペース守る必要があった。僕はそのミッションを受け入れなければならなかったが、自分自身に過度のプレッシャーはかけなかった。さもなければ内部で分裂してしまうだろうからだ。相いれない願望を両立させるのは、はたして可能なのか? 我々は確たる答えを持っていなかった。だが僕がまずすべきは、身体をすべてチェックしてもらう事だと合意した。心の奥底には、少しばかり恐れを感じる言葉があった。それについては対処しないと決めていたのだが。「サラセミア(地中海性貧血症)」だった。

前にも述べたように、この軽い貧血体質は、地中海系の人々を悩ませるものだ。それは疲労を引き起こす。特に暑い日には。そして僕は確かに、非常に暑い日には気だるさと意欲の減退に苦しんできた―――ウィンブルドンに初優勝した時の準決勝もそうだった。だが、医者に行って、何か悪いところがある、実力以下のプレーを正当化する何かがあると言われる事は、誰も望まない。僕はサラセミアが自分の家系にあると承知していた。サンプラス一族の男たちにはなかったが、母のジョージアと姉のステラにはある。コレチャ戦の直後までは、自分にその疾患がある可能性を無視すると決めていた。

健康診断を受ける中で、血液検査によって僕の赤血球値は異常に低い事が明らかになった―――その症状を抱えているはっきりした徴候だった。生命に関わるものではないが、確かに僕のコート上におけるパフォーマンスに影響を与えうるものだった。とはいえ、容易に取り組みうる問題だった。僕は鉄分のサプリメントを摂取し始め、さらに肉、卵、その他のタンパク質摂取量を増やさなければならなかった。

これは単に対処すべき問題の1つにすぎない筈だった。だが、トロントに住む進取の気性に富んだジャーナリストでテニス狂のトム・テビューが、ニューヨーク市で出版されている月2回発行の雑誌「テニス・ウィーク」に、その話をほのめかした。彼は僕に………サラセミアの症状があると推測したのだ。トムにはかぶとを脱がざるを得なかった。彼は自分の仕事を果たしたのだから。僕は少しばかり不愉快に感じたが、彼の仕事ぶりには感銘を受けざるを得なかった。彼はどうにかして僕の不調を聞きつけ、詮索を始めていたのだ。彼は医者や専門家に取材をして、サラセミアはコレチャ戦における僕の衰弱ぶりを説明する要素となり得るとの確認をとっていた。それから彼は点と点を結びつけて、僕を追いつめていった。

その記事が公にされる前に、トムが僕に確認をとろうとしたかは覚えていないが、それはかまわない。どうせ僕はそれを否定しただろうから―――その話が出た後、僕が否定したように。いやな気分だった。僕はまったくの嘘はつかないよう努めたが、認めるつもりもなかった。ライバル達にその事を知られ、この先の対戦で安心感、あるいはモチベーションを与えたくなかったのだ。実際のところ、僕がついにその事実を認めた相手はピーター・ボド―――この本の協力者―――で、2000年9月に行った「テニス・マガジン」誌のインタビューの中でだった。


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