第6章 1994〜1995年
栄光の門(5)


春と夏の大半、僕の中ではデビスカップは二の次となり、アンドレの事が頭にあった。そして大きな期待を抱いてヨーロッパへと向かった。僕のような攻撃的スタイルの選手がローラン・ギャロスに優勝する事は、歴史的にどれほどの意味があるか、ティム・ガリクソンは承知していた。だから我々は、課題と準備にとりわけ懸命に取り組んできたのだった。

僕はローランギャロスへ向けた4大会に出場し、その3大会で初戦敗退を喫していた(ハンブルグでは準決勝に進出した)。そしてメインイベントであるローランギャロスでは、1回戦でオーストリアの職人的選手ジルベール・シャラーに、第5セット6-4で敗れた。苦しい時だった。四方八方から物事が僕を押しつぶしてくるように感じられた。アンドレは新しい脅威だった。彼は2年間僕のものだったナンバー1順位を奪い去っていた。僕はいまだ胃カイヨウからの回復途上にあり、デビスカップで合衆国はいまだ生き残り、手に余る状況だと感じていた。さらにティムの病状があった。彼はヨーロッパへ旅する事ができず、彼のいない事が寂しかった。

良かったのは、ポール・アナコーンとの関係がいっそう上手くいくようになっていた事だった。公式にはティムがなお僕のコーチで、彼が奇跡的な回復をするまでは、そのままでいくつもりだった―――あるいは最悪の事態が訪れるまでは。ポールと僕は、後者に備えなければならないと承知していた。僕は数回ティムを見舞い、彼は元気を装っていたが、前回より良くなっているようには見えなかったのだ。彼は孤独な闘いを続けていたが、実りある、そして満足のいく人生をできる限り長く送ってほしいと我々は望んでいた。

6月、ローランギャロスのすぐ後に、アンドレと僕は「ゲリラテニス」コマーシャルのシリーズを撮影した。そのCMは、来たる夏のハードコート大会、USオープンの時期に放映が予定されていた。それから間もなくして、僕はクウィーンズとウィンブルドンという2つの大きな芝の大会で優勝し、クレーでのお粗末な成績の埋め合わせをした。3年連続のウィンブルドン・タイトルだった。ボリス・ベッカーに対する4セットの勝利は傑出したものではなかったが、世界最高の大会と僕の関係において、1つの頂点だったと僕は見なしている。

初めてウィンブルドンで優勝した年、僕は退屈な男で、ジム―――僕が倒した男―――も退屈だとされた。それは性格的な事柄だった。2年目にウィンブルドンで優勝した時は、テニスが退屈―――決勝戦でゴランと僕がプレーした方法が退屈だとされた。それは技術的な、ゲームに関する事柄だった。しかし1995年までには、クラブはより遅いボールを採用していた。そしてゴランとの準決勝では、またしても容赦ない5セットのサービング・コンテストをしのいだものの、パワーテニスへの激怒を一時的に再燃させた。しかしベッカーとの決勝戦は、友情とスポーツマンシップに満ちた戦いで、最も気難しい目利きをも喜ばせるものだった。

イギリス人はベッカーを愛していた。そしてこの試合で、彼は僕に世代のバトンを手渡しているかのようだった。ボリスが僕へこのような敬意を抱いているのなら、僕はけっこうな選手の筈だと観客は感じたに違いない。また、僕はウィンブルドンで論争に巻き込まれてきたが、それに傷つきはしなかった。大会を最高無比のものと語ってきた―――口にしたすべての言葉が、それを意味していた。僕はゆっくりとイギリス人を味方につけていった。僕への敬意が増してくるのは嬉しかった。なぜなら僕のイメージ、あるいはウィンブルドンのファンが僕についてどう感じているかにかかわらず、ウィンブルドンに対する僕自身の愛情は、年を追うごとに増してきていたからだ。その場所を愛し―――そしてついに、僕もまた愛されていると感じるのは素晴らしい気分だった。

