第9章 1999〜2001年
ロイを捕らえる(4)


夢のようなウィンブルドンに活気づけられて、僕はホームであるUSオープンでグランドスラム・シングルスタイトル記録を破りたいと思っていた。恐らく僕のテニス力は究極の高みにあり、そして自分のゲームが1990年代半ばには、目立たないながらも一段階上がったと秘かに感じていた。特にセカンドサーブが向上していた。そして誰とベースラインから長く打ち合おうとも、フォアハンドと攻撃性で自分自身のサービスをキープできると感じていたのだ。

ウィンブルドンの後、僕はハードコート・サーキットの序盤で2大会に優勝し、弾みをつけた。その後インディアナポリスでは、ヴィンス・スペイディアとの準々決勝で軽い脚の怪我を負った。僕はUSオープンでのチャンスを危うくしたくなかったので、セットを分け合ったところで途中棄権した。

それは問題なかった。僕のハードコート・ゲームはかみ合っていたので、オープンの前にそれ以上のチューンナップ大会に出場する気がなかったのだ。USオープンが始まる前の金曜日、僕はルイ・アームストロング・スタジアムでグスタボ・クエルテンと一緒に練習を始めた。僕はサーブを打って、返ってきたボールをバックハンドで打とうと身体を伸ばした時、背中に疼きを感じた。それを振り払って、プレーを続けようとした。

だが疼きは鋭い痛みになり、2〜3ポイントの後には耐えがたくなった。僕はコートを出て、まっすぐ医者のところへ行った。その後の2日間、一般的な抗炎症薬の注射と治療を試みたが、効き目がなかった。医者は MRI(断層撮影) を受けるべきだと言い、それによって椎間板ヘルニアが見つかった。

僕は打ちのめされた。USオープンの優勝に自信を感じていた。グランドスラム・シングルスタイトル記録を破る間近のところにいたのだ。さらに、年末ナンバー1の連続記録に7年目を加えたかも知れなかったのだ―――今回は、秋にヨーロッパでデスマッチに取りかかる必要もなく。そのすべては、今や立ち消えになってしまった。僕は何カ月間もツアーから遠ざかる事を覚悟していた。椎間板ヘルニアは、多くの偉大な選手からその後のキャリアを奪った怪我だったのだ。オーストラリアの偉人、ルー・ホードから、元USオープン決勝出場者で滑らかな動きのスロバキア人、ミロスラフ「ビッグ・キャット」メシールまで。

不意打ちを食らったような気分だった。僕はめったにメジャー大会を欠場した事がなかったからだ。自分の不運が信じがたかった。ありがたい事に、ポール・アナコーンは長い間、背中の問題を抱えてきていたので、僕が経験するかも知れない事をざっと説明してくれた。

怪我に対処する事は、競技場のどよめき、競い合うアドレナリンの噴出に慣れているプロの運動選手にとっては、最もつらい事の1つだ。それは非常に憂鬱な経験で、絶望へと落ち込まないためには、精神的にも、肉体的にさえ、すべての意志力と信念を必要とするのだ。僕はニューヨークを去ってロサンジェルスに戻った。そして数カ月間の治療と、基本的にはソファの上で―――独りで―――過ごす事を覚悟していた。

初めのうち僕の状態はとても悪く、ほとんど歩く事もできなかった。文字どおり家に引きこもっていた。日がな一日する事といえば、寝そべってテレビを見るか、読書をするか。そんな時、ハメを外すのはかなり容易だ。アイスクリームと炭酸飲料が詰まった冷蔵庫は近くにあり、10種類のトッピングを載せたピザを注文できるよう発明された道具―――電話もある。だが僕は怠けないと誓って、すぐに治療を受け始めた。それは1日2回のアイシングと電気刺激を受ける事だった。その後には、背筋を強化するための運動と理学療法を行った。それは退屈で、痛みを伴う、つらい努力だった。同時に、自分の身体をもっとケアすべきという警告でもあった。僕は憂鬱を振り払おうと努めながら、たいていは独りきりの自宅でリハビリに励んでいた。

だが、幸先のよい出来事もあった。さもなければ、その夏はひどいものになっていただろう―――僕の怪我は、間接的に僕が妻と出会うきっかけとなったのだ。怪我の間に、僕は友人のジョン・ブラックと映画「ラブ・スティンクス」を見ていた。出演している女優のブリジット・ウィルソンが僕の目を引きつけたのだ。実際に、彼女と会った時には、彼女は僕をとりこにした。とても魅力的に思えたのだ。ジョンは知り合いの多い男なので、僕はいささか皮肉っぽく彼に言った。もし本当にハリウッドに顔が広いと印象づけたいのなら、あのウィルソン嬢と僕のデートをとりつけなければならないよ、と。

