第7章 1996年
戦士の時(6)


USオープンへと向かう夏のハードコートシーズンは、常に派手さを控えたものだった。オープンはてんやわんやの大会だが、それに向けての大会群は、中部地域のリラックスしたイベントなのだ。インディアナポリスとシンシナティは最大の大会の2つだが、それでも1つの開催地から次の開催地まで、午後の間に車で移動が可能だ。そしてそれぞれが各地域の雰囲気を少しずつ備えている。我々選手たちはインディあるいはシンシィに到着すると、いつもの冗談を交わした。顔を合わせて肩をすくめ、「同じたわごと、違う年」と言い合ったものだった。

シンシナティでは準々決勝でトーマス・エンクイストに敗れたが、インディアナポリスでは優勝して、ゴランに対するキャリア勝敗記録を8-6に向上させた。僕はニューヨークへと向かいながら、1年に少なくとも1つのメジャー大会で優勝するという連続記録を4に延ばす事について、良い見通しを感じていた。さらに、ドローは僕に都合良く開かれていった。準々決勝の前に当たる唯一の大物選手はマーク・フィリポウシスだったが、ストレートセットで片付けた。そしてアレックス・コレチャとの準々決勝へと向かった。彼はおおむねクレーコートの粘り屋として知られていたが、ハードコートでも何回か良い結果を挙げていた。僕はタフマッチを予想していた。

試合に先立っては、話題となるような事はほとんどなかった。おおかたの人は、少なくとも合衆国では、僕がコレチャを問題なく打ち負かすだろうと見ていたのだ。だが準々決勝の段階ともなると、僕は常に相手が誰であろうと警戒した。そして何事をも当然とは受け止めなかった。その日の出来事を決定づけたかも知れない1つの事は、僕が燃料不足で試合に臨んだという事実だった。僕はプレーヤーズ・ラウンジで昼食を食べたが、前の試合が予想外に長引いた事を覚えている。コートに立ったのは、午後4時頃だった。コートへ向かう前に軽食―――クッキー、バナナ、パンなど―――をとるべきだったのだ。

その日はかなり暑かったが、時にオープンで経験するような灼熱地獄というほどではなかった。だが僕はひどく汗をかいていた。そしてアレックスはあり余るほどのゲームを持ち込んでいた。彼は僕をベースラインの闘いに引き込み、大いに働かせたのだ。アレックスは粘り屋が速いコートのゲームに持ち込みうる、最も基本的な戦略を用いていた。ファーストサーブを僕のバックハンドにキックさせ、攻撃的なリターンでポイントの主導権を握らせないようにしていた。

彼がそれをすると、僕がリターンを強打できる可能性はあまりなかった。そして彼は素早くバックハンドを回り込む事ができ、(彼の)フォアハンド対(僕の)バックハンドのラリーへと持ち込み、僕をベースラインに釘付けにした。僕が大胆にも、空いているフォア側のコートに強烈なバックハンドでストレートを狙おうものなら(思い出してほしい。彼はバック側のはるか彼方に立っていたのだ)、彼はそこへ駆けつけ、ベストショットのクロスウィナーを叩き込む事ができるだろう。僕がネットへ攻撃すれば、彼は余裕をもってパッシングショットを打つだろう。

コレチャのような粘り屋は、いかに相手を自分の術中に陥れるか熟知しているのだ。ポールは骨折って強調した。「これはあの手のタイプがしたがる事だ。彼らはこれが好きだ―――彼らが君やベッカー、エドバーグのような男を倒しうる唯一の勝算なのだ。だから、君はその戦術を粉砕しなければならない。チップ&チャージを仕掛けなければならない。あるいは強烈なバックハンドでダウン・ザ・ラインに攻撃しなければならない。彼らを快適なゾーンから遠ざけなければならない。なぜなら、もし君がそうしないと、彼らが君を快適なゾーンから遠ざけるからだ」