ウィンブルドンに出場し始めた頃は、僕はセント・ジェームズに泊まっていた。公式プレーヤーズ・ホテルの1つで、ロンドンの中心街にあった。だがビョルン・ボルグの時代からずっと、賢明な男たちは、ウィンブルドン・ビレッジで家を賃貸するのがベストだと知っていた。そこはオール・イングランド・ローンテニス&クリケット・クラブ(ウィンブルドンを開催する正式な場所の名前だが、大会は非公式に街の名前で呼ばれているのだ。USオープンがかつて、しばしばフォレストヒルズと呼ばれていたように)からちょっと丘を上がった高級住宅街だった。僕が初めて賃貸し、その後何年もの間滞在した家は、クリフトン通りにあった。そして―――この事を考えると、今でも笑ってしまうのだが―――「ボルグ」という一家が所有していた。本当に。

ボルグ家の人々はまがい物ではなかった。彼らは大会のために、テニスをする同名の人物と同じくらい充分に役目を果たしてくれた。僕は2週間のウィンブルドンのために、およそ10,000ポンドの家賃を支払っていた。年によっては20,000ポンド近い事もあった。長きにわたって、僕はさらに多くを支払い、フレンチ・オープンの直後からウィンブルドンの間じゅう、1カ月間その家を借りるようになった。僕が契約を解除した後は、たしかロジャー・フェデラーがボルグ家を借りた筈だ。その歴史を考えれば、どうして彼を責められるだろうか?

僕は冷房に関して少しばかり神経質だった。ひんやりした暗い部屋で眠るのが好きなのだ。そこで、クリフトン通りに滞在するようになって僕が最初にしたのは、移動式の冷房装置を手に入れる事だった(イギリス人は冷房が好きではないのだ)。寝室にそれを設置し、そして毎年毎年、それは僕を待っていてくれた。僕は家で心地よいシャワーを浴びた。キャリア初期の頃、僕はあるフランス人選手が大会のシャワールームで用を足しているのを見かけ、その日以来、共同のロッカールーム・シャワーは決して使わなくなった。どんな状況であれ、僕はアパートかホテルに戻ってからシャワーを浴びるようになったのだ。

また、シェフのカールステンを帯同した。彼女は南アフリカ出身で、ごく最近の仕事は、全英オープン・ゴルフ大会の最中にタイガー・ウッズのために料理する事だった。カールステンは僕の食事を作ってくれたが、僕はごく簡単なもので満足していた。朝食はワッフルとスクランブルド・エッグ、そして1杯のコーヒーだった。彼女は時々サンドウィッチを作ってくれ、僕はそれを会場に持参したものだった。特に、ヒッティング後にその場を離れる必要のない日や、試合の前には。彼女が作ってくれる夕食はヘルシーで、栄養価も高く、そしてシンプルだった。チキンと新鮮な野菜、自家製ソースをかけたパスタ、そういったものだった。

時にはビレッジや、ウィンブルドン街のサンロレンツォ・レストランに出掛けたりもした。そこはイタリアン・レストランで、選手たちが長年たむろしてきた場所だった。たまには映画を見に行く事もあったが、それだけだった。全体的には25パーセントくらいしか外出しなかった。時折、僕はウィンブルドン・コモンと呼ばれる広大な公園に出掛け、トレーニングをしたり、ただ散歩をしたりした。コモンは美しく穏やかな場所で、ビレッジそのものも活気はあるが、驚くほどマスコミやパパラッチはいなかった。

一方ポールは、ロンドンの賃貸アパートに滞在していた。我々の双方が自分だけのスペースを必要としていたからだった。我々は1日じゅう一緒にいたが、目覚めた時にプライバシーがあるのは良い事だった。僕はそれが好きだったが、時には孤独を感じもした。カールステン以外に話をする相手のいない事もあり、彼女と少し世間話をしたが、そんなものだった。僕の生活ぶりは少しばかり修道僧のようで、唯一の例外は、夕食に友人を招待する事だった―――ポールや、トッド・マーチンと彼のコーチ、ディーン・ゴールドファインなどだ。

かつて、どんな風にロンドンが好きかと尋ねられた時、僕は語り草となった受け答えをした。合衆国に戻るのが待ちきれない、そこではテレビで ESPN 局を見て、夕食ではチーズバーガーとフライド・ポテトを食べられるからね、と答えたのだ。半分は冗談のつもりにすぎなかった。イギリスのテレビは徐々に充実してきていたが、初期の頃は4チャンネルしかなく、そのうちの3つは、ベルギーのレースドイリー産業についてといった6時間のドキュメンタリーを放送していたのだ。間もなく衛星放送の時代に入ったが。ボルグ家の人々は、衛星アンテナと初期の薄型テレビを買い求めた。それを見た時、僕は驚いた。彼らにこんな余裕があるのか? そして理解したのだった………(僕の発言を聞いたのだと)

カールステンは僕が必要とするタンパク質を食事で満たしてくれた。そしてチーズバーガー発言については、いつもは節制していた。だが僕には自分を甘やかす、ささやかな1つの儀式があった。毎年、決勝戦の翌日の朝には、カールステンに伝統的なイギリスの朝食を作ってもらっていたのだ。ベーコン、卵、揚げパン、ソーセージ、豆、フライドポテトなどだ。この美味しくて油っこい食事は素晴らしかったが、それを食べた後はいつも、胸がむかついたものだった。

優勝した年の他の道楽としては、当時暮らしていたタンパに戻るとすぐに、地元のチェッカーズ・ファーストフード店に行って、大きいハンバーガーとフライド・ポテトにありつく事だった。僕はワインを飲まないが、ウィンブルドン・チャンピオンズ・パーティーは例外だった。たいていは水を飲んでいたが、時にはコークを楽しむ事もあった。これはウィンブルドンだけではなかった。出場するどの大会でもおおかた同様だった。僕は栄養摂取に関して自制心が強かった。プレーヤーズ・レストランでこってりしたクリームソースをかけたパスタ、大きなステーキとジャガイモの昼食にケーキとアイスクリームを詰め込んでいる選手を見て、僕には強みがあるとしばしば感じていたものだった。

ロンドンでは週に3回メイドが来て、洗濯とベッド・メイキングをしてくれた。僕は袖を通す前に少なくとも1回は洗濯されたテニスウェアを着るのが好きだった。通常ナイキが新しいデザイン(常にグランドスラムの直前で、したがって年に3〜4種類となった)を発表すると、15〜20組のシャツとショートパンツが送られてきて、次の新しいデザインが出るまでは、それを身につけていた。イワン・レンドルのように、試合ごとに真新しいシャツを着る事はなかった。それは面白い光景だった。イワンがUSオープンのロッカールームに座って、準決勝か何かの大試合に向かう前に、新しいシャツのボタンから小さなひも付きタグを外そうと悪戦苦闘していたのだから。

僕は新しいナイキ・エア・モデルに切り替える時までさかのぼって、テニスシューズにはずっと問題を抱えていた。ウェアとシューズの会社はしばしば、販売を促進しているデザインに合ったシューズに切り替えさせたがったが、僕は受け付けなかった。ナイキ・エア・オシレイトを見つけた時、それは軽いが充分な丈夫さとサポート力を持っていて、僕はそのモデルに固執したのだ。ナイキもまた、そのモデルをたくさん売ったのだが。

あらゆるシューズ製造業者は、底に格子状の小さくて短い突起の付いた、グラスコート用の特別なシューズを作っている。突起は柔らかくて小さいスパイクのようなものだった。僕は突起がすり減りすぎるのは好まなかったが、同じく、何人かの選手がするように、試合のたびに新しいシューズに替えるのも好きではなかった。概して、芝生以外のたいていのコートでは、すり減ったシューズを履くのが好みだったのだ。だから新しいシューズで練習をして、1〜2試合はそれを履いてプレーした。それからそのシューズを廃棄して、新しいものを使い慣らすようにしていた。したがって、ウィンブルドンでは1足のシューズを使う最大が、1回の練習と2試合だった。

