第8章 1997〜1998年
ウィンブルドンは永遠に(7)


僕がウィンブルドンを去る時には、エマーソンの持つ12のグランドスラム・シングルス・タイトル記録まで、あと1つとなっていた。そして彼の記録に並ぶには、USオープンほどふさわしい場所はなかった。だが僕はフラッシングメドウで、侍まげに亜鉛酸化物のウォーペイントを顔に塗った威勢の良いオーストラリア人、パット・ラフターに敗れた。もし僕がニューヨークで優勝できていたら、その年の残りはもっと楽になっていただろう。記録となる6年連続ナンバー1の座を確定するために、シーズンの終わりに一踏ん張りする必要がなかっただろうからだ。

1998年秋の予定を見ながら、グランドスラムがすべて終了した後に開催されるヨーロッパの室内大会に、僕はまったく意欲が湧いていない事に気づいた。6〜7年前なら、すべてに勝ちたいと思っていた。何年もの間、僕の走行距離計の走行マイル数は増加し続けていた。そしてエンジンは活力を失っていなかったが、ショック・アブソーバーはすり切れ、不具合が出始めていた。アスリートにとって、それは怪我、あるいは神経がダウンして、試合に勝つ助けとなる適切な、リラックスした方法で集中できなくなる時を意味する。ナンバー1の座に就いていた年月は僕を疲弊させ、1年の中でピークに達するべき時期を選ぶ事について、もっと考えさせるようになっていた―――つまり、グランドスラム大会について。

それでもなお、僕は最も長い年数ナンバー1の座に就くという鉄人の記録に向けて、もう一頑張りすると決意していた。それはグランドスラム・シングルス・タイトル記録ほど華々しい記録ではないかも知れない。だがいろいろな意味で、いっそう意義深いものだ。偉大さというものは、つまるところ、戦いの場に毎日出て仕事を成し遂げる事、そして背中に標的を負って生き、生き残る事を学ぶ事だからだ。偉大さの本質は堅実さなのだ。

史上最高の選手(GOAT = Greatest of All Time)は誰かという質問をよく受けるが、僕としては、1968年に始まったオープン時代に少なくともキャリアの一定期間をプレーした男の中では、5人を挙げる。正直なところ、トップ選手がプロに転向し、グランドスラム大会への出場を禁じられていたアマチュア時代の偉大な選手たちについて判断する資格が、僕にあるとは思わないのだ。僕が挙げる5人はロッド・レーバー、ビョルン・ボルグ、イワン・レンドル、ロジャー・フェデラー、そして―――傲慢になるつもりはないが―――僕自身だ。理由はかなり単純だ。僕にとって GOAT とは、幾つタイトルを勝ち取ったか、あるいは何年間トップの座に就いていたか、だけではなかった。キャリアを通して、主要なライバル達を支配するに等しい存在だったか、である。

「レンドル?」と、尋ねる人もいるかも知れない。はい、なぜならイワンは、彼の時代にゲームを引き上げたからだ。コナーズに対する彼の対戦記録は驚くべき22勝13敗、マッケンローに対しては21勝15敗だった。どうやってそれに異議を唱える? そしてコナーズはボルグが天敵だった。一方マッケンローは、しばしばレンドルに手ひどくやられていた。唯一レンドルに欠けていたのは適切な宣伝と、人々が偉大なチャンピオンに求めるカリスマ性だった。彼は8年連続でUSオープン決勝に進出した―――そしてオープンは、多くの人に最も苛酷なメジャー大会と考えられているのだ。だからこの5人が僕のトップ5だ。コナーズ、マッケンロー、アンドレ・アガシにも当然の敬意を払い、歴史上のトップ10の中で第2グループの5人に入れた。

エマーソンの持つシングルス・タイトル記録(12のグランドスラム・タイトル)を破る事と、6年連続ナンバー1在位を果たす事との比較は興味深い。6年間、1年に2つのメジャーで優勝すると、エマーソンの記録に並ぶ事ができる。さほど過大な要求ではない。芝生あるいはクレーコートの優れたプレーヤーは、あまり望ましくないサーフェス(ハードコートの事か?)でも1大会の優勝なら可能である事を考慮すれば、2回のメジャー優勝を果たす事になるのだ。偉大な選手たちの中で、7年以下の期間で自己の全メジャー優勝を果たしたのはマッケンローただ1人である(コナーズはほぼ10年間にわたってメジャーで優勝した)事を考慮すると、6年間というのは妥当な期間だ。7年間には28回のグランドスラム大会がある。12回優勝するのは大きな業績だが、想像を絶するほどではない。