だが僕はポールの強調するアドバイスを無視して、コレチャに対して片意地になっていた。アレックスの手中でプレーしていて、それを自分でも分かっていた。だが僕は自分のサービスゲームをキープしていた。そして相手の得意とするゲームで彼を打ち負かそうと決意していたのだ。長い時間、僕は喜んでラリーをし、強烈なフォアハンドを放つ好機に備えていた。2セット対1セットのリードとしたが、第4セットの序盤では落ち着かない気分を感じ始めていた。ポイントの進み方が気に入らなかった―――アレックスはまったく調子を落としていなかったのだ。僕はネットへ詰めてポイントを決めるため、懸命に努めなければならなかった。疲れてくるにつれて、心の中に狼狽が忍び寄り始めた。

アレックスはゲームを型にはめていて、その事が僕を不安にしていた:僕は愚かにも、ずいぶんと長い間、彼のゲームに付き合っていた。催眠術にかかったような状態だったのだ。何かを変えるべきだとは分かっていたが、その時までに僕は疲労をきたしていて、プレッシャーを感じ、ストレスが溜まっていた。そして既に出来上がってしまったリズムをどう回避すべきか、不確かだった。心が弱ってきた時に頼みとしなければならないのは、意志と気骨だ。

第4セット半ばには、僕の脚は動かなくなり始めていた。脚は重く、いつものバネはほとんど残っていなかった。そういう状態になると、ゲームは必然的に低下してくる。サーブの時にも高く伸び上がれず、ボールへ向かって爆発的な第一歩を踏み出す事ができないのだ。コーナーからコーナーへと効率的に動いたり、上手く方向を変える事ができなくなる。そして対戦相手がそれに気づくと、たとえ彼も同様に疲れているとしても、それを感情的なエネルギー源とするのだ。この試合は、僕が助かるためには、何らかの途を見つけ出さなければならないという様相を呈していた―――何であろうと。

7-5のセットが3回続いた後に、コレチャは第4セットを6-4で勝ち取った。第5セットの序盤は互いに苦労して進めていたが、僕はコーラを飲み始めた。僕は何かを必要としていたのだ―――気付け薬、少量の砂糖、少量のカフェイン―――ひどく必要としていたのだ。そして、これが1996年にメジャーで優勝する最後のチャンスで、それが消え去ろうとしている事を承知していた。自らに課したプレッシャーは、事態をさらに悪化させた。僕は気持ちが滅入り、めった打ちにされ、そして疲れ切っていた。だがそれでも足を前に進める事ができた。戦い続ける事が可能だった。

第5セット終盤には、疲れはピークに達し、死にそうな気分だった。だが心の奥底で、1つだけ勝つチャンスがあると知っていた―――生き延びる唯一のチャンスが。これはUSオープンで、それは第5セットもタイブレークがある事を意味していたのだ。とにかく踏み止まり、タイブレークまで行くのだと自分に言い聞かせ続けていた。だがその時までには、めまいがして、物の周辺が少しぼんやりと見えていた。そこで自分に、たとえ何が起ころうとも、切り抜ける事ができると言い聞かせた。最短なら7ポイントで終わりうるのだ。それは単なるタイブレークで、僕は以前に百万回からプレーしてきたのだ。そして永久に続く事はなかったのだ。

タイブレーク1-1で、すべての痛みと苦しみ、緊張感が僕に襲いかかり、具合が悪くなった。背中はケイレンを起こし、足は棒のようで、思い通りに動かなくなっていた。タフなポイントをプレーして、そして突然、こう認識したのを覚えている:なんてこった、吐きそうだ。吐いてしまうんだ―――いまいましい世界全体が見ている前で!

それは吐き出され、僕には止めるすべがなかった。僕はベースライン後方へとよろめいて行き、そしてコーラやら酸やら何もかも―――幸いにも、それほど多くはなかった―――胃の中に残っていたものが吐き出された。だがそれが実際に起こるまで、僕は気にかけていなかった。耳がよく聞こえなかったし、物もよく見えなかったのだ。自分がどう見えるか、あるいは誰かがどう思うかなど気にしなかった。僕は小さな自分だけの痛みの世界にいた。そしてどれほど具合が悪かろうと、試合を捨てるつもりはなかった。こんな風に吐く時は、練習セッションでもたまにあったが、自分が絶対的な限界―――引き返せない段階―――に達しているというハッキリした徴候だ。だが僕は続ける必要があった。もう何ポイントか切り抜けなければならなかった。僕はよろよろと歩き回り、感覚は鈍く、身体は疼いていた。厳しいポイントをプレーして、それを切り抜けたのを覚えている。追いつくにはあと2ポイントだった。戦術的に1つか2つの事だけ考えるのだとよく分かっていた。自分のすべてをサーブに注ぎ込なければならなかった。そしてもしフォアハンドを打つ機会がきたら、それに乗じなければならなかったのだ。