数日後、ジョンは僕に仕事は終えたと告げた―――彼は知り合いのブリジットの広報係から、彼女の電話番号を聞いていたのだ。僕は「いいね」と、いたずらかも知れないと用心しながら言った。数日後、僕はブリジットに電話をかけた。電話口で、彼女はとても恥ずかしそうだった。僕が誘うと、彼女は場所はどこでもいいと答えた。恐らく彼女は、僕をチェックしつつ、自分自身については正体を露わにしたくなかったのではないだろうか。

初デートはほとんど悲惨とも言える、とてもぎこちないものだった。我々は2人とも物も言えず、ほとんど目も合わせなかった。それは滑稽だった。少なくとも、我々のいずれか以外の人には滑稽だっただろう。彼女は到着するとすぐに、洗面所を使いたいと言った。そして彼女が部屋を出ていくやいなや、僕はこう思ったのだった:わお、彼女は本当に美しい。もし彼女が2つの単語をつなぎ合わせられるなら、彼女と結婚したいな。

彼女が戻ってくると、僕はぎこちなさを少なくするために外出すべきだと素速く気づいた。そしてイタリアン・レストランでのディナーを提案した。環境の変化―――そして公共の場で中立の立場になる事―――が助けとなった。我々は徐々にくつろいでいき、素晴らしいディナーの時を過ごした。初デートの後に自宅へと帰りながら、僕は夢中になっていた―――彼女がその人だと分かったのだ。我々は一緒に出掛けるようになった。僕は怪我で意気消沈の状態から、自分のテニスの先行きを含め、ほぼすべてについて素晴らしい気分になっていった。

長くゆっくりとした回復の後に、自分が今でも年末の ATP ワールド・チャンピオンシップの出場資格を有していると分かった。僕は8月までに、上位8名の座を確定していたのだった。年末のチャンピオンシップまでには、1試合しか経験を積めなかった。パリ・インドア大会でフランシスコ・クラベットに3セットで勝利した試合だった―――およそ万全とは言いがたかった。それどころか、パリでは次の試合(トミー・ハース戦)を、背中のケイレンのために棄権しなければならなかった―――長い休止期間と関連した、重大ではない問題だったが。

ATP チャンピオンシップでは、あやうく予選落ちするところだった。ラウンドロビンでの2人目の対戦相手はアンドレで、僕をドラムのように打ちすえたからだった(6-2、6-2)。3戦目では、ニコラス・ラペンティが僕を2セットともタイブレークまで追い込んだ。だが両方とも頑張り抜いて、ラウンドロビンを生き残った。1戦目でグスタボ・クエルテンに勝利していた事もあって、僕はノックアウト方式の準決勝へと進出した。準決勝でニコラス・キーファーを下した後、再びアンドレと対戦した―――彼が僕を2、2で片付けてから1週間も経たないうちに。今回は僕がストレートセットで勝利し、彼を驚かせたのだった。

ハノーバーでは僕が勝利したものの、アンドレは1999年をナンバー1で終え、僕の記録に終止符を打った。それは彼の活躍に充分値する大成功だった。アンドレはその年、キャリア的には墓場から甦り、フレンチ・オープンで優勝を果たしていた。さらには、僕が痛む背中の治療に努めながら自宅のソファに横たわっている間に、彼はUSオープンのタイトルも獲得したのだ。我々自身はよく分かっていなかったが、我々のライバル関係は最後の、そして最も素晴らしい段階にさしかかっていたのだった。

2000年の初め、アンドレはオーストラリアン・オープンの準決勝で僕をノックアウトして、その事を証明した。僕はすべてのメジャー大会を気にかけてはいたが、敗戦にはそれほど傷つかなかった。実のところ、以前とは違って僕は自分をいたわり、出場の機会を限定するようになっていたのだ。パット・ラフター、レイトン・ヒューイット、ロジャー・フェデラー、カルロス・モヤ、マラト・サフィン等を含め、 才能ある多数の若い選手たちが、危険なゲームを進化させ始めていた。それらの新しい男たちは僕、アンドレ、ボリス、ゴラン、ジム、マイケル・チャンといった「老兵」をさんざんに打ち負かすようにもなっていた。僕は今でもメジャー大会で優勝できる、その事に疑いは持っていなかった。エマーソンの記録も未決事項だった。だが、僕はキャリアの下り坂にさしかかっていた。そして自分でもそれを承知していた。


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