つまり、毎年1カ月間だけ真剣に目覚ましいテニスをすれば、12のメジャータイトルを獲得する事になる。残りの期間は、身を引いて、リラックスしたり、あるいは、自分の力量を整えながら戦略を構想する事もできる。しかし、もし年末ナンバー1の座を望むなら、そんな事はできない。1年を通して多くの大会や試合でプレーして勝たないと、トップの座を得る事はないのだ。たいていの選手は、メジャー優勝を堅実さと交換しても構わないと考えるだろう。大方の野球選手が、長年リーグのトップになっても、秋のワールドシリーズで優勝した事のないチームの一員でいるよりも、1回でもいいからワールドシリーズで優勝するチームの一員でありたいと望むように。だがベストの選手とは、大きい勝利を挙げ、しかも頻繁に勝利するのだ。彼らは身を粉にして努力するのだ。

結局のところ、6年連続年末ナンバー1順位の確定に駆られていた1998年のあの時期、僕を押しつぶしそうになっていたのは、この骨折りだった。僕はその秋、トップの座へ向けて発奮していたマルセロ・リオスを寄せつけまいとして、USオープン後にヨーロッパで7つの大会に出場した。年の初めには、それらの幾つか(ウィーン、ストックホルムの大会など)に出場する気はなかったが、ワイルドカードを求める事になった。1年が進む中でリオスは僕に肉薄し続け、そして僕は記録に取り憑かれそうなギリギリの状態になっていた。

秋のヨーロッパ・サーキットは、およそ愉快な体験とは言いがたい。寒くて、日没が早くて、選手は人工照明に照らされた大規模なアレーナでナイトマッチを戦うのだ。長く厳しいグランドスラム・シーズンの終わりに、その雰囲気は何か奇妙な、パラレルワールドにいるような気分にさせられる。記録を確定するための最後の一頑張りは、バーゼルでウェイン・フェレイラに敗れるという気の滅入る始まりとなった。それから立ち直って、ウィーンで優勝を果たした。軽い怪我でリヨンは欠場したが、次のシュツットガルトでは、準決勝(第3セット・タイブレーク)でリチャード・クライチェクに手痛い敗戦を喫した。さらに悪い事には、その大会で優勝していれば、僕は年末ナンバー1順位を確定できていた筈だったのだ。

そこで舞台はパリへと移った。その頃には、僕は少しばかり平静さを失い始めていた。全般的な疲労は一貫しない結果の一因となっていたが、さらに深い、心理的なレベルにまで達し始めていたのだ。僕の髪はストレスのために抜け落ちていった。しかしアメリカでは、誰も気にかけていないようだった―――アメリカの新聞や雑誌を代表して、この追い込みを取材している記者は1人もいなかったのだ。対照的に、ヨーロッパのプレスは至る所に詰めかけていた。それは秋シーズンの主要なストーリーだったのだ。その事が、僕にさらなるプレッシャーをもたらす事となった。

ついに、もはやすべてを内に秘めている事はできないと悟り、僕はホテルの自室からポールの部屋に電話をして、来てくれるよう頼んだ。これは僕にとって重大な分岐点だった。僕はかつて一度も、こういった類の弱みを見せた事がなかったからだ。ポールは何が起きたのかと思いながら、僕の部屋に入って来た。僕は告白した。「ポール、僕はもがいている。セラピストか何かが必要みたいに感じているんだ。リオスとのレースにはほとんど差がない。僕はこの記録をつかみ取るために、一生懸命やってきた。だが、もし得られなかったら、僕はどうなっちゃうんだ?って、馬鹿げた事を考えてしまうんだ。どうやってその事態に対処するんだ?って」

ポールは絶句するほど驚いて、僕を見た。彼にとっても容易な状況ではなかった―――我々が長年にわたって築き上げてきた関係に反するものだったのだ。彼は最初、何を言うべきか分からなかった。しかし実際は、何も言う必要がなかったのだ。話す必要があったのは僕だった―――すべてを明かして、不安を取り除かねばならなかったのだ。僕は自分が抱えている情緒的な問題を説明した。僕は巨大なプレッシャーを感じていた。それはメジャー・タイトルを勝ち取ろうとする時、あるいはエマーソンの記録に迫ろうとする時に感じたのとは異なる種類のものだった。もし記録を達成できなかった時に、起こるかも知れない事を恐れていた。恐れるべき何があったというのか? 良い質問だ。

しかし、これには誇張のない事実としての一面があった。僕が打ち立てようと努めていた新記録は、連続して6年間である事に意味があった。もしそれに失敗したら、翌年に再び挑戦できるようなものではなかったのだ。これは僕が初めて経験する、すべてか無か、という状況に等しかった。もし目標を達成できなかったら、それはキャリア上の失敗として、僕に生涯つきまとって悩ませるだろう。何よりも、僕はそれを成し遂げる寸前まで来ていたのだから。この探求は強迫観念となってきていた。それは秋の間じゅう、僕が胸に抱えていく重しとなり、日に日に重くなっていたのだ。ついに、僕は息を吐き出す必要があったのだ。