タイブレークは6-6、僕がサーブを打つ番までたどり着いた。決断すべき時だった。ファーストサーブでラインぎりぎりを狙い、そして失敗した。セカンドサーブは彼のフォアハンド・ワイドへと行った。そして、最大級の幸運、アレックスはバックハンドを予測していたのだ。フォア側はがら空きだった。そのエースが、僕にマッチポイントをもたらしてくれた。その段階までに、会場の雰囲気は極限まで過熱していた。観客はスタジアムのへりを掴んでコートへと身を乗り出し、絶叫して僕を激ましてくれていた。僕は知らなかったが、合衆国および世界じゅうにわたって、人々はそのドラマ全体に引き込まれ、多くの場所で物事がまったくの停止状態になっていたのだった。

そしてアレックスは怯んだ。彼はこの状況で、1つの許されざる事をした:マッチポイントでダブルフォールトを犯したのだ。僕は勝利した、1歩も踏み出す必要なく―――踏み出せなかったかも知れない1歩だった。

僕は力尽きた状態でコートから去った。脱水症状を起こし、朦朧とし、そして自分が醜態をさらしていた事に漠然と気づいていた。僕はルイ・アームストロング・スタジアムの下にある医務室へ直行し、倒れ込んだ。医師たちは素早く点滴をしてくれた。ポールはロッカールームから僕の荷物を引き上げ、そして最終的に我々が医務室から出るためにドアを開けると、部屋を張り込んでいたマスコミ陣の顔また顔が目に入った。

だがその日、僕はマスコミに話をする必要はなかった。彼らはすでに彼らなりの物語を創り上げていたのだ。多かれ少なかれ、書かれたのは1つの事だった。コレチャ戦は僕を定義する試合として、早くも皆の心に刻み込まれた―――戦士の時と。僕は幸運だった。なぜなら他の選手たちもそのような試合に勝つ事はあったが、こんなにも人目を引く、決定的な場面でそれをした者はほとんどいなかったからだ。もしUSオープンの代わりにモンテカルロの2回戦か何かで、僕がアレックスに対してまさに同じ試合をしたのだったら、同様の衝撃は与えなかっただろう。おおかたの合衆国の新聞では、総括ニュースコーナーの脚注程度だったかも知れない。

だが、それはUSオープンの準々決勝だった。グランドスラム大会で、僕の母国のメジャー大会だった。「労働者の日」の直後で、皆が休暇から戻っていた。国際的な記者団が見守る中で、そして世界じゅうのテレビ視聴者の前で、ゴールデンアワーに起こったのだ。したがって特別な何か、世界じゅうが見て、誰もが意見を述べるような何かになったのだった。

それまでニューヨークの大衆は、僕には扱いにくい相手だった。彼らがはたして僕、あるいは僕のゲームをそれほど好いていたかは分からない。彼らは怒鳴りちらす大げさなショーマンに馴染んでいた。素晴らしい競技者ではあっても、必ずしも優雅あるいは模範的ではない選手たちに。ジミー・コナーズとジョン・マッケンローというペアの出し物に打ち勝つ事は難しい。たしかに、僕は滑らかで自然なゲームを持っていた。すでに半ダースのメジャーで優勝していた。だが僕はあまりブロードウェイ的ではなかった。大して派手でもなかった。彼らは僕が本当に気概を持っているのかよく分からず、そしてどの程度までのファイターなのかを理解していなかったのだ。コナーズとは違って、死力を尽くすという点で、僕はまだ広く知れ渡るような事をしていなかった。ニューヨーク市民の典型である懐疑的な彼らは、自分たちが何を受け入れているのか、よく分からないでいたのだ。

コレチャ戦の後、彼らはついに納得したのだった。


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