第8章 1997〜1998年
ウィンブルドンは永遠に(6)


ウィンブルドンでは好調で、準々決勝からはマーク・フィリポウシス、そして友人でよく一緒に練習もするティム・ヘンマンを続けざまに破った。

決勝戦では、ゴラン・イワニセビッチと対戦する事になった―――再び。しかし今回は、何か奇妙な予感があった。僕は表面上、冷静で自信に満ちていたが、内部ではもしかしたら今回はゴランの番かも知れないと感じ取っていた。彼は何回も、あと少しのところまで来ていたのだ。ウィンブルドンは彼にとって、他の何よりも重要な大会だった。ある時点で彼が壁を乗り越える事に疑いはなかった。その時までにサーフェスのスピードは変化していたが、たとえ水風船でプレーするとしても、彼と僕はエースを叩き込むつもりでいた。我々はなお、そういったメンタリティを持っていた。多分それが、時代が変わってきても我々がそのようなプレーをできた大きな理由だったのだろう。ゴランは準決勝ですさまじいパワーサーブを見せつけて、第5セット15-13でリチャード・クライチェクとの接戦を制していた―――第4セットで2本のマッチポイントを生かし切れなかった後に。

決勝戦の第1セットは、タイブレークの末にゴランが勝ち取った。そして第2セットでは、彼は2本のセットポイントを握った。僕の予感は現実になろうとしているかに思えた。しかしそれから、彼はほんの数インチ重大なショットをミスしたのだった。そして僕は緊迫したタイブレークを制して、そのセットをなんとか勝ち取る事に成功した。窮地を脱して1セット・オールとし、試合をイーブンにした事は大きかった。そして僕は少し気が楽になっていた。多分、僕の勘は間違っていたのだろう。ゴランは伝統的な容赦のないグラスコート・テニスで、大槌を振り下ろすチャンスを握っていたが、不安定になってきていたのだ。

ゴランとの対戦では、いつも僕はそこここでの失敗、不注意なエラーを期待していた。最も肝心なのは集中力を保ち、そういった好機をすばやく捕らえるよう切望し続ける事だった。我々は互いに爆弾を投下し続け、それぞれ1ブレークで次の2セットを分けた。第5セットに入ると、疲労がゴランを捉え始めたのを見てとる事ができた。第5セットでは、彼は試合全体で32本のエースのうち2本を打っただけだった。そして僕は第5セットを6-2でやすやすと終えたのだった。

敗戦の後、ゴランは悲嘆に暮れていた―――彼は敗戦を、前の試合でクライチェクを4セットで退けられなかった事から生じた、エネルギーの損失のせいだとした。その後の記者会見で、僕はゴランへの同情を表明して「大会のこの段階では、ゴランと僕を分けるものはほとんど何もなかった。僕はかろうじて勝利をものにできただけだ」と語った。だが僕と同じく、ゴランは現実主義者だった。彼は自分が僕を掴まえたのに、窮地を逃れさせてしまったと分かっていたのだ。後に彼が語ったように。「今回はオレにチャンスがあった。彼は良いプレーをしていなかったからだ。1994年の時は、我々は2セットを戦い、そして第3セットで彼はオレを殺した(その決勝戦でのスコアは7-6、7-6、6-0だった)。だが今日は大接戦だった―――すべてが。興味深い展開だったが、今はオレの人生で最悪の時だ。これまでも辛い時はあった。病気とか誰かが亡くなるとかもある。だがオレの場合、これは今までで最悪だ。まだ誰も死んでいないからな」

この典型的なグラスコートでのサービス合戦には、相変わらず不満も存在していたが、より多くの人々は、ゴランと僕がウィンブルドンの試合で披露した、凍りつくような緊張感を伴う最小限のプレーによる荘厳さを、正当に評価してくれているように思えた。それは我々双方がそこでプレーしてきた他の試合の大方とは異なるものだった。僕に最大の誇りを感じさせてくれるキャリア統計の1つは、ウィンブルドンで最も一貫した、そして最も危険なライバル、ゴランに対して、僕が3勝1敗の成績を収めたという事だ。


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