ポールはその説明を受けて、それについて考え、そして僕がレースの最終行程に向かえるようにし始めた。彼にできる事がたくさんあったという訳ではない。だが、どれほど僕が自縄自縛になっているかを理解する事で、彼の立場から状況に対処するやり方が、恐らく少し変わったのだろう。基本的に、ポールは僕が弱音を吐ける場を提供してくれた。そして彼の穏やかな激励と、僕が抱えているものへの理解は、非常にありがたかった。彼と話をした後には、気分が軽くなっていた。僕が感情的なより所を必要とする限り―――僕にとっては、馴染みのない必要性だった―――彼はそのより所となってくれたのだ。

この事はテニスの分野、フォアハンドやバックハンドとは何の関係もなかった。僕は疲れて不安定なテニスをしていたが―――ある日は調子が上がり、次の日は下がったりしていた。しかし ATP ツアー側は、ストーリーをフルに活用しようとしていた。表向きは僕への後押しのために、そして同時にツアー側の利得のために。彼らは僕に、ゴールデンアワーのヨーロッパのニュースやトークショーを含め、あらゆるインタビューを受けるよう要求していたのだ。それこそが、僕には必要のないものだった―――フランス版ラリー・キングとのトークショーに出演して、夜にエネルギーと休息時間を浪費する事は。

僕は本当に張り詰めていた。どれほど苦しんでいるかは明かさずに、僕を放っておいてくれるようATP に頼んだ。彼らは要求し続けた。そして、彼らが言うにはフランスで最も人気の高い夕方のニュース番組であるショーに、僕が出演するよう望むと、事態は重大な局面に至った。僕は断固として拒んだのだ:昼の間なら、あなた方が望む何でもするが、暗くなってからは閉じこもる必要があるのだ、と。僕はツアー広報担当のデビッド・ヒグドンと争い、ツアー最高責任者のマーク・マイルズと議論もした。最終的には、僕は態度を軟化させてショーに出演した。

ポールに自分の秘密を打ち明けたのは助けとなった。そして、突如として僕のゲームをいつものレベルまで復活させた訳ではなかったが、僕に少しのエネルギーと自信をもたらした。僕はすべてをつぎ込み、そしてパリ・インドアの決勝戦に進出した。だがまたしても、強烈なサーブを打つカナダから国籍を換えたイギリス人、グレッグ・ルゼツキーに敗れた時、記録を達成するチャンスは僕から逃れていった。何も解決していなかった。いまだリオスは僕を急追していた。事実上、我々は ATP 最終戦におけるトップの座―――そして、僕の切望する記録―――をかけた対決へと向かっていたのだ。僕は考えていた。果たして僕に充分なエネルギーが残っているだろうか?

次はストックホルムだった。リオスとのポイント差をもう少し広げたいと望んでいたが、緊張は耐えがたいほどで、ついに僕はプツッと切れた。それはジェイソン・ストルテンバーグとの試合中だった。僕は自分のプレーにひどく苛立って、ラケットを壊したのだ。ある意味では、とても滑稽だった―――僕のした事にショックを受けたあまり、誰もひと言も発しなかった。主審までが当惑していた。僕に警告も出さなかった。ましてや、コード・バイオレーションと罰金(「ラケット悪用」のための)を科する事さえしなかったのだ。皆はただ目をパチクリとして自答したのだと思う。いや、私がたったいま見たのはピート・サンプラスじゃなかったんだ。ピート・サンプラスはあんな事をしない、と。結局、僕はその試合に敗れた。

最終的に、僕の苦しみを終わらせたのはリオス自身だった。彼は背中を痛め、1試合をプレーした後に ATP チャンピオンシップを棄権して、レースは未決となった。彼はプレーしない限り、僕に追いつく事はできなかったのだ。それはツアーとランキング・システムが目指した、より興味深い状況に対して、盛り上がりに欠ける終わり方だった。そして僕の業績のインパクトを小さくした。だが、僕が気にかけよう筈もなかった。最終対決での決着にならなかった事が嬉しかった。疲れ果てた僕の状態では、何が起こったか分からない。リオスが1年の終了を発表した後、僕は飛行機に飛び乗って家に帰りたい気分だったが、それはすべき事ではなかった。本当にホッとして、ストレスとプレッシャーから解放され、引き続き僕は ATP チャンピオンシップの準決勝まで進出して、アレックス・コレチャに敗れたのだった。


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