第5章 1993〜1994年
炎の下に秘めた品位(8)


「ウィンブルドンは退屈である」というテーマは、もう1つのストーリーを付随的に生み出した。「サンプラスは退屈である―――そして彼の支配はゲームへの脅威である」と。僕は関心を勝ち取る素晴らしいテニスをしたが、心は勝ち取らなかったと非難された。僕の試合後には、タブロイド紙は単純な見出しをつけた。 SAMPRAZZZZZZZZ………と。僕は仕事に取り組むにあたって重要なのは試合に勝つ事だ、大騒ぎをしたり注意を引く事ではない、と考えるよう育てられてきた。今や、良い事は退屈、そしてテニスへの脅威となったのだ。

そういった記事を読むのは楽ではなかった。そして記者会見で最も話題にしたくない事だった。僕が何を言おうが、自己弁護、自己正当化、あるいはその両方にならざるを得なかった。僕の並はずれた自制心を、感情の欠如を証拠だてるものだと解釈する人々もいた。これはかなり横柄だと僕には思えた。もちろん、僕には感情があった。それをどうやって抑えるかを知っていただけだ。コート上では本当にそうだった。短気や感情の爆発で知られる事は、スポーツの世界では決してほめられた事ではないのだ。

ジョン・マッケンロー、ジミー・コナーズ、ボリス・ベッカーのような選手は、率直に感情を発散するがゆえに多くのファンを獲得した。彼らはベストのプレーをする―――あるいはそう思える―――ために、そうする必要があるのだと僕は理解していた。そして、もちろん、それを真似る者を生みだし、そういった者たちの存在に興味を上乗せした。僕はそれを妬んだり、うらやんだりした事はなかった。だが同時に、僕と彼らが陰陽の関係であると、メディアはもっと正しく理解する事もできる筈だと感じていた。

テニスでは、常に2人の対戦相手がいる―――もう一方の男と自分自身だ。もう一方の男については、彼が放つショットに対処する以外は、あれこれ悩む事はできない。克服すべき最も重要な相手は、自分自身なのだ―――疑い、恐れ、ためらい、そして諦める衝動に陥りやすい自分の一部。もしある選手たちのように、自分自身との戦いにかまけていると、対戦相手を倒す事はほぼ期待できない。

卓越した者になりたいのなら、自分自身の問題に片を付け、明快な心でプレーしたいのなら―――対戦相手を屈服させる事にひたすら心を砕くのだ。ジョン・マッケンローのような人種は、規範というよりは、むしろ例外なのだ。大方の選手と同様に、僕は常に対戦相手の感情的な爆発を好機と捉えていた 。相手が平静を失い始めると、自分が彼のゲーム、あるいは心に影響を与えていると分かった。

また、僕は評価される、あるいは理解されるよりも、チャンピオンでありたかった。そして模範的な選手になる事を厭わなかった。生まれ持った才能の可能性をすべて出し切りたかった。そして僕に分かるそのための唯一の方法は、自制心によるものだった。そして、もし自分の可能性を充分に生かし切れば、評価や理解はそれに伴ってくるだろうとも信じていた。それが成功への僕の青写真だった。そして、それが上手くいき始めると、反動を引き起こしたのだった。マッケンローやジミー・コナーズのような男が、テニス界には「個性」が欠けていると嘆き回っていた事も、プラスとはならなかった。

実際、僕はその問題に関して、マッケンローとロッカールームで一風変わった対峙もした。当時ジョンは引退したばかりで、テレビ解説の仕事をしていたが、ロンドン・タイムズという新聞に短いコラムも書いていた。そのウィンブルドン雑記の中で僕についてふれ、僕を退屈だといくぶん非難し、そして「もっと個性を見せる」事について、父親的温情主義(干渉)のアドバイスをした。つまり、僕はこうあるべきだと彼は考える、というのではなく、僕が僕である事を難詰していたのだ。そもそも、テニス選手は個性(もしそう呼びたいのなら)を見せなければならないと誰が言ったのか? 僕は人気コンテストで勝つために、自分がどれほど面白い人間かを示すために、あるいはエンタテイナーであるためにテニス界にいるのではなかった。自分にできる限りの最高レベルでテニスをするために、そしてタイトルを勝ち取るためにテニス界にいたのだ。テニスは僕の初恋であり、同じくプロとしての職業だった。それをショービジネスと混同させはしなかった。もし僕のゲームが記憶されないのならば、自分自身を律する様を記憶されたかった。それも記憶されないのならば―――何も記憶されたくなかった。

僕はこの問題について気分を害しており、それがジョンに伝わった。そこで彼はウィンブルドンのロッカールームにやって来て、腕を僕の肩に回し、顔を近づけてきた。彼はこのような事を言っていた。「ピート、悪気はなかったんだよ、ねえ君………。ただ君にこうしてほしい、もう少しこれを見せてほしい、あれをしてほしい………」と。その間じゅう、僕は考えていた。これは変だ。この男は基本的に、僕がもっと彼のようであるべきだ、僕は退屈でテニスのためにならないと言っていたのだ。そして今や、彼は僕の素晴らしい相棒であるだけでなく、アドバイスさえ口にしている。彼はそんな事は一大事ではないと考えているみたいだ。僕はジョンを許す事ができた。彼はもともと、かなり言いたい放題をしてきたし、我々はデビスカップのパートナーとして素晴らしい時を共有してもきた。だから非常にやりにくかったが、僕は人に左右されるわけにはいかなかった。我々はこの問題について少しばかり話し合い、僕はジョンにはっきりと、干渉しないようにと告げた。冷静さを失わずに、あるいは動揺せずに。今日に至るまで、僕はジョンが何を考えていたのか分からないが、同じく、彼がした幾つかの事についても説明はできない―――説明できる人がいるのかも分からない。

何年も経つうちに、僕はコート上でもっと感情的になっていった。僕はそれを異なった方法で示した。ジョン・マッケンローが満足したに違いない幾つかの事も含めて。だが全体的には、かなり自制心を働かせたままでいた。僕なりの癇癪、あるいは野蛮な拳の突き上げ、雄叫びは、トレードマークのジャンピング・オーバーヘッド・スマッシュだった。それは僕が送りつけるメッセージだと感じていた。

活気のない態度になる事はあっても、冷静なアプローチが減じる事はなかった。だがゴランに勝利したおよそ6カ月後に、思いがけなくも、ついにそのツケは健康上の問題となって現れた。


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