第5章 1993〜1994年
炎の下に秘めた品位(7)


芝のシーズンでは、トッド・マーチンがクイーンズ・クラブの決勝戦で、2つのタイブレークの末に僕を倒して優勝した。それから、苦労して手に入れたタイトルを守るために、僕はウィンブルドンへと移動した。僕はサーブ&ボレーで勝ち進み、トッドに対して1セットを失っただけで、ゴラン・イワニセビッチとの決勝戦に進出した。

芝ではキャリアを通してそうしたように、ゴランに対して全力で臨んだ。ウィンブルドンにおけるゴランの活躍は、彼が左利きである事によるところが大きかった。その生来の強みは、彼のファーストサーブをいっそう優れたものに、そして僕のサーブよりも効果的なものにした。本当にそうだったと僕は考えている。ゴランのサーブが勢いに乗ると、芝ではリターンがほぼ不可能だった。彼は何度も対戦した選手の中で、自分が彼のなすがままになっていると感じさせられる唯一の男だった。ウィンブルドンの偶像的存在、ボリス・ベッカーに対しては、そのように感じた事はなかった。

だがセカンドサーブは僕の方がゴランより良かった。そして僕が彼を倒すカギは常に、自分のサービスゲームをキープして彼のセカンドサーブを攻める事だった。ゴランは僕のサービスゲームに途方もないプレッシャーをかけてきた。彼は通常、自分のサービスゲームを楽にキープしていたからだ。僕は自分が彼に対して1回でも不安定なサービスゲームをして破られたら、そのセットを失うと感じていた。僕が芝生のゲームを理解してからというもの、僕にそんな風に感じさせる事のできる選手はほとんどいなかった。それは精神的にとてもきついものだった。同じくゴランのサーブは、彼がリターンする時にも大いなる利点となっていた―――彼はリターンで大胆にやる事ができたのだ。彼がたまたま2ポイント連続して上手いリターンを打つと、僕は0 - 30となった―――そこからは何だって起こり得るのだ。

決勝戦は暑い日で、信じがたいほどの速いテニスとなり、ボールは超高速スピードで飛び交った。それはガンファイトだった。我々は半ばラッキーなリターンがポイントに結びつく事や、エラーを何とか引き出す事を望みながら、見えないほどの弾丸をよけ合っていたのだ。その類のテニスには、断固とした態度と猛烈な集中力を必要とする。僕はタイブレークで五分五分より少しだけ堅実さを示した。そして僕が2つのタイブレークに勝った後、ゴランは崩れた。僕は7-6、7-6、6-0で勝利したのだった。

その試合は芝生のテニスについて、増大する論争の最高点となった。ウィンブルドンのテニスは2人の巨人によるサーブ・コンテストへと堕落し、ほとんどサービスゲームを失わないが、ブレークする事もできないと、批評家は声をそろえて非難した。ゴランと僕はそのトレンドの典型だった。我々のビッグサーブとポイントを速く終わらせようとするやり方は、ウィンブルドン論争の嵐をさらに激化した。

ウィンブルドンにおけるテニスは不適切なものになる危機にある、と言う専門家もいた。進行中の技術革新により、パワーメーターの針をレッドゾーンに追いやるような、さらにパワフルなラケットをすでに生産していたからだ。タブロイド紙さえも議論に参入し、著名な政治家などがロイヤルボックスで鼾をかいている絵を掲載した。表向きは、それはゲームがプレーされる方法と関係があった。

だが皮肉にも、僕は進化するラケット技術を利用した事はなかったのだ。僕がジュニアの頃に使用していたラケットは、ウッドのウィルソン・ジャック・クレーマー・プロスタッフだった。短期間、クナイスルとドネイを使用した事もあった。だがそれらのラケットは、僕がキャリアを通して使い続ける事になったラケットと本質的には同じだった――― フェース面積85平方インチのウィルソン・プロスタッフ85 グラファイト(入手可能な最小のもの)と。それは僕がそのラケットで最良の結果を出すよりもずっと以前に、いかなる「鋭利な有効性」のアピールも失っていた筈のラケットだった。

僕のフレームはすべて、ネイト・ファーガソンによって特別仕様にされていた。彼は高品質の特別仕様を職業化した男、ウォーレン・ボスワースの下で働いていた。僕のラケットはすべてリード(鉛)テープで重量を増し、バランスを整えられていた。同じくグリップにも手を加えていた。僕は太いグリップ―――4 5/8〜4 3/4―――を用い、かなり大きなバットキャップを気に入っていた。そのグリップにいつもトルナ・グリップを巻いていた。僕はラケットの調整にはかなり神経質だったと言える。キャリアの早期には、大会ごとにストリンギング・マシンもストリンガーもまちまちだったため、適正な仕上がりのものが得られるよう4〜5本のラケットを張ってもらわねばならなかった―――もし適正な仕上がりになれば、だが。僕はいつも拙い、あるいは一定しないストリングスの張り方が試合に響くのではないかと心配していた。だから大きな勝利を挙げ始めた時に、少しばかり金を使う事に決めた。ネイトを雇ったのだ。

ネイトはラケット担当として僕と共にツアーを回った。そしてストリンギングもすべてこなした。僕はストリングスのテンションにも非常にこだわり、そして最も細い17ゲージのガットを使用していた。クレーでは32〜33キロ(70.4〜72.6ポンド)、芝生では32キロ、速めのハードコートでは34キロ(74.8ポンド)のテンションで張った。細いストリングスと高いテンションのために、ガットは時にばかげたタイミングで切れた―――真夜中に切れて、その音で目覚める事もあった。ある年には、700セット以上のガットを使用した(ガットは小売り値で1セット約35ドルだった)。僕は試合ごとに新しく張られたラケットを要求した。つまりメジャー大会で優勝すると、2週間で少なくとも56セットのガットを使用した事になる。フレンチ・オープンでは、試合後にガットを張ってもらい、たまたまオフの日に雨が降ると、そのガットを切って、プレーする前に再びガットを張り直してもらった。

年月が経過する中で、僕は金を提示された―――時には大金を―――ラケットを替えるようにと。幾つかのモデルを試す事はしてみた。だが同じ感触のものはなかった。これは恐らく僕の思い込みによるところが大きかったのだと認めよう。その一方で、ラケットやクラブを変えた挙げ句、惨めな結果に終わったテニスプレーヤーやゴルファーの話も多く耳にする。ウィルソン社は僕の感触を大いに気遣い、プロスタッフ85を僕のために確保しておいてくれた。僕はこの問題についてとても潔癖だったので、数年の間、ウィルソンと正式な契約に至らず、基本的には報酬を受け取らないまま、そのラケットでプレーした。

今になってみると、キャリアの後半に大きいヘッドのラケットに変えていれば、助けになっただろうと思う。僕のラケットは芝には最適だった―――小さいヘッドと高いテンションの細いストリングスにより、非常に正確だった。だがクレーでは、より大きな誤差の範囲を持つ事は恩恵となるのだ。僕のラケットのスイートスポットは、3〜4平方インチしかなかった。大きなヘッドと異なるストリングスを用いたら、僕はコート後方からはるかに多くのパワーとスピンを生み出したかも知れない。現在の選手たちのようなプレーをしていたかも知れない。

どうなったかは何とも言いがたい。だがいずれにしても、僕の小さいヘッドのラケットが芝生では理想的な道具であった事は確かだ。テニスが校庭での殴り合いに変わる危機にあると主張した批評家には、一理あったのだと認める。芸術性という点では、ゴランと僕の決勝戦は落第だった―――もっとも、それは我々のプレースタイルゆえというよりも、ゴランと僕という特有の対戦ゆえだったと今でも考えている。芝のコートにおける他の対戦相手に対しては、違ったのだ。

考慮すべきもう1つの問題がある。長いポイントが必ずしもゲームへの興味を増すものなのか、僕には分からない―――いちかばちかのショットではなく。人々は長い間、クレーでの果てしない、時には無目的にさえ見えるラリーを見る退屈について不平を言ってきた。コートスピードとプレースタイルの組み合わせが、テニスの大いなる長所ではあるが、その伝統に隠された1つの短所は、サーフェスによっては一本調子のテニスを生み出す対戦も時にある、という事なのだと僕は思う。

アンドレ・アガシが例えばパット・ラフターと対戦した時、「速すぎる」とか「退屈だ」と不平を言う者は誰もいなかった事に注目してほしい。そして2人の粘り屋が5時間のラリーコンテストをした時、レッドクレーの栄光について熱狂的に語る者は誰もいなかった。ゴランと僕はしばしば対戦したが、ウィンブルドンでは理想的な対戦相手ではなかったのだ。我々による1994年の試合の結果として、ウィンブルドンはより柔らかく、より遅いボールを使用する事になった。そして最終的にコートスピードを遅くして、もっとラリーに向いた新しい芝生の混合を開発し始めた。


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