第4章 1992年
献身に対する自問自答(4)


USオープンのすぐ後に、ミネアポリスのターゲットセンターに用意した室内クレーで、我々はスウェーデンとデビスカップ準決勝を戦った。クレーは僕にとってベストのサーフェスではなかったから、僕はダブルスにのみ出場した―――マッケンローと共に。その時代最高のダブルスチームの1つだったステファン・エドバーグとアンダース・ヤリード組に対して、我々は真の戦いを耐え抜いた。

これは「ダブルス専門家」として僕が初めて経験するデビスカップだった。そして割り当てられた仕事を自分がいかに楽しんでいるかに驚いた。おおかたの大会ではダブルスは楽しい余興だが、デビスカップではその構成ゆえに主要な役割をになっている。第3試合、そして土曜日に行われる唯一の試合として、ダブルスはデビスカップ勝敗の行方を占う存在なのだ。長期的な成功を収めてきたデビスカップチームには、おおむね素晴らしいダブルスチームが定着していた。初日である金曜日のシングルス試合後には、タイは1勝1敗となる事が多いが、それを2-1リードとする事には重大な意味がある。同じく、重要な機会にパートナーがマッケンローであった事は、僕自身の熱意レベル、あるいは結果を損なうものではなかった。思い出してほしい、史上最高のダブルスチームを尋ねられた時に「ジョン・マッケンローと誰か」という名言を吐いたのは、マッケンロー自身の長年のパートナー、ピーター・フレミングだったのだ。

引き続き1992年の決勝戦では、我々はテキサス州フォートワースの室内ハードコートでスイスチームを迎え撃つ事となった。ゴーマンは、恐らくまだリヨンでの出来事を気にかけていたのだろう、安全を期する事に決めた。彼は好調のクーリエとアンドレをシングルに指名し、僕をダブルスに据えて、再びジョニー・マックと組ませた。

僕はそれで満足だった―――すでにアンドレは、デビスカップの優れたシングルス・プレーヤーである事を証明していた。彼は感情に動かされる男で、熱狂に自らを乗せる。ジムはデビスカップの戦士として、アンドレと共にいた。彼は自分のすべてを出しきり、意志が強く、そしてプレッシャーの下でもとても冷静だった。我々は恐らく、史上最高の―――そしてかなり頑固な一団の―――デビスカップチームを形成していたのだ。開会式では、プロモーターは我々にテンガロンハットを被せたがり、ジムはそれにぞっとしない様子だった。彼は「僕はそんな馬鹿げた帽子は被らない!」と言い捨てた。したがってカウボーイハットは無しとなった。

スイスはヤコブ・ラセクとマルク・ロセという、非常に頑強な2人でチームを形成していた。両者とも速いコートが得意で、たいていのヨーロッパ人がより遅いクレーを好む事を考えると、それは例外的だった。ホームコート / コートスピードへの我々のアドバンテージに関してはこのくらいだ。ラセクはシングルスではキャリアの中ほどにあった。そしてロセは強力かつ油断のならないゲームを持つ男だった。彼は数カ月前のバルセロナ・オリンピックでシングルスの金メダルを獲得し、キャリア最高の栄光を遅いクレーで実現したが、サーブ&ボレーもできた。

アンドレは開幕試合で勝利したが、その後ロセはジムを番狂わせで倒し、気概を見せつけた。マッケンローと僕は、突如として重大な意味を持つようになったダブルスで、ラセクとロセに対戦する事となった。そして我々が最初の2セットを共にタイブレークで失うと、小国のスイスがデビスカップで最もショッキングな番狂わせを引き起こすかに見えた―――しかも合衆国の地で。

ジョンはいわゆるマッケンロー・ムードにあった。試合の間じゅう、彼はラセクをこきおろしていた。ラセクは非常に物静かだが、自分の職分を守り、誰とでも上手くやる冷静な男だったのだが。ジョンは苦しんでいて、危うく自制を失いそうになっていた。だが彼は他の誰とも違っていた。彼は怒り狂った後により良いプレーをするという事がよくあったのだ。最初の2セットではラインの判定が何回か微妙に見え、第3セットでもう1回、明らかな誤審をコールされた時、ジョンはついに我を失った。彼は審判に文句をつけ始め、それがずっと続いた。大会役員に、そして我々の監督であるゴーマンにも怒鳴りつけた(さらに騒ぎ立てず、そして「我々を擁護」しない事に対して)。問題のポイントが終わった後もずっと、何についても彼はとにかく激怒していた。

ついに、僕は我慢ならなくなった。僕はジョンに食ってかかり、言い捨てた。「ジョン、もうそれは終わったんだ。済んだ事だ。3ゲームも前に起こった事をあれこれ言うのはやめよう。今は先へ進むべき時だ」と。どういうわけか、僕自身の小爆発は2つの喜ばしい結果をもたらした。ジョンを落ち着かせ(口調でないにしても感情的に)、そして僕を鼓舞したのだ。我々は第3セットを勝ち取り、当時は第4セットが始まる前にあった10分間の休憩のために場所を移動した。休憩を終えた時、ジョンと僕は荒々しい目をし、内なる炎を燃やしていた。それは僕が感情を爆発させた稀な機会だった。僕は拳を振り上げ、そして叫んでいた。マッケンローは「よし、奴らの尻を蹴っ飛ばそう」と千回は言ったに違いない。我々は道をかき分けるように進み、拳を振り上げ、叫び、あまりスマートではなかったが、際立つ勝利、第5セットを6-2で勝ち取ったのだ。

その試合で僕はとても感情的になったが、総じてジョンと僕はまるでジキルとハイドのような取り合わせだった。僕は冷静で前向きな傾向があり、彼は短気で瞬間瞬間に没頭し、常に口論の機会をうかがっていた。彼はそれを生きがいにし、僕はそれを理解した。我々はお互いに上手くやっていた。たとえ僕はそれを見せなくても、彼は自分の感情的な爆発で僕を鼓舞した。そして僕は自分の自制心で彼を落ち着かせた。彼は、外見的には相変わらず論争好きの激しやすい選手ではあったが。

翌日、ジムがラセクを下してタイの勝利を確定し、僕はデビスカップ・チャンピオンになった。自分が決勝戦でダブルスしかプレーしなかった事は、まったく問題ではなかった。僕は1年を通してタイに出場してきたのだ。僕は合衆国のためにすべてのシングルスに出場したかのように、我々の意欲でカップを勝ち取った事に誇りを感じ、そしてチャンピオンの称号を与えられたように感じたのだ。


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