ナイキとは、情報に通じている事が重要だった。彼らがデザインや工場を変えると、どんなサイズのものが手に入るのか、まったく分からなかったからだ。ジム・クーリエと僕は、それに閉口して不平を言っていた。「色やパターンは好きにしていいが、ショートパンツの丈やシューズの中底のカットは変えないでくれ」と言ったものだった。時には前回と違う工場から1かかえのシューズが送られてきて、自分の足に合わせた特注の中敷きを入れるのにひどく苦労した。もちろん、トッププロは自分のシューズやウェアがぴったり合うかといった事に関して、よりうるさい傾向はある。そして我々のあら探しは、ナイキの社員を気も狂わんばかりに追いつめていたに違いない。驚くかも知れないが、彼らは我々のために特注のシューズは作っていなかったのだ。

ウィンブルドン・ビレッジでは、わずらわしい事はほとんどなかった。ある時2人の子供がドアをノックして、サインを求めてきた事があったが、僕は喜んで彼らにサインをした。毎日、オール・イングランド・クラブに電話をするだけで、すぐさま迎えの車が来てくれた。クラブへは5分で到着し、練習か試合をした。クラブ自体はとても居心地が良かった。1990年代後期の改修に関する大騒動の後でさえ。改修までの伝統は、2つのロッカールームがあるという事だった―――シード選手用のかなり大きく設備の整ったもの(「A」ロッカールーム)と、中堅選手・ジュニア・その他用のより小さなもので、そちらはメイン・クラブハウス / センターコート複合施設とは別の場所にあった。

僕はかなり早期にAロッカールーム入りを果たした。だが馬鹿げた事に、そこは窮屈どころか、恐らくBロッカールームよりも混雑していた。そこにはすべてのシード選手に加えて、彼らのコーチ、元チャンピオン、年輩の人々、そしてクラブメンバーがいたのだ。人で溢れかえっていた。彼らは座ってバックギャモンやトランプをしたり、あるいは話をしていた。たいてい僕はただ座って、話を聞いていた。僕にとってあのロッカールームに関する最も忘れがたい事は、そこから階段を降りて小さな待機室を抜けるとすぐに―――神聖なセンターコート上にいるという事だった。

待機室にはドアの上にキプリングの有名な引用が掲げられている。「もしも、勝利と大敗に遭遇しようとも、そのはかなき虚像を同じように扱えるのなら………」誰もがその額について、どれほど意味があるか、センターコートへの登場を待つ選手の背筋をいかにぞくぞくさせるかを語る。それはかなり劇的だ。部屋の中にいると、開いたドアからセンターコートの緑の一部が見え、それが短く暗い通路の向こうに日光で輝いているのだから。だが僕がいちばん覚えているのはトロフィーだ―――シングルス・トロフィー。それは常にドアの左側に収まっていた。

スティーブ・アダムスはその小部屋の付き添い人で、彼の仕事の公式名はマスター・オブ・セレモニーという。そして彼の職務は、用意がすべて整うまで選手をそこに留めおく事だ。通常は、2人の対戦者が揃うと、スティーブは最初にセンターコートに出ていって、何も問題のない事を確認する―――ロイヤルボックスの人々は着席しているか、主審は準備ができているか、観客は席についているか、ネットはチェックが済んでいるか、などだ。それから戻ってきて、快活な、感情をまじえない声で言う。「紳士の皆さん、準備万端です。王族がいらしています。お辞儀をしなくてはなりません………」

僕のキャリア後期には、アダムスは僕の隣りに立つ気の毒な男に向かって、こんな風に言う事もあった。「ああ、ただピートのする通りにしてください。彼は何をすべきか分かっています」

そして僕は考えていた。それはこの気の毒な男にどう感じさせる事になるんだ?


戻る