第5章 1993〜1994年
炎の下に秘めた品位(5)


僕のテニスの使命は、あのウィンブルドン・タイトルによって定義し直された。新しい命題は、僕が支配的なチャンピオンであると証明するために、多くの試合に勝つ事だった。課題は与えられた才能を手放さない事だった。僕はこの先たくさんの試合で負ける、その事は承知していた。1年に100試合以上を戦い、驚異的な数の選手とゲームスタイルに対して、どうやって負けずにいられるというのか?

僕は様々な理由で試合に負けた。怪我、エネルギーの不足、出来のまずさ等々―――そして最も納得しやすい理由で。日によっては、すべてを僕よりも上手くこなした相手によってやっつけられたのだ。時には非常に重要な日にも。それは起こるのだ、だが信用してほしい―――それは悩んでも仕方のない事なのだ。僕は人生の早い段階で、試合に負けるすべを学んでいた。しかし1993年、僕はついに学びとったのだ。疲れていたり、あるいは落胆したり投げ出してしまいたい誘惑に駆られた時にも、試合に勝つすべを。自分の自負心、そして内に秘めた決意を用いるすべを学ぶと、僕は背中に標的を負った存在である事が、より快適に感じられるようになった。僕は若者ならではの不安定さを乗り越えて、集中し、これから巡ってくるすべてのグランドスラム・タイトルを狙う準備ができていた。それは平穏な航海のようにも見えた。だが、物事が期するとおりに運ぶ事は滅多にないのだ。

ウィンブルドンの後、僕は得意のサーフェス、屋外ハードコートで4つの大会に連続して敗退した。だがそのうちの3大会(ロサンジェルス、シンシナティ、インディアナポリス)では、かなりのところまで勝ち進んだ。準決勝2回と準々決勝が1回だった。そしてグランドスラム・チャンピオン(あるいは将来のグランドスラム・チャンピオン)にそれぞれ(リチャード・ クライチェク、ステファン・エドバーグ、パトリック・ラフター)敗れたのだった。

USオープンには良い感じで臨んだ。そしてその年は、盗ってくれと言わんばかりに金塊を残したまま開いている銀行の金庫室さながら、ドローが開けていく年だった。僕がオープンで対戦した最もタフな男は、準々決勝で当たったマイケル・チャンだった。その時までに、子供時代からのライバルとは数え切れないほど試合をしていた。僕はただ彼を圧倒し、男子テニス界における最も基本的な筋書きを最後まで進めていった。

僕はフラッシング・メドウでは予想外の決勝進出者、フランス人のセドリック・ピオリーンと対決した。彼は慎重を要するゲームの持ち主だった。動きが良く、対戦相手を戸惑わせるのに有効な、様々なストロークを持っていた。だが同時に、彼には初のグランドスラム決勝戦だった。それはゲームのピーク時における息苦しい状態に慣れていない者にとっては、かなり手ごわい課題となるのだ。

グランドスラム・タイトルのかかった晴れ舞台で、1つか2つのチャンスを掴む者に投げ与えられる思いがけない成り行きは、重要な日には歓迎すべき情況である。自分のベスト、あるいは最も魅力的なテニスをしにくくさせる困難な条件の下でグランドスラム決勝戦を戦うなどとは、誰も夢想したりしない。夢の決勝戦では、太陽は輝き、大気は穏やかで、観客は落ち着きがあり、すべてのフォアハンドやバックハンドにオォォ〜アァァ〜と熱中してくれるのだ。

だが、そのように上手くは滅多に行かないのだ。オープン決勝戦の日は風が強かった―――ルイ・アームストロング・スタジアムでは、常に風が強かったようだが。そして、それは恐らくピオリーンを悩ませたのだろう。僕はこのように考えながら試合に向かった。いかにドラマと厄介な問題を最少にしてこの試合に勝つか? 僕は自分のプレーに集中した。そして彼は大舞台に緊張し、心地よさを感じていないようだった。

僕は6-4、6-4、6-3で勝利した。そしてその試合は、僕がゲームを支配した時期の始まりを表していた。ポイントベースのコンピュータ・ランキング・システムにより、4月に僕がしたように、ジム・クーリエは1993年8月後半に短期間、世界ナンバー1の順位を奪い取った。だが9月までには、僕は再びトップの座を取り戻していた。そして今回は、1年半以上にわたってその座を保つ事となった。僕は自分を統率者だと感じていた。そしてティムは僕にそれを示すよう激励し、僕は無敵だというオーラを強める努力をした。いかなる弱さを見せる事も厭うようになっていった。

1993年の残り、僕は常に追われる立場にいた。幾つかの大試合で敗戦を喫した。ウィンブルドンのライバル、ゴラン・イワニセビッチは、高速カーペットのパリ・インドア大会準々決勝で僕を破った。僕は数週間後の ATP 最終戦でリベンジを果たしたが、決勝戦ではミハエル・シュティッヒに敗れた。それは多くの専門家を驚かせたが、シュティッヒは僕が最も恐れる武器を持つ選手だった。彼は素晴らしいセカンドサーブを持っており、サーブ&ボレーを含めて何でもできた。そして容易で自然な動きをした。それらの資質に、彼がドイツで同胞の前でプレーするという事実が加わっては、対処しきれなかったのだ。

その年最後の出場大会はグランドスラム・カップだったが、伸び盛りのチェコ選手、 ペトル・コルダに決勝戦で大魚を奪い取られてしまった。試合は第5セット13-11(その大会では第5セットのタイブレークがなかった)まで行き、コルダは2百万ドルという巨額の賞金を手にしたのだった。


